第7話 好転の兆し
「全然元気にならない……」
アリアスは呟くと共に、呻く。
その声は小さいことと、他の人との距離が開いていることもあって彼女自身以外には届くことはない。
魔法具――正確には今回は石だけなので魔法石と言うべきか――から魔法を発動し、注ぎ込むこと約三時間。だが、体感時間であるのでもっと時間は経っている可能性がある。
アリアスは空を見上げるが、太陽の位置がどれくらい変わったかは覚えていなかったので分からない。少し、雲がかかっていることも作用してはいるか。
アリアスには見上げた空の色がそれでも目に染みるようであった。ずっと同じ色を見ていたのだ。やや明るめの茶色の鱗。その色をまた目に捉える。竜は動かぬままだ。どういうことだろう、もう使用する魔法石はいくつめかに入るというのに。
「魔法は注げてると思うんだけどなぁ」
左の手のひらに乗せた大振りの魔法石をじっと見つめる。しかし、そうしていても何にもならないので、しゃがみこんだ傍らの地面に置いている、紐が解かれたままの袋を見下ろす。そうしながら、こめられていた魔法を使いきった石はそっと地面にそのまま置く。緑の輝きが並ぶ。
その表面に、映る自身。
これには魔法が籠っていたはずなのだ。はず、というより実際籠っている。確かに力は流れ込むからだ。けれど、竜は一向に元気になる様子がない。
アリアスは無造作に布製の袋に手を突っ込む。
同じタイミング、竜が苦しげに鼻から息を吹き出す音と気配。苦しげ、と感じただけかもしれないが、アリアスは立ち上がって竜の大きすぎる顔を覗き込む。そのまま、宥めるような手つきで鱗を撫でる。
この状況という先入観からか、表情なんて分からないはずなのにその目の閉じられた顔さえも険しく見える。
どうして。撫でる手から、魔法を注ぎ込む。花に注ぐようにそっと。しかし、もどかしさも手伝って身体の奥底から思いっきり力を出すくらいに。濃密に。
そのとき、目の前の瞼がゆっくりと上げられた。
「……あ」
「駄目だよ! 全然変わらない!」
その場は静けさに満ちていた、とアリアス気がついたのはよく通る女性としては低めの声によってだった。
ぱっと手を離して見ると、エミリが遠くで腰に手を当てている姿があった。それと、周りの変わらぬ光景。同時に、アリアスは作業を始めてから一度も他の様子を見ていなかったことにも気がついたのだった。
彼女の後ろでは、竜がその橙の色彩を覆ってしまうところであった。
「魔法がそのまま通り過ぎてるんじゃないかって思うくらいだよ」
『巣』の土地のほぼ中央。灰色の竜が一番近い場所にいるそこに九人は集まっていた。
表情は皆固い。それはそうだ、魔法での回復に当たって数時間。これといった成果が誰にも見られていなかったのだ。依然として、竜は一体もその場から動いていない。
「悪くなっていってはいない」
ルーウェンが言った。
「そうですね。それは防げているのかもしれません」
治療専門の魔法師であるという一人も口を開き、同意する。
「だが、想像以上にまずいな」
回復出来ない、それは予想もしていなかったのだ。ルーウェンが顎に手を当てて考え込んでいるようだ。
「原因が分からなければ駄目か」
「ですが、『巣』の周りにもここにも変わったことは……」
声が飛び交い始める。
どちらかと言えば部外者寄りのアリアスは口を挟まずにじっとその様子を見ているだけだ。
しかし、一人、その話し合いに参加していない男を目の端に捉える。ゼロだ。
アリアスはどうもそれが気になって彼に近づく。灰色の竜の側にいる彼の灰色の目はどことなくぼんやりしている。
「ゼロ様……大丈夫ですか?」
そっと小さな声で、話し合いが行われている傍らで尋ねる。
すると、ゼロが少し驚いた顔をしてこちらを見る。近くに来ていることに気がついていなかったのだろうか。
「――問題ねえけど、どうした?」
まばたきを何度かしてから、ゼロは言った。
どこか、疲れた雰囲気が見えたのだ。もしかすると、魔法の力を使いすぎたのだろうかと思ったのだけれど。
「いいえ、お話に参加なさっていなかったので」
アリアスは気のせいだったと首を軽く振り、異なる言葉を口にする。
「あー、ちょっとな……」
そんな彼女の姿を見てどう思ったのか、ゼロはぽんぽんと隣を指す。アリアスは行かない理由はないもので、その通りに隣に並ぶ。さすがに彼のように竜にもたれることは出来ないけれど。
それよりも、顔を見上げるとやっぱり何だか普段より覇気がないみたいに思える。
「慣れねえことすると疲れんな」
見上げられた側のゼロは苦笑いをする。
彼と出会ってそんなに長い期間は経ってはいないが、めったに見ない表情だ。
竜の回復のことだろうか。などとアリアスが数時間前のことを思い出しながら当たりをつけていると、ゼロが独りごちる。
「このままやっても進展しねえ気がするんだよなあ……やっぱり……」
「それは、どういう――」
「ゼロ」
彼も彼で考えていないはずはない。この状況へであろう言葉をアリアスが聞き返す前に、入った声はルーウェンのものだった。ゼロが話し合いに加わっていないことを認識したのか、輪から外れて来ている。
その後ろでは、輪となった魔法師たちが何事かを話し合っている。
「何か案出たか?」
「出てないな」
「そりゃあ問題だ。竜の様子は?」
「駄目だな。目に見えては良くなっていない。だからといって悪化しているわけでもない」
「……相殺してるみてえだな」
ゼロは言ってから、地面とそれから周りを見渡した。竜を見ているというわけではなさそうだ。今や、より真剣な顔つきとなった彼は少しばかり眉を寄せて目を戻す。
「なあ、ルー」
「何だよ、話し合いにも参加せずに」
「それは悪かった。それよりよ、ここ――」
そこでなぜか二人が、同じ時、同じ方に顔を向けた。ゼロは言葉途中で口を閉じて。
アリアスも釣られて目線を向けた方向、二つ白い魔法の光が人形を形作っていた。
「あ、師匠」
光を反射しないくらいの漆黒の長い髪が風になびいていた。
事態が停滞していたこの場に、ジオが来た。
*
「空気が悪い」
現れたジオが一番最初に言ったことがこれであった。ほぼ一つのところへ集まっている者たちの元へ歩いてきながらのことだ。
次いで、顔が向けられる限りの周囲を右から左へと見ていた目をすっと右に戻したかと思えば、灰色の竜の近く、アリアスやゼロの近くに立っているルーウェンの姿にとめる。
「ルー、お前が結界を張れ」
「――はい」
かと思えば、短く要求をする。
自分が、ではなくわざわざルーウェンに。ジオの言葉がなぜ自分に向けられたかをすぐに理解したルーウェンが魔法を使うべく、目を伏せ気味にする。
――太古の昔、人と竜とがより密に共存していたとされている。人は魔法の宿った大地の恩恵を受け、魔法をその身に宿したという。それが、魔法師の走りと言えるだろう。
だが、その地にいたのは人と竜だけではなく悪しき力を持ったものがあった。人は竜と手を取り合い、害なる邪悪なものをこの地から追い払った。
そうして、良き魔法だけが宿る土地にはやがて人が国を創った。その国こそが、グリアフル国。そして、邪悪なものを竜と共に追い払い土地を浄化した『人』こそが、現在の王族の祖先である。
と、語り伝えられており国の創設に関する本には必ずと言っていいほど同様のことが記されている。
その邪悪なるものが本当にいたかどうか単なる昔話かはさておき、王族の血筋だけが受け継ぐ魔法が確かに存在する。
それが、これだ。
その場の目線を向けられている中、集中しているルーウェン。
しばらくして、彼が手のひらを上にして差し出している手から淡い光が発せられる。通常、魔法が使われるときの白い光、ではなく青みがかかったそれ。ルーウェンの目の色のごとき輝き。
光は色は薄く、ベールのように彼を中心に広がり満ちる。
ルーウェン=ハッターは、名字から分かる通りに王の弟であるハッター公爵の息子である。グリアフル国の王の一族は銀髪に青の目をしている。彼はその王族の血を確かに外見上にもその身に受け継ぎ、魔法を受け継いでいる。
その魔法は、遥か昔、邪悪なものをこの地から追い払った結界魔法。
アリアスの元も例外なくその光は通り、過ぎて行く。
ふっ、と空気が軽くなったような気がしたのは思い込みだろうか。重い、とも感じていなかったのに。
「で、状況は」
現れた途端に一言発して弟子に大規模な結界を張らせたジオは淡々と次の言葉を出す。
その服装はさすがに軽すぎるものではなく、上着まで着込んでいる。アリアスはこんなときであれ少しだけほっとする。庭でしわの入りすぎた白いシャツのままで出てきたときは、せめて何か羽織ってきてくれと思ったものだ。
「竜の回復が上手くいっていなかったところです」
「それは今解決しただろうな。で、周囲に何かあったか」
「何も」
「そうか」
若干、ジオがその眉間を寄せたようには見えた。ほんの僅か、きっと彼の顔の変化のなさを毎日目にしていなければ分からない。
「まさか一体だけでなく、全て弱っているとは……悪しきものが漂っていたと?」
「ま、竜にとっては良い空気ではなかっただろうな」
もう一人、現れたのはレルルカであった。
ルーウェンが普通ではない結界を張ったことの意味を考えた上で、ジオについて歩き止まった彼女も周りに目を配ってから尋ねる。
「しかし師匠、悪しきものとは」
「それははっきりはまだ分からん。だが、これでもう竜は回復させることが出来るだろう」
「ですけれど、ルーウェン団長にこの範囲の結界をずっと任せるわけにもいきませんわね」
「そうだな。これに魔法を詰めて竜の首にでも下げていればいいんじゃないか」
「腰痛の爺から盗ってきた」とジオが本当か嘘か言いながらもにわかに衣服に手を突っ込んだ。次にその手が出てきたときには、濃紺の袋を持っていた。そうして、彼はそれを取り出し様に放る。緩く放物線を描いて着地した先は、ルーウェンの元。その中から出てきたのは、握りこんでも隠れないほどであろう大ぶりの青い丸い魔法石。
「周囲にもばらまいた方がいいかもしれんな」
ジオはそれだけを言って、また周囲を眺め始めた。そして、地面も。
「まさか、な」
「では、ルーウェン団長には結界魔法を込めて頂くとして、竜の回復を再開させましょう」
「出来るだけ早く行います」
「お願い致しますわ。――竜は十二体、私たちは……ジオ様は数に数えても構いませんか?」
「外せ」
「お疲れですか?」
「寝不足でな」
「それで今朝の会議も欠席なさったと? 分かっておりますわ、今言うことではないと。私も冗談で言っているわけではありませんわ。お疲れですか?」
レルルカがもう一度、同じ言葉を強調して言う。疲れているはずはないだろう、と。
かなりの距離がある場所への空間移動の魔法の提供を幾度もしているはずで、常人ならばその回数に及ぶ前に疲労困憊になっている。しかし、それでもなおあり得ないとバッサリその可能性を捨てられるのが、ジオというものだ。
「容赦ねえ」
「……まぁ師匠ですから。疲れてはないでしょうし」
「それが普通じゃねえんだけどな」
「師匠に関しては麻痺してしまいました」
輪を若干外れたルーウェンはさておき、周りは二人のやり取りを黙って聞いている。口を挟むことはあり得ないことと、現場の方針が決定する途中だからだ。
アリアスも例外なく呆れ半分の目線で、そういえば今日結局レルルカの伝言を師に伝えることはなかったことを思い出す。
すると、隣でもまたその様子を見守っていたゼロが感想を漏らした。
レルルカが苦手なような彼であったから、
もしかすると彼女のあの時々圧の増す笑顔と緩まない追求が問題なのかもしれない。ジオのように問題行動を起こしていなくとも、会議でその言動はアリアスよりも見ているだろう。
アリアスはアリアスでレルルカの言葉に完全同意ではあったので、疲れている、という言葉は一蹴する見解を返した。
確かに、普通ではない。ジオと出会った頃には彼くらいしか魔法師は知らなかったが、城に連れられてからは通常のレベルは認識している。だが、師と他の魔法師の普通の認識はどうも頭の中で別々にされているようだ。
そんな傍観者な会話をしている間に、話には進展と決着。
「……このまま手ぶらで戻るのは論外だろう、どうせ来たなら原因を探る」
「最初からそう言ってくださいませ。失礼致しました」
ジオはふっ、と輪から外れて黒衣を揺らして歩き始めた。
そのとき、アリアスからは少し離れた前をを歩いていった師と目が一瞬だけ合った。今朝の書類が増えたときのように分かりやすい目ではなく、何を考えているのか読み取れない目だった。
奥に歩いていく背中を追ってももちろん分からない。
あまり、見たことのない目だったと感じたのは気のせいか。まぁ、分かりやすい時の方が少なく、ほとんど何を考えているか分からない師である。
アリアスはすぐに目を前に戻した。
「ということは、ルーウェン団長は魔法の用意をしていらっしゃるので、九人ね。アリアスちゃんも数に入れちゃってるけれど、お手伝いしてくれるかしら?」
「はい、もちろんです」
「さっきからすでに手伝ってくれているんですよ、レルルカ様」
「あら、そうなのね。それに、ジオ様も何もおっしゃらなかったということはそういうことでしょうね。じゃあ遠慮なく手伝ってもらうわ」
目を戻した途端に人手の数を確認していたレルルカの黄緑の目と合って、確認される。エミリが補足してくれ、その情報を聞いたレルルカは手を頬にあてて微笑む。
こんな状況であれ、変わらないのはさすがだとしか言いようがない。
深刻さが減少したのはルーウェンが結界を張ってジオが太鼓判を押したことも影響しているだろう。
「基本的に一人一体。先ほどまでの分担を参考に、それから私が三体診ます。あとの一体はあなたに」
「はい」
治療専門の魔法師の一人が指名される。レルルカが三体、というのは元々の魔法細かな操作の高度さと大きさ、それから来たばかりで消耗していないからだろう。
「追加の魔法石はここにあるので、各自補充をなさって。慎重に丁寧に、けれど迅速に竜の回復を。いいですわね?」
綺麗な笑顔を前に、全員が頷いた。
「アリアス、無理するなよ」
「まだ平気ですよ。それに、迷惑はかけられませんから無理になる前には止めます。ゼロ様も、無理はしないようにしてくださいね」
慣れないことをすると疲れる、と冗談紛い気味ではあったが言ったときの顔が思い出されて、付け足す。
そうすると、ふいをつかれたようになったゼロは一拍後、灰色の竜を叩きながら言った。
「無理したら看病してくれるか?」
「ゼロ様!」
「冗談だ」
「そういう冗談は聞きたくありませんよ」
「悪かった。まあ、こいつらももう回復していくばっかりだろうし、全員疲労困憊になる前に一段落はつくだろうな」
叩く手は一見すると乱暴ではあるが、竜はどこか安心したように鼻から息を吐き出した。
『契約』たる繋がりの一端を目にしたみたいだった。
アリアスはその様子を見てから、自分が回復させるべき竜にしかと向き直りに行った。
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