少年の夜

「こんにちは」


 繁華街の雑居ビルの狭い階段を上がり、倉庫の入り口のような分厚い扉を開けると、中から柔らかいオレンジの明かりが僕を迎え入れた。

 ワンルームアパートを改造した室内は手作りのカウンターに様々なお酒のビンが置かれている。

 天宮司さんのバーだ。

 僕はまだお酒は呑まないから詳しくないが、かなり珍しい種類のお酒が置いてあるらしい。


「あら、いらっしゃい珍しいわね。一人?」


 迎えてくれたのはカヨさん。天宮司さんの恋人でこのバーのママだ。

 空いているカウンターに座る。


「オレンジジュースでいい?」


「お願いします。ところで天さんはいないんですか?」


「いるでー」


 奥のソファーの客の間からひょいっと顔を出した痩身のもじゃもじゃ男。天宮司さんだ。


「どうやった?」


 カウンターに座る僕の隣に腰を下ろし小声で尋ねてきた。


「天さんの言ってた事は本当みたいです。犬皇界と繋がっている世界があります」


「せやろ。この店にハパティが流れてきてたからな。おかしいと思ったんや。あれは犬人族以外の種族にはごっつう効き目のある麻薬やからな」


 天宮司さんはニカッと歯を見せて笑う。天宮司さんは異世界間のいざこざを解決する異世界連合の中でも最も独立性の強い組織『Association to protect the peace of the another world(異なる世界の平和を守ろうの会)』に所属している。

 犬皇界にしかいないハパティがこちらの世界に流れてきている、という情報を掴んだ天宮司さんが、ちょうど犬皇界での仕事を得ていた僕に探りを入れて欲しいと言ってきた。

 今朝、天宮司さんが幸運堂に来ていたのはそういうわけがあったからだ。


「でも、規模がわかりません。個人なのか、組織なのか。とりあえず今回の仕事のターゲットだったポンチャックという犬はどうやら無関係みたいなんです。どちらかというと、ポンチャックは犬皇界のために戦おうとしているみたいでした」


「なるほどな。何か探れたら探って欲しいけど、あまり危険なようだったらその時はミカでもザルフェルにでも頼んでケツまくってええからな」


「はい」


「はーい、オレンジジュースおまたせ、ってまた何をこそこそ話しているの?」


 カヨさんがドリンクを持ってやってきた。


「ん? なんでもないで。恋の相談や。秘蔵っ子も色恋の季節やからなー」


 けらけら笑って、天さんはソファの席に戻っていった。


「何? 秘蔵っ子君、恋してるの?」


 天さんのでたらめを真に受けてカヨさんが食いついてくる。


「もう、天さんの嘘ですよ。嘘」


 否定する。

 それなのに。

 一瞬あゆみさんの顔が思い浮かんで、慌てて打ち消した。

 違う、違う!

 僕にとってあゆみさんが一番最近一緒にいた女性だったから。本当にそんな単純な理由で、たまたま頭に浮かんだだけなんだ。

 と自分でもわからないくらいに必死に自分に言い聞かす。


「よっ! 命短し、恋せよ若人っ」


「そりゃ乙女でしょ」


 オレンジュースをちびりと口に運びながら、さっきのことを思い出す。

 公園、あゆみさんと二人。


 なんで、僕の胸はにどきどきしたのだろう。何で僕はあんな風に真面目な顔をして語ってしまったんだろう。

 あゆみさんを送り届けてからこの店に来るまでの間、顔から火が噴き出しそうなくらい恥ずかしかった。


 もう嫌だー。明日会いたくない。


 覚えて無いといいな。今日のこと。

 ええーい。気にしたってしょうがない!

 

 僕は一気にオレンジジュースを飲み干して。五百円をカウンターに置いて逃げるよ

うに席を立った。


「あら、もう行くの? かっこつけてお酒を飲みにきたっていいから、今度彼女連れてきなよ」


「だから、彼女なんていませんよ」


 僕は背中で答えて、夜空の下に飛び出した。

 夜風は涼しくなっていた。

 

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