われる
り(PN)
1 病院
最初に気づいたときは意識が朦朧とし、気づいたとはいえず。
ただし後になり振り返ると、ああ、あのときだ、とわかる。
薬は効いているのだろうが痛烈な痛さが胸にある。
精神的ではない、心理的な痛さ。
いずれ精神的な痛さも現れるだろう。
が、まだ遠い。
全身的な怠さが、それに代わる。
心が平穏過ぎて不思議だが、身体はとにかく重い。
ずっしりと……。
それが心地良い重さならば、ぐっすりと眠れるのだろうが、途切れずに襲う睡魔は薬剤由来。
なので胸が悪い。
単に気持ちが良くないというのとは違う胸の悪さ。
それに耐えかねるように目を開けると顔がある。
わたしに似た顔。
自分の死体を自分で見ているのならば面白いだろうな、と何故か思う。
笑おうとするが胸が張り、痛い。
ナイフで刺されたのだから痛いのは当たり前だ、とは冷静な自分。
刺された原因も自分なのだから、と腹も立たずに考えている。
代わりに胸が、痛い、痛い、痛い。
「お母さん、気が付いた。大丈夫……」
娘の声が聞こえる。
毅然とした中にもショックが垣間見える。
理由を知れば当然だろう。
自分の母親が自分の父親に刺されたのだから……。
幸か不幸か、死にはしない。
夫は警察に捕まったのだろうか。
それが気になり、
「美緒、お父さんは……」
と尋ねる。
自分では声を出したつもりが、声にならない。
本人の耳にも聞こえない。
「えっ、お母さん。何て言ったの」
「声が出ないのよ」
「えっ、何……」
「だから、声が……」
「聞こえない。もう少し大きな声で……」
「もういいわ。少し眠る」
口でそう言い、目で同じことを伝える。
同時に腕を動かし、咽を指さそうとするが、僅かに持ち上げただけで力尽きる。
身体が重い。
胸が痛い。
「わかったわ、お母さん。今は眠って。命には別条ないから安心して」
娘にそう言われ、命に別状ある場合はそれが心配で眠れないのか、と考える。
例えば、眠ったら死んでしまうというような心配か。
死という言葉から夫のことが気にかかる。
夫に何かあれば、娘がわたしに知らせるだろう。
いや、わたしが今の状態では何かあっても話さないか、と考えを翻す。
夫は気の弱い人だから自殺はしないと思うが、積年の想いでわたしを刺すことには成功したのだ。
だから万一の自殺もあり得るだろう、と心配になる。
一人だけだが子を成した仲の夫。
けれども、わたしは愛していない。
生涯、唯一度も……
結婚生活に男女の愛は不要なのだ。
代わりに、夫がわたしに向けた愛情を尊いもの、と信じて暮らす。
日常に埋もれてしまえば気にもならない。
些細なことを除けば、夫に対する不満もない。
気になる癖、慣れぬ性格も年の積み重ねが慣れさせる。
その意味では夫はわたしの一部なのだ。
が、それも家にあってのことか。
わたしの心は三十年間、別の男に捧げられる。
嘗て自分を振った男、尾瀬康裕から離れない。
今でも目の裏に浮かぶミクロネシアでの熱い抱擁。
鰹の回遊する水族館での別れ話。
幸福と不幸、絶頂と最悪が、わたしの中で錯綜する。
夫はずいぶん昔に、わたしの心中に気づいた、と言う。
不用心に仕舞ったわたしの日記帖から知った、と告白する。
夫が知るわたしと、それ以前のわたしとの差に夫は漠然としたに違いない。
が、それもわたし。
その後すべてを諦め、辰巳悟史との結婚生活を決意したのもわたし。
自分の性格は変わらないだろう。
だからあの事故のような尾瀬との再会がなければ、わたしたち夫婦は見た目幸せに老いさらばえ、それぞれに死んだはず。
夫も自分の不安を心の外に弾き出すことなく死ねたのだ。
辰巳悟史がわたしを愛していたのは間違いない。
だから、わたしもでき得る限り忠実な妻を演じ続け……。
積年のうちに演じているとさえ思えぬほどに……
尾瀬の妻、佳代子の奇妙な計画に乗せられ尾瀬と再会しなかったならば、わたしは夫との生活に疑問を感じることなく過ごせたはず。
が、一度尾瀬と再会し、情が通えば、それまでのこと。
そんなに単純なことだったのだ。
老人だろうが、恋に分別はない。
老いらくの恋という言葉もある。
そう思うと、ああ、胸が痛い。
……。
不意に目が覚める。
自分では眠ったつもりはないが、眠っていたらしい。
僅かに痙攣する瞼をゆっくりと開けば顔がある。
二つ……。
一つは娘、美緒の顔。
そして、もう一つは……。
「よく、この場所がわかりましたね」
声のない声でわたしが問うと、
「瑠衣子さん、良かった無事で……」
尾瀬康裕の口が言う。
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