第32話戻る
市立病院に向かう道すがら、星路が言った。
「つまり、田島も関係ないことになるから、捕まっては居ない訳だ。つまり、ネスはうまいことやったってことか?どこまでどうなってるのか全く分からねぇなあ。」
あやめは頷いた。
「だって、悟さんが危篤だったってのはそのままな訳でしょう?どうしてそんなことになったって設定になってるのかしら。」
星路は途方に暮れた。
「とにかく行ってみるしかないな。ちなみに、オレの車検証はどうなってる?」
あやめは、信号待ちの隙にさっとダッシュボードを開けて確認した。
「…きちんと元に戻ってる。助手席の下の傷も戻ってるよ。なのに、車体とホイールはそのままなのね。」
「あー訳分からねぇ!」
星路が叫ぶ。こっちだってそうだが、とにかく悟に会わないと。
駐車場に星路を停めて走って行くと、田島が待っていて大きく手を振った。
「矢井田さん!こっちこっち!」
その姿に、後ろめたさの欠片もなかった。やはり、記憶もなくなかったことになっているのだ。
田島は、あやめを先導して早足にエレベーターに向かった。
「集中治療室に入って二日間意識が戻らなかったから、もう駄目かと思った。」田島は、涙を浮かべている。「まさか、社長が波にさらわれるなんて…オレ、あのバーベキュー企画した言いだしっぺだったから、責任感じてさ。もう帰れって言われてたけど、ずっと前の廊下に居たんだ。」
あやめは、苦笑した。これでこそ、いつもあやめが見ていた田島だった。真っ直ぐで、正直なのだ。
「何を言っているのよ。大丈夫よ?意識が戻ったんでしょう。」
田島は、あやめに背を向けて涙を拭いながら頷いた。
「そうだな。」
エレベーターのドアが開いた。田島について行くと、看護師が田島を見つけて、頷いた。すっかり見知った顔になってしまっているようだ。
そのドアを、横の四角い箱のようなものに足をスッと入れて開けると、看護師は二人を中へと案内した。
「社長…。」
田島が言う。悟は、田島を見た。
「田島。何だか心配掛けたようだな。もう大丈夫だ、安心しろ。」
田島はただ頷いた。そして、悟はあやめを見た。
「あやめちゃん…。」
悟は黙った。あやめも、田島の前で話していいのかどうか迷った。
「あの、悟さん…。」
微妙な空気に、田島はハッとしたように二人を見た。そして、慌てて言った。
「あの、オレ、外に居ますから!」
「え、おい田島…」
悟が力なく呼んだが、田島には聞こえていなかった。ただ知らなかったとぶつぶつ言いながら出て行くのは聞こえた。悟は、苦笑した。
「ああ、あいつは誤解したようだな。困った奴だ。だが、いいヤツなんだが。」
あやめは、フフッと笑った。
「バーベキューで行った海で、悟さんが波にさらわれたことになっているようです。」あやめは小さな声で言った。「星路は黒いままでした。でも、回りは何もかもスムーズで。なので安心してください。」
悟は、微笑んで頷いた。
「生まれ変わったとはこういうことだな。最初からやり直せるなんて、オレはラッキーだ。これからは、少しは蓄えもあるし、初心に戻って頑張るよ。オレには、守るものもないしな。」
あやめは、知った悟の過去に同情して悟を見た。
「悟さん…。」
悟は、そんなあやめをじっと見ていたが、フッと微笑んだ。
「何もかも忘れて君を見たら、やっぱり君はオレの好みだよ。素直になったからこそ分かったことなんだが。」
あやめは、真っ赤になった。悟は自分より八つも年上。だから、こんなことがさらっと言えるのか。
マスターキーから、星路の怒った声が叫んだ。
「ストップ!こら誰の嫁に言い寄ってやがるんだ!あやめ、悟に言え!」
あやめがなんと伝えたものかと思案していると、悟が言った。
「あのな、星路。世の中取り合いなんだよ。人の男ってのは大変なんだぞ?あやめはこっちでは独身で法には触れないんだから、油断してたら知らないぞ?」
あやめはびっくりした。内容よりも、悟に星路の声が聞こえているようだ。
「あ、あの…聞こえるんですか?」
悟は頷いた。
「どうした訳か聞こえるぞ。不思議だな。あやめちゃんはこう聞こえていたって訳か。だったら犯罪者などいちころだな。」
悟は笑っている。あやめは呆然とした…悟も、聞こえるようになった。なら、これからは自分は変な女と思われずに済む。
星路の声が憮然として言った。
「人の男のことは、オレだって今勉強中だ。とにかくあやめはオレと結婚してるんだから、手を出すな!わかったか!」
悟は苦笑した。
「はいはい。全くこんなにうるさいヤツだったとは。ま、見てない所で会うからいいさ。」と、点滴をしていない方の手であやめの手を握った。「な、あやめちゃん。」
あやめはびっくりして弾かれたように離れた。
「あ、あの!体に障るから、これ以上は長居しない方がいいですね!」と、クルリと背を向けた。「では、お大事に、悟さん!」
あやめが急いで出て行こうとすると、悟が言った。
「また、お見舞いに来てくれるか…?オレは、温室みかんが食べたい。」
あやめはどうしようか迷ったが、恐る恐る振り返って、頷いた。
「はい。一般病棟に移られたら、持って行きますから。」
悟は嬉しそうに微笑んだ。あやめはその笑顔にどきどきしながらも、ICUから飛び出して、田島への挨拶もそこそこに、星路に飛び乗って家へと戻ったのだった。
もう、日は暮れて来ていた。
星路は、戻ってすぐに言った。
「とにかく、今日はあっちへ戻る!」星路の口調は断固としていた。「ここのところ落ち着かなかったじゃねぇか!もうこんなゴタゴタはたくさんだ、今すぐ戻る!」
あやめは慌てて星路のダッシュボードに入れていた玉を出した。
「わかったから!そんなに叫ばないで!」
あやめは、家にも入らずすぐに念じて、鞄も肩に引っ掛けたままあちらの世界の家へと飛んで行った。
「いたっ!」
座った姿勢のまま飛んだので、あやめは床で尻餅をついた。星路はあやめの手を引いて立ち上がらせると、言った。
「先に風呂に入って来る。飯、頼む。」
星路はサッと手を振ると、もう慣れたようにタオルを手に出して浴室の方へ向かって行く。あやめは、ため息を付いた。すっかりダンナさんみたいになってるけど、実際はまだ…なんだよなあ。このまま、熟年夫婦みたいになっちゃったらどうしよう…。
それでもあやめはキッチンへ行くと、いそいそと夕飯の準備に取り掛かった。
本当にいろいろあった…星路は、あんな感じだけど、とても優しいし、でも結構ヤキモチ焼きだし、困った感じなんだけど、でも頼りになるのが、今回のことでも分かったし…。
いろいろ複雑だけど、でも、やっぱり、星路と結婚して良かった。
あやめが幸せになりながら味噌汁の味見をしていると、風呂から出て来た星路がうろうろとあやめの後ろを歩き回った。
「もう、出来そうか?腹が減った。」
あやめは頷いた。
「実は私も。良く考えたら、今日は病院の朝ごはんしか食べてないのよ。もうちょっと待って。ご飯が炊けるまで、もう少しかかるから。」
炊飯器が頑張っているので、その間に、あやめも風呂に急いで入って来た。
出て来て星路を見ると、テーブルについて完全にだれていた。あやめは、急いで戻った。
「星路?大丈夫?」
星路は力なく言った。
「もう駄目だ。死ぬ。」
あやめは急いで茶碗にご飯を盛った。
「はい!先に食べてて!お味噌汁温めるから!」
星路は、物凄い勢いでご飯を掻き込んでいる。煮物と焼き魚が、見る間に減って行くのが見えた。急いで味噌汁を椀に注ぐと、サッと星路の前に置いた。
「はい。煮物残ってるわよ?入れようか?」
星路は無言で頷く。あやめはコロコロと里芋の残りを真ん中に置いた皿に入れた。星路の食欲は凄まじかったが、あやめもお腹が空いていた。同じようにパクパクと食事を始め、二人はしばらく黙って必死に食事をしていたのだった。
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