第18話 奇妙な空間
影に飲み込まれた、としか言いようがなかった。
足元にきた影――男の足元に繋がっている影であるはずのものはその形をぐにゃりと変えた。途端、アリアスは足から沈んでいく。それは抵抗する間もない時間で、それから目にしていても理解が追い付かなかった。落ちる感覚と影の黒に染まる視界、確実に存在感を増す恐怖。
「勝手にやってくれるなよなァ……え、ちょッ、あんたどっから、今入られると困」
男の声が聞こえた気がするが、もう視界の端まで真っ黒に染められる間際で伸ばした手も見えないアリアスには気にする暇はない。
でもその中、自分でも見えない手をぎゅっと掴まれた。誰のものかあの男のものかなどとは考えず、アリアスはとっさに握り返した。
この手を知っている、と感じて視界はとうとう真っ黒に塗りつぶされた。
*
知らず知らずの内に目を閉じてしまっていたことを知った。そして、背中側が何かに支えられて、横たわっている状態であることも。
そこで、アリアスは恐る恐る目を開く。
「……ここ、どこ?」
アリアスがいたのは、端的に表すると色の感じられない場所であった。それでも色としていうのなら、灰色と黒の間のような、それでもそんなぼんやりとしたもの。
アリアスは周りをくまなく見渡しながら身を起こす。
暗い、とは思うけれど真っ暗ではない。ただ広さとかいう感覚が失われ、どこまで続いているかも、分からない。区切りがない空間。
自分は城の通路にいたというのに、どういうことだ。空間移動の魔法か。でも、魔法の光は見えなかった。
見る限りで、黄土色の髪のあの男の姿はなかった。
その代わりに目に入ったのは、
「ゼロ様!?」
見慣れてきた軍服姿のゼロの姿が一メートルほど離れたところにあった。アリアスは驚いて目を見張り、彼に近づく。
両膝をついて見下ろしたゼロは横たわったまま眼帯に覆われていない灰色の色彩を閉じていた。
「ええぇ、どうしよう」
ゼロがこんな状態になっていることに動揺する。
大丈夫だろうか。ここがどこかは定かではないが、移動したという事実から考えてもしかしてやはり過程としては信じがたいが空間移動の魔法だったのだろうか。直前までまさにアリアスだけだったはずだから、その途中に入ってきて何か影響を受けたのだろうか。
とにかく様々なことが駆け巡っておろおろとする。
「ゼロ様……」
空間移動の魔法は高等魔法だ。未熟な者が使えば対象が物であれば、物は移動することさえ出来ないか元の形を保って移動されない。けれど、人の場合は――
アリアスは手をそっと上げてゼロに触れる。呼んで、揺する。
すると、アリアスの不安とは裏腹にゼロは一度目の呼び掛けでゆっくりとその瞼を上げた。
現れたのは、片方だけの灰色の光彩。開いたばかりの目はどこかぼんやりしているようだ。
けれども、彼が目を開けた事実にアリアスは身を乗り出す。
「だ、大丈夫ですか? ゼロ様」
「アリアス……」
目は、こちらを向いた。
不安げに様子を窺うアリアスとゼロの間にそのまま五秒ほど時が経つ。
「大丈夫ってのは俺は大丈夫だけどよ、」
それからゼロは軽く笑って、ゆっくりと上半身を起こした。
アリアスはぺたんと尻をつけて座り込む。
「大丈夫かってのはこっちの聞きたいことだ。びっくりした、手が届かないと思ったぜ」
彼が起きたときに中途半端な位置で浮かせたままだった手を片手で包み込まれる。
ああ、飲み込まれると感じたあの瞬間自分の手を握ってくれたのはやはりこの人だったのか。とアリアスは確認する。
「でも、危ないじゃないですか、もし、」
「悪い、俺も柔だった。少しとはいえ気い失うなんてな」
「そういうことではなくて、」
もしかしたら人だって物のように、なっていた可能性もあるのだ。
ゼロが倒れているなどという想像もつかない場面を見て、口をついて出ていたそれらは、
「手え届いて良かった」
そう言われて、奥に固まって引っ込むことになる。わずかに握られている力が込められる。
得たいの知れない空間。
ゼロは驚くほど落ち着いていて、決して城ではない周りをぐるりと確認している。
その様子に、手の温もりに、温度を感じない周りを目にしたときに生まれていたものは収まって、ほっとしてしまう。「もしも」のことを考えて責めかけていたのに。安心していくことを感じる。
一人でここにいたら、どうしていただろうか。彼が一緒にいてくれて、良かったと思ってしまう。
「ここは……飛ばされたのか」
ゼロは一通り周りを見て呟き、次いで目線を下に落とした。
「しくじったな、仕留め損ねた」
からんと音がしたことに意外感。足場があるけれど空間の異様さから、音なんて立たない場所だと無意識に思い込んでいたのだ。
ゼロは左手に抜き身の剣を持っていたがそれから手を離したと分かる。
それから、真剣な顔つきでアリアスの方を向いて、
「あの男は誰だ? まさか知り合いじゃあねえだろ」
と尋ねてくる。
「あの男」とはきっとこんなところ来るまで自分の前にいた男のことだろう。ここに共に来たことを思えば男の姿を見ていてもおかしくない。本当に飛び込んできてくれたのだ。
そしてもちろん知り合いなどでは全くない。誰だ、と言われても。
「分かりません、知らない人です。でも、」
アリアスは答えようとして息が少しだけ乱れて、言葉を一旦切る。息を吸って続ける。
「侍女の方を、おそらく、殺したと」
「何だと?」
男の姿と異様さと付随して、おそらくさっきのことなのにまるで一日は経った感覚の記憶を思い出して見下ろしたのは握られている方とは逆の手。その手には、赤色。確かに今までのことが現実であったと指すもの。
血濡れた短剣。手。服。靴。
見つめる色に重なるそれら。
言い様のない感情が生まれて、奥歯に力を入れる。
男が言った、聞き捨てならないことを。『さっき協力願った侍女さんに会いに行ってきたからなァ、汚れてるのは勘弁してくれよ。魔法で殺すなんて一辺倒は頭悪いから仕方なかったんだよなァ』乾ききっていないそれを拭わず、刃が汚れたままの短剣を目の前につきつけて、言った。
「血のついた短剣を持っていて……さっき殺したと」
どうにか要約してアリアスは言い切った。
この手を濡らす血は、侍女のものなのだろうか。と、あの場では頭がいっぱいで考えつかなかった考えに辿り着く。辿り着いてしまう。
手が震えそうになって握り締めて押し留めようとする。
けれど、その前に手が掴まれる。握られていた手から離れた手がそうした。
言わずともゼロが動いたわけで、取られるままにしていたら軍服の袖で手のひらを拭われる。
「ゼロ様……汚れますよ……」
「構わねえよ。血の汚れには強い仕様になってるしな。……もう忘れろって言っても無理だよな」
アリアスが手を引くより手早く彼は行動を終え、手のひらを撫でた。アリアスの血ではないのに、傷がないのを確かめるように。
別にアリアスは侍女とは知り合いであったわけではない。まさにあの日、あのときに会っただけだった。会話も会話と呼べるかどうか、そんなにしていない。
けれど、どうしてこんなことになったのか。あの男は、何者なのか。なぜそんなことをしたのか。
昨日起こったばかりのことなのに。それが一番大きいと、きっと思う。
「……すみません、色々上手く整理できていなくて」
「こればっかりはあんまり深く考えんな」
「……はい」
言葉を頭に、返事を落とす。
「そうか侍女をか……とりあえずあの男は諸々の理由で締めねえといけねえみてえだなあ」
一度離れた手が伸びてくると思ったら、次は親指の腹で首をぬぐわれる。短剣の先が刺さったのだったか。痛みはないに等しい。
最近喉に負担がかかりすぎていないだろうか。とされるがままの状態でアリアスはそんなことを思う。
「何された?」
と親指を離したゼロは問うた。
アリアスは首を拭うときに同じくらいの目線になった彼に、下げていた視線を上げて首を傾げる。
「結構距離近かったし怯えた顔してたから。短剣突きつけられてたろ。他は」
「何も……ただ、」
大きなことはもう言った。
でも、あと気になったものがあった。
黒い魔法石。
どこから何が話していたのか、不気味な声。不気味な声はこの際伝えようがないから、置いておく。
「あの人、黒い魔法石を持っていました」
「黒い魔法石? それってこんくらいの、全然光反射しねえやつか?」
ゼロが指で大体の大きさを形作る。その大きさはほぼ違わずアリアスが見たものと一致したから、頷く。
「その男、何か……おかしいところなかったか?」
その肯定の印に、ゼロが途中表現に迷ったように言い淀んだが、結局そう聞かれた。
しかしアリアスは実際にも内心でも首を捻るしかない。おかしいところ?
……もう残った心当たりはあの、男と会話していた『声』くらいなのだけれど。果たしてこれは言うにあたるものであるのか。
とかなり迷っていたら、ゼロが発言を撤回した。
「でもまあ、とりあえずここから出るのが先か」
「……大丈夫ですか? ゼロ様」
ゼロは額に手をつけて息を吐いていた。
気だるげな様子が見え隠れしているのは、はたして思い込みか。
初めに頭に浮かんでいた推測が当てはまっているとかでは。と何か反動でも受けてしまっているのではないかという考えが再度頭をもたげてきて、今度はアリアスが聞く。
そうしたら、ゼロは立てた膝に腕をついてこちらにじっと視線を向けてくる。ただ、じっと。
「なんですか?」
「好きだなって思っただけだ」
「い、いきなり何言ってるんですか」
何を言うのかと思えば。アリアスは真剣に聞こうとしていたのに、言葉がつっかえてしまった。さらっとした不意打ちと一緒に顔に熱が集まる。
こんなときに何を言っているのか、本当に。
その彼女の様子にゼロは笑って立ち上がってアリアスに手を差し伸べてくれた。その手を取って立ち上がる。
それにしても、「ここから出るのが先か」とは出られる、ということか、これから探すということか。
どちらを指しているにしても、不安といったものは感じられず自信的なものを感じるのはもうすごいとしか言いようがない。
周りは変わることのない、どこ、というより何なのかが分からない空間。
剣を鞘に収めるゼロを見上げる。
「ここってどこ……何なのでしょう?」
「ここは、たぶん空間移動の魔法を使う際、場所から場所へ移動する間に通る空間だ。移動中に横槍入れたから俺たちだけが放り出されて、あの男はいねえんだろうな」
「来たことがあるんですか?」
「さすがにねえな。普通失敗したとしても魔法が発動せずにその場に残るはずだからな。今回は何て言うか、魔法が強引だった。魔法の力は足りるが、方向性だけぶれた感じがする……っていうのは全部俺の推測だけどよ」
そんな空間が。ここを仲介して空間を移動しているというわけなのか。
アリアスは改めて周りを見渡す。
ここそのものが魔法的空間ということだろうか。
「ここから出られるんですか?」
「――最終的に出られるっていうか出ることは約束する」
そう言うが早いかゼロは「出やすいところ探すか」と歩き始めた。
けれど、アリアスは最後に「絶対」と付け足した彼のその灰色の目がどこか曇った気がして思わずその袖を掴む。
「どうした?」
彼は振り向いた。
「あ、あの、」
「心配すんなって」
アリアスの行動と何を言うかは考えていなくて言葉が詰まった状態をどう思ったのか、さっきと同じく笑った。でもその感情を、アリアスは上手く読み取ることは出来なかった。
なぜ、あんな目をしたのだろう。
でも、それとは異なり背中は変わらなくて、だからとにかく、彼について歩くことにした。
「
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