『魔法学園と戦の影』編

第1話 変鉄ない朝

 ――師の髪の色を、アリアスは他に見たことがなかった。ずっと見たことがなかった。しだいにそれは特別な色なのだろうという認識をするようになってきていた。けれども、つい先日その色を目にした。しかし、漆黒の色を持って現れたのは『人』ではなかった。


 ときに現在いま、その色を垂れ流しにしてソファに寝そべっている姿がアリアスの目線の先にあった。


「どうしてソファで寝るのかな……」


 隣の部屋にはベッドがあるのに。とアリアスは窓を覆う布を引いてまとめながらぼやく。もしかしてそこまで行くのが面倒だとでも言うのだろうか。あり得ないとは言い切れない。

 それはさておき、読みかけか、本を開いたまま腹の上に伏せさせている師にとりあえず近寄っていく。

 アリアスが部屋に入ってきても歩いて足音をさせていても近づいても彼は全く動かず起きる気配はない。閉じられているだろう瞼は上に乗せられている腕で定かではない。でもまあ寝ていることは間違いない。それも熟睡。

 しかしアリアスは一切躊躇うことはなかった。


「師匠、起きてください。朝です」


 呼び掛け、その間にソファの脇に立つ。

 身じろぎひとつなし。


「師匠」


 声を少し大きめにするも、効果はないようだった。

 別にジオはさすがに毎日毎日こうというわけではない。だがたまにこうして起きていないときは完全に熟睡、起きる気配なしということがある。もちろんアリアスが朝に来ないときにも。

 しかしながら、ときどきにといっても何年も同じような生活を続けているアリアスにとってはもう見慣れすぎて呆れるしかない光景だ。

 夜更かししたのかどうかは不明だが、それにしても次の日のことを考えて欲しいものである。


「起きてください」


 だから、仕方なく揺さぶることにする。白いシャツを身に付けた肩を軽く揺すり何度目かの声かけ。

 そのため、さらり、とジオの長い後ろ髪が一筋流れた。そうして床に垂れる。

 反射的に目を移した、漆黒の髪。

 ――この人は、なのだろうか。

 ぽつんと浮かんだことに、無意識に手を止めていたアリアスはふるりと頭を軽く振る。待つと決めた。短くない時間見ていた、その師はどうであれ師であると。


「……お、」


 そのとき確かにすぐ側から声がして、動いた腕の下から現れた顔。瞼の下から半分ほどだけ覗いた紫の目は本当に鮮やかで綺麗なものだ。

 アリアスは手を離した。


「アリアスか」

「……そうです。朝ですよ師匠」

「さっき寝たような気がするんだがな」

「知りませんよ」


 暗に起きたくないと二度寝しそうな師の言葉を腹の上に乗せられている本を取りつつ却下する。ソファの背の方に向こうとしないで欲しい。そのために本を取り除いたのではないのだ。


「師匠」


 アリアスはじとりとした目と声でそんなジオをとがめる。


「分かった分かった……起きる」


 効果あったようで、渋々といった声と共にジオはゆっくりとであるが身を起こす。

 その彼を尻目にアリアスが部屋を改めて見渡すと、本が数冊転がっている。ピークのときと比べると散らかっていないも同然である。ひょいとさっそく一冊拾い上げる。


「今朝は会議はないんですか?」

「ある」


 あるのか。

 あまりにするっと言われてもう少しでそうですかと流してしまいそうだった。アリアスは屈めていた腰を直ぐ様伸ばしてジオを振り向いた。

 まだそれほど離れない内にだったわけで、二メートル先でソファに腰かけているジオはゆったりとしたものだ。


「それなら早く行ってください!」

「急かすな、会議は逃げん」

「時間は過ぎます」


 どういう理屈だ。

 けれども、そのやり取りでジオはようやくソファの足元に転がされていたブーツを手に取り履き始める。行く気はあるようだ。

 でも、アリアスが来なければ眠ったままだった可能性があるので、行かなかったのだろうか。最高位の魔法師であるのに、とんでもないことである。

 アリアスはため息をつきたくなった。実際にはため息は吐かれることなく手近な本棚の隙間に手にある本を入れることで代用された。

 それはそうと、部屋に落ちている本は実に少なく一通り部屋を歩き回るだけで腕の中に収まり切らないということなく済んだ。

 一方その頃にはジオはジオでソファから立ち上がって軽く伸びをしているところだった。

 そしてその腕が下ろされるとき、何となく師の様子を見ていたアリアスは嫌な予感がした。そう、会議ではあるというときに部屋から出るためにドアに向かうのではなく、移動手段として彼が最も用いる手段。


「ちょっ、師匠、待ってください服はちゃんと着ていってください!」

「着てるだろう、服は」


 そうではなくて、上着は着て行ってくれということだ。

 しれっとした返しがきたあたり、やっぱり魔法で飛んで行こうとしていたのだと思う。

 その師の服装は軽すぎるもので、アリアスだって部屋にいるだけならば何も言わないが、地位というものがあるだろう。部屋から出るのなら少しは気にしてくれてもいいのではないか。

 アリアスは師が止まっていてくれている間に本をその場に置いて、上着を探す。どこかにあるはずだ。


「あった」


 見つけた上着は執務机の備え付けの椅子に無造作にかけられていた。取り上げたそれには皺ができている……が、まだましな方だ。替えのものはたぶん隣の部屋にあると思うが、どうもそのまま飛んで行かれる恐れがあるのでアリアスは迷ったがそれをそのまま渡しに行く。


「ん、悪いな」

「そう思うなら、そのまま行こうとしないでください」


 それから皺にならないように服はかけて頂きたい。

 上着を受け取ったジオはばさっとそれを羽織り、腕を通したか通さないかという内、魔法の光が彼を包み込んだ。

 とっさに、必要はないものの一歩後ろにアリアスが下がったときにはその姿は部屋にはなし。

 今度こそ、ジオは魔法で飛んで行った。


「会議始まってないといいんだけど……」


 そういえば、寝癖はなかっただろうか。確認しなかったが、さすがにそれはいいか。

 長年あれであれば他の方々も気にしないだろうか。それはそれで何だか……。

 アリアスは置いていた本を再度拾って本棚の空きを探す。


「あ、」


 そもそも魔法を城で無闇に使ってはいけない。

 気がついたことは、もはや今さらのこと。思わず師がついさっきまでいたソファ方面を向いたが、当然姿はない。


「だめだなぁ」


 いけない。慣れるとこうして自然に見過ごしてしまうときがある。

 アリアスは本棚に向き直った。

 とにかく、今日も会議はあるようだった。

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