悪戯な乗降客

こたろう

悪戯な乗降客

 最終バスの席は閑散としている。遅い仕事帰りの疲弊したサラリーマンや飲み会帰りで飲み過ぎた大学生と様々な人が静かに席にポツポツと座り込んでいる。

「このバスは◯◯車庫行きです。まもなく、◯◯町です。お降りのお客様はお知らせください。」

私は少し大きめの声でお決まりのセリフを後部座席に座っている人達に語りかけた。バックミラー越しに見ると、うたた寝していた一人の男性が我に返り、手元の降車ボタンを慌てて押した。服装を見るとスーツなので会社員だろう。ワイシャツのヨレヨレ具合からすると、昨日は会社に泊まって同じワイシャツを着ていたのであろう。

「ご乗車ありがとうございます。◯◯町です。」

会社員の男性は胸ポケットから取り出した定期券をすっと私に見せて、バスを降りていった。降りたことを確認すると、次の停留場へ向けバスを走らせた。

「このバスは◯◯車庫行きです。次は、◯◯前です。お降りのお客様はお知らせください。」

次なる一人が降車ボタンを押し込んだ。


「ご乗車ありがとうございます。◯◯小学校前です。」

また一人が降車し、最後の乗降客を乗せバスを発車させた。最後の乗降客は女性であり、彼女は始点から乗車している乗降客だった。彼女は後部座席の左最前に座っていた。前髪が垂れて表情が見えないので寝ているかは定かではないが、始点からずっと俯いている状態であった。それにしても微動だにしないのは不気味だ。私は何か気持ちが落ち着かない。そして、落ち着かない理由がすぐに認識した。女性に気を取られ、次の停留場のアナウンスをすることを忘れていた。

「このバスは◯◯車庫行きです。次は、◯◯町です。お降りのお客様はお知らせください。」

幾らか口早に話してしまったが、おそらく彼女に聞こえているだろう。すると、降車のアナウンスが聞こえた。次で降りるのか?バックミラー越しで彼女を見たが、依然として俯いた姿勢であった。いつの間にボタンを押したのだろう?私は首を傾げたが、道沿いの外灯が並ぶ薄暗い路を走らせ続けた。


「ご乗車ありがとうございます。◯◯町です。」

私は彼女に語りかけるようにアナウンスした。しかし、彼女は俯いたままであった。

「お客様、◯◯町に到着しました。お降りになられないのですか?」

私は運転席から見を乗り出して、彼女に話しをかけた。それでも彼女はうんともすんとも言わず、依然と下を向いていた。

「降りないのでしたら発車しますけど、よろしいですか?」

彼女に確認に伺ってみたが、案の定返事はない。私は痺れを切らし、ドアを閉め、アクセルに足をかけた。押し間違えたなら、”間違えました”と言ってくれば時間を無駄にせずに済んだのに。と心の中で愚痴をこぼした。それにしても、薄気味悪い人だ。と思いながらバスを閑散した夜の路にエンジン音を響かせて、走り始めた。

「このバスは◯◯車庫行きです。次は、◯◯町です。お降りのお客様はお知らせください。」

もう丁寧に伝える気分ではない。と思っても長年の癖が身にしめていた。すると、また降車のアナウンスが流れた。今度こそは降りるのか?ふと、バックミラーを覗いた。また、ボタンを押した様子はなかった。瞬間的にボタンを押したというのか?私は不気味に感じ、次で降りてくれないかと思い始めた。だが、私の思いと異なった。

「ご、ご乗車ありがとうございます。◯◯町です。」

私は恐る恐る彼女に向けアナウンスしたが、人形のように動かず、座席にじっと座っていた。彼女は何がしたいのか?それともボタンを押しているのは彼女ではないのか?疑心暗鬼になり始めた。

「こ、このバスは◯◯車庫行きです。つ、次は、◯◯町です。お降りのお客様はお知らせください。」

私はバックミラーを見ながら、アナウンスをしてみた。彼女の腕はピクリとしなかった、だが降車ボタンのアナウンスが車内に鳴り響いた。彼女は何もしていないのに、勝手にボタンが押された?降車ボタンの無数の赤ランプが警告ランプのように思えた。私はこの場から離れたくなった。しかし、この現象は彼女が起こしているのか確証はない。彼女だけ残すのは無責任だ。私は平常を保ちながら、次の停留場までバスを走らせた。


「◯◯町です。」

私はか細い声でしかアナウンスができずにいた。後ろの彼女を見ることができない。得体の知れないものに恐怖を感じ始めてきた。私は意を決してバックミラーを覗いた。なぜ、彼女は立ち上がらないのか?早く降りてくれ…私の心の余裕は限界に近かった。私は路線図を見ると次は終点と気づいた。彼女が何者であれ、次で降りてくれるだろう。しかし、これは希望的観測である。

「つ、次は終点◯◯車庫前、で、です。お、お降りのお客様はお知らせください。」

案の定、降車のアナウンスが流れた、もちろん彼女はピクリとしなかった。このアナウンスに耳を塞ぎたくなった。次で悪夢が解放される願いを込めてアクセルペダルを踏んだ。


 

「ご、ご乗車、あ、ありがとうございます。しゅ、終点、◯◯車庫前です。」

恐怖で目を閉じてしまった。すると、後ろからヒールらしき足音が近づいてき、足音は私の隣で止まった。私は目を恐る恐る開けると、彼女が笑顔で立っていた。

「ありがとうございました。」

彼女は定期を手に持ち、私に提示していた。彼女を疑っていたのが、至って普通の方でした。俯いていたのはただ寝ていたとわかった。勝手に押されるボタンの謎は残るが、安堵した。

「こちらこそ、ありがとうございました。」

私は笑顔で会釈して、彼女の降りる後ろ姿を見守った。すると私は気づいた、彼女の足元には影がなかったことに…。

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悪戯な乗降客 こたろう @cotaro4310

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