『竜の異変と怪しい影』編
第1話 珍しくはない提案
少女が朝から転びそうになったのは、入った部屋が予想以上に散らかっていたからだ。
彼女はいつものように城へ来る途中で書類を預り、両手で抱えるほどとなったそれによって目的の部屋のドアノブを捻るだけ捻って背中で押した。すんなりと何の抵抗もなく開く感覚が背中にあり、そのままくるりと身体を反転させ部屋の中へと足を踏みだ……
「う、わ」
したはいいが、爪先に何かが引っ掛かり軽くつんのめる。手にした紙を離しそうになったが、堪える。バランスを崩しながらも体勢を整えるべく足を落ち着かせようとした……場所も何やら不安定で、結局数度小刻みに前進して止まることが出来た。
ふう、と安堵の息を吐きながら彼女はやっも落ち着いて立ち、書類の横から足元を見下ろす。
「…………」
下には、本が散らばっていた。それはもうばらっばらに散らばっていた。無言で後ろを見ると、かなり分厚めの重そうな茶色の表紙の本が転がっていた。躓いたのはあれかもしれない。
そうして、今度は視線を迷わずある方向へと向ける。
広い部屋、壁全面は高い天井まで続く本棚となっている。本来であれば、本がぎっしりと詰まっているであろうそれらには空きが目立つ。当たり前だ、今床を埋め尽くしている本がそうであるのだから。
そして、それをした人物は部屋の奥。向き合うように設置されたソファの内の一つに姿があった。一人、長い足をソファからはみ出させながら寝そべったその男の顔は窺えない。顔がある部分には本が被さっているからだ。
それを見て、少女――アリアスは息を吸う。
「師匠! 朝です!」
『春の宴』から二週間。グリアフル国の王の住まう都は暖かい陽気が続いていた。
*
アリアスが来た師の部屋は城の方の部屋だった。『春の宴』が終わった今、またジオはこちらに戻ってきたのだ。
「師匠、書類ここに置いておきますね」
ソファで身を起こし、気だるげに長い黒髪を掻いている師にそう声をかけたアリアスは執務机の端に紙の束を置いた。机にはもうすでに紙の小山が出来ており、二つに分けられているところを見るとどちらかが処理済みのものでどちらかが未処理のものであるだろう。どちらがどちらかは一目では分からなかったが、大きな山の方であると信じたい。
とりあえず、その言葉を聞いたジオは顔をこちらに向けて「えー」という目をした。こういう時だけは本当に子どものように分かりやすくなる。
「『春の宴』前に仕事終わらずに溜め込んでいたところがあるな、絶対」
「仕方ないですよ多少は。それから、机の上にそれだけ溜まっているのは単に師匠が仕事せずに本を読んでいたせいですよね」
ソファの背に頭を倒して乗せてしまった師を横目に、アリアスはさっさと床一面に散らばる本を拾い上げ始める。どうしたらこんなに散らかるのか、といつもながらに思いながらである。
アリアスの容赦がないが、部屋を見る限りで事実であると思われる言葉を境に声が途切れる。図星だったのだろう。
だが、早いペースで数日に一度はこんなことになっているのでアリアスは気にせずに手を働かせる。こんなことに時間を費やしていられない、と。師と出会ってからはじめて城のこの部屋に来てからこんな調子なので、自分が何を言おうとも直らないだろう。今、図星で多少は気まずく思っていたとしても数日後にはまた、具合に差はあれど同じような光景が広がる。
ところが今日、アリアスにとってそのとき少しだけ予想外で突然である印象を受ける言葉が放たれる。
「近い内に王都を出るか」
「……冗談ですか?」
「俺が冗談言うか」
少し前までの会話から考えると、逃亡を思い浮かべる提案。
思わずの聞き返しに帰ってきた言に、あまり言っている記憶はないととっさに記憶を探った。手を止めて腰を伸ばして見た先にある紫の色彩の目は、どうも冗談ではなさそうだった。本気であるらしい。
またシャツがしわだらけだ、と同時に気がつく。
「準備しておけよ、アリアス」
「私もですか」
「当たり前だろう」
ソファの師を見ていたアリアスだったが、ほどなくして手に拾い上げた本を手近な本棚に並べ始める。
これまでも度々……というほど頻繁にではないが、突然のそんな提案の際には同行が決まっていたので、アリアスにはたいして抗議する気はない。けれども、ジオは帰って来てから誰に何を言われるかは考えているのだろうか。別に自分は正式な魔法師ではないので決まった役割がないわけで、仕事に穴を空けるということがない。しかし、ジオは魔法師として最高の地位にある。仕事に穴が空かないわけはない。
「大体、明らかに数年前から俺のところに回ってくる書類が増えただろ。どうなってる」
「……それは師匠が時々無断で王都を出たりするからじゃないですか?」
すると、ぼやきが聞こえてきた。
一気に何も考えずにただ腹いせの可能性が出てきた。『春の宴』で人前に出る役目をし、それから人に囲まれたからかもしれない。
だからといって、そんなことを繰り返していればどうにかそれを止めさせようと周りがするだろう。その結果が師の言葉に繋がるのかもしれないとアリアスは思った。けれど、それがまた今逆効果になっているとも。
もう慣れたもので、少女は一度しか手を止めなかった。
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