魔性と魔性
最悪という言葉を、私はあまり使わない。
暗殺者という職業柄、本当に最悪だという事態を常に想定しているからだろう――どれだけ危険な場所で、恐ろしい敵がいても、それを想定していれば対応できる。
それにそもそも、考え得る最悪の事態を上回ることなんてまず起こらない。
最悪とは、予見も想定もしていないから最悪となるのであり、考えの範囲にあるのなら、それはもう最悪ではなくなるというのが、私の持論なのだ。
では、これはなんと呼ぶべきか。
敵がいるだろうとは思っていた。
恐らくは、残ったハートのトランプ兵。十三体かそれとも合体した一体かはわからないが、最低でもそいつらはいるはずだ。
罠があるだろうとは思っていた。
何せ敵の本拠地だ、侵入者への備えは万全なはずである。ましてや女王は客を招かない。来訪者はすべからく侵入者なのだから、誰に憚ることなく凶悪な罠を仕掛けられるというものだ。
だが、しかし。
その全てが突破されているとは思っていなかった。
「………………………」
廊下に残る破壊の痕跡に、私は無言で眉を寄せる。
そこかしこで倒れ伏す、トランプ兵たち。その隙間を縫うように、床からは針が飛び出し、壁には鎖付きの鉄球がめり込んでいる。罠が発動したのだろうが、それらが獲物を捉えた様子は無い。
それより目につくのは、傷だ。
敷き詰められた赤いカーペットに、磨きあげられた大理石の壁に、一定間隔で立ち並ぶ重厚な意匠の木製のドアに。正に視界一面縦横無尽に走る、深い谷のような亀裂の跡。
「………斧かな?」
谷の縁をなぞりながら呟くと、腰元の鞄がゲラゲラと笑い出した。
「なに?」
不機嫌に尋ねると、バグはいっそう大声で笑い出した。
「それどころじゃあないぜ、相棒、もっと気にするところがある。そら、メガネ掛けな!」
鞄の口から吐き出されたノームグラスを掛ける。その補正された視界に映る魔力の痕を追い掛ける。
床の亀裂、壁の穴、割れたランプ。
下から、上へ。爪先から頭の高さを越えて、上へ、上へと視線を動かす。
その、終着点。
ランプが割れたせいだろう、薄暗い闇がわだかまる天井に、視線が辿り着いた。計算された湾曲によって補正された視力が、床や壁と同じ大理石の天井を捉える。
「………………………嘘」
そこには、床や壁と同じ亀裂が、ところ狭しと刻み付けられていた。
その傷は、確かに斧によるものかもしれない。或いは何か他の刃物によるものかもしれない。よく調べれば、どんな武器を使ったのかはわかるだろう。
だが、どんな使い手なら、天井にまであれほど深い傷を残せるというのだろう?
「あそこまで手が届くってのは、巨人か何かかもな? ギャハハ!!」
「………よく笑っていられるね」
確かに、話に聞く巨人族なら、このくらいの天井はむしろ低い方だろう。
彼らは旅好きで、今は世界の果てを目指して終わらない旅に出ているそうだが………だとしても笑えない。基本的には温厚な彼らだが、ひとたび怒れば目につく何もかもを破壊し尽くすという。
まぁ、たとえ怒っていなくても、身の丈が家の二倍ほどある奴等が歩くだけで、少なくない被害が生まれるだろうが。
そんなやつらを相手にすることを想像すると、それはもう、最悪としか言いようがないだろう。だと言うのに、この鞄は何を笑っているのか。
じっとりとした目で見詰めると、バグは笑いながら頷いた。
「そりゃあそうだろうよ、相棒。………こんなの、笑うしかねぇだろ?」
前向きにいこう、と私は相棒に声をかけた。
どんな技を使う何者かが侵入しているようだが、それはどうやら女王と敵対しているようだ。少なくとも、ここを通ったときには。
「だとすれば、私たちの敵にはならないかもしれないじゃないか?」
「それは甘い気がするがねぇ」
警戒しつつ、私たちは廊下を進む。カーペットは沈むほど深く、傷だらけとはいえ足音は気にしなくても良さそうだ。障害物は、全て粉砕されているようだし。
露払いしてくれただけでも僥幸だ。そこでふと、バグが声をあげた。
「もしかして、あの緑魔術師じゃねぇのか?」
「緑………?」
もしかして、ベルフェのことだろうか? 確かに彼の魔力は緑色だが、そのあだ名はいかがなものか。
「そうだよ。あいつもここに来てるはずだろ? だったら」
「うーん………可能性はあるけど………」
仮面めいた表情を浮かべるスーツ姿の魔術師を想像し、私は首を傾げた。
あの傍観者を気取った男が、ここまで積極的に事態に関わるだろうか。寧ろ、私に任せて、成功だろうと失敗だろうと笑って見ている気がする。
それに。
「こんな刃物みたいな魔術を使うのかな、あいつ」
「そういや、魔術を使ってるとこ見たことないよな?」
「まぁないけど………キャラじゃないっていうか、そんなタイプじゃない気がするんだよね。何て言うか………」
腕を組みながら、私とバグは少し考えた。ベルフェという魔術師の、僅かながら知り得た人となりを鑑みて、それから同時に口を開く。
「「陰湿そう」」
降り下ろされる拳を、チェシャは転がるようにして避ける。
細身の魔術師の拳は空を切り、
「ウオオオオ?!」
そのあとを追うように迫った巨大な緑の拳を全力でかわした。
恥も外聞も無く、走る。とにかく距離を取るためだけの全力疾走。
それでも、まだ遅い。
「………」
ベルフェが僅かに体を動かすだけで、チェシャは追い詰められていく。彼の魔術によって、いや。
あれは、魔術なのか?
肩越しに見た魔術師の背には、亡霊のように揺らぐ巨大な影があった。黒でなく、緑色の影だ。
ベルフェの足から細く伸びた緑色の影は、途中から垂直に立ち上がり、高い天井近くにまで伸びている。
ベルフェが振るう腕に合わせて、影も拳を振るう。それは影らしい追従だったが、その拳には確かな質量がある――実体なのだ。
影の拳が叩きつけられた床は、明確に抉れている。たかが影遊びだと笑えるようなものではない。命に関わる、攻撃と呼べるレベルの脅威だ。
女王の間の豪奢な家具は、既に跡形もない。圧倒的な質量でもって、クッキーのように潰されていた。かなり価値のある代物だが、それをもったいないと思う者はここにはいない。
チェシャが走る床には、既にアリス達の姿はなかった。二人の姿など目に映らないように、アリスはスキップしながら部屋を出てしまい、そのあとを追って女王も出ていった。
良かった、と思う。もしここにアリスが居たとしても、ベルフェは気にも留めなかっただろう。
その無関心さが、彼の恐ろしさだ。
気を使って攻撃の手を緩める、という意味ではない。本来の任務を考えるなら、寧ろ、アリスのことは真っ先に狙うべきだ。だが、彼の魔術師は、立ち去るアリスのことはまるっきり無視して、ひたすらにチェシャの方を狙ってくる。
「………もっと冷静なやつかなと思ったけどね」
「別に?目的の方は、あの子に任せればいいですからね」
静かな口調の裏に、滲み出る熱情。
間違いなく、この男は楽しんでいる。全力を振るえるというこの状況を。
事実、ベルフェは楽しんでいた。
彼に限らずある程度の実力を得た魔術師は、誰であれ機会を渇望するようになる。自分の研究してきた成果を発揮する機会だ。
最早戦争の時代でもない。誰彼構わず敵対者へと攻撃する輩は絶えて久しく、誰彼構う者ならば魔術師は避ける。
魔術師に挑むのに必要なものは二つ――上回る【実力】と、無謀を踏み越える【理由】だ。そしてそれらは、けして誰もが持つものではない。
敵を
その解消を、暗殺者の未知なる武器に見たベルフェであったが――しかし、とんだ幸運である。
まさか、その両方を携えた相手に出逢えるなんて。
「ふふ、それに。目的からまるで的外れという訳でもないですからね。貴女をここで、叩き潰すことは」
「おやおや、目の敵にされてるねぇ」
肩を竦めて嘯くと、ベルフェもまた、肩を竦めた。その、緑に光る瞳が射抜くようにチェシャを見詰める。
「いえいえ。さしあたっての脅威というだけですよ。確かに反撃という意味合いもありますし、そこで力を振るう楽しみもありますが、そこで終わりではないですね」
「………あ?」
「どうせなら、黒幕ごと叩き潰そうかと思いまして。アリスのことは、まぁクロナさんに任せるとして、ね」
その瞬間、チェシャの意識が切り替わる。
風を切る音と共に降り下ろされた影の拳を、かわすことを止める。代わりに、呟く。
「【
チェシャの全身が揺らぐ。そこに居るのに居ないような、不確かな存在感に包まれる。
墜ちてくる緑色の天井を、笑いながら迎え入れる。拳はチェシャに吸い込まれ、そしてすり抜けた。
「………ふむ?」
床を抉った拳。その上で立つチェシャを見ながら首を傾げたベルフェに、チェシャは初めて感情の籠った視線を向けた。
「そこまでわかっているのなら。ここで、お前を叩き潰す必要があるな?」
自身に向けられた、濃密な殺意。針のように鋭い感情に、しかしベルフェは楽しげに笑った。
「結構。それでこそ、楽しめるというものですからね」
「言ってろ」
チェシャが歯を剥き出し、ベルフェもまた、裂けるような笑みを浮かべた。
魔術師と、魔導書の化身。
二人の怪物が、今度こそ全力で激突する。
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