第22話喪失

二人は揃って家に帰って来た。星路は少し緊張気味に寝室へ向かおうとしたが、あやめは苦笑した。

「夜までまだ時間があるし、そんなに慌てなくていいのよ、星路。」と、ドレスを見た。「これを着替えて、お昼ご飯を作るわ。お昼にしましょう。」

星路は少しホッとしたような残念なような微妙な表情をしたが、頷いた。あやめはさっさとドレスを換えて、普段着になると、ログハウスの明るいキッチンに立った。お昼は軽めにして、夜はお祝い用のご馳走を用意しよう。あやめはいそいそとパスタを茹でて、軽めの昼食を準備した。

「どうぞ。」

あやめは星路の前に皿を置く。星路はまた初めて見る食べ物に興味深げだった。

「お前の作るものは何でもうまいが、これは初めてだな。どうやって食べるんだ?」

あやめは微笑んでフォークを手に取った。

「こうよ。くるくる巻くの。」

あやめが器用に一口サイズに巻き上げると、星路もフォークを突き刺してぐるぐる巻いた。みるみる大きな塊になる。

「まあ、星路!それじゃあ一口無理じゃない。」

星路は顔をしかめた。

「巻いちまったし、このまま行く。」

「ええ?!」

あやめが慌てて止めようとする前で、星路は大きく口を開けて皿の半分近くのパスタを口に押し込んだ。

「喉詰めるわよ!」

星路は、もぐもぐと口を動かしている。その頬はパンパンだったが、次第に小さくなって行った。唖然としたあやめが見守る中、全て飲み込んで、星路は言った。

「うまいぞ!ちょっと多かったが。」

あやめは呆れて言った。

「もう…ちょっとずつにしてね。はらはらするから。」

そう、星路は人の体に慣れていない。どんな無茶をしてどうなるのか想像もつかなかったのだ。

目の前でパスタと格闘する星路を見つめながら、自分もフォークを動かして、あやめは考えていた。

もう一人の、黒幕の存在…。何が目的なのかも分からない。ターゲットは、自分なのかもしれないのだ。

桑田に自分を解雇するように勧め、由香里を紹介したという。そしてたまたま知らずに浮気現場に行って調査をしたのを利用して、桑田に自分への復讐心を起こさせた男。白いカローラに乗り、家に貼り紙をして、机にカミソリ入りの脅迫状を入れるという嫌がらせをした上、悟や周囲が警戒し始めたと見るや否や、自分ではなく他の赤の他人を使って星路に落書きをさせ、その上自分を襲わせた…。

あやめは、身震いした。自分に玉がなかったら、一体どうなっていただろう。星路もりっさんも周囲の車達も、人の手がなければ何も出来ない。助けたくても助けられないのだ。

あやめがじっと手を止めて黙っているのに気付いて、星路が言った。星路の皿はもう空だった。

「…あやめ。冷めるぞ?」

あやめはハッとして慌ててフォークを動かした。星路は、そんなあやめを青い目でじっと見た。

「あやめ、犯人が気になるか?」

あやめは、星路の目を見返して、頷いた。

「…私、何か恨みを買うようなことをしたのかしら。全く覚えがないのよ。だから、探しようがないの。」

星路は、首を振った。

「お前はそんな奴じゃねぇよ。ばあちゃんのことも、最後まで面倒見たじゃねぇか。それからは生活しなきゃならねぇから一生懸命働いてたし。休みは一日寝てたしなあ。人付き合いもあんまりなかっただろう。」

あやめは、思い出した。確かにそうだった…話すのは、いつも星路で。朝、起こしてくれるのも星路、仕事の行き帰りに運転しながら話して、お昼休みも星路と、夜寝る前も星路と話してた。おかげで寂しいことは全くなかったが、人から見たら、きっと孤独な女だっただろう。自覚は全くなかったが。何しろ冷蔵庫もテレビも炊飯器もポットまで話すのだ。うるさいぐらいだった。

「じゃあ、いったいどうしてだと思う?星路が憎いとかなの?あんなふうに生き残ったから、不思議過ぎて。」

星路は眉を寄せた。

「さあな。オレは人ってのが狂ったらどうなるのか想像もつかねぇんだ。桑田がああだったろう?必死になると何を考えるかわからねぇなあ。しかし、この相手は面倒なヤツだ。理性あるだろう。自分の身が危ないと思ったら、他の奴を雇ってやらせたり。オレは、そこが心配だ。出来たらお前は、もうあっちへ帰したくない気持ちなんだが、オレはあっちじゃ車で自分で自分を動かせないし。シアが言う仕事ってのがオレだけじゃ出来ねぇんだよな。」

あやめは頷いた。

「玉があるから、私は大丈夫よ、星路。でも、自分で動けない星路の方が私は心配。」

星路は笑った。

「オレはまあ、これ以上死なない。大丈夫だ。お前みたいに襲われることもないし…オレはそっちのほうが心配だよ。」

あやめはふふと笑った。

「可笑しかったのよ~あの男。私の事、幽霊を見るような目で見てね。腰を抜かしてて…ふふふ。」

あやめは思い出して笑いを堪えられなかった。大の男が必死に這って来て連れて帰ってくれって頼むなんて。つくづく、未知のものに、人は恐怖を覚えるんだわ。

星路は微笑んで、あやめの頬に触れた。

「早く食え。あっちでゆっくり話そう。」

星路の何だか含むところのあるような言い方に、あやめは赤くなった。慣れてないはずなのに、星路ったら天然でこんなにドキドキさせるようなことを言うんだわ。

あやめは黙って頷くと、じっと見ている星路を気にしながら、急いでパスタを口に運んだ。だが、味はほとんど分からなかった。


プリウスは、今日は遠出して山まで連れて行かれて、やっと帰って来た所だった。山の空気は清浄で、とても気持ちがよかった…たまには、遠出もいいなあと思っていた。

まだエンジンも冷めやらぬ中、プリウスが心地よく駐車場に収まっていると、黒いスカイラインに乗った男が、あやめの家の前に降り立った。誰だろうと思っていると、その男は呼び鈴を押した。

「…あやめちゃん?居ないのか?」

中に向かって呼びかけている。確かに星路の代車のデミオも止まっているし、居ると思うだろう。だが、中は辺りが暗くなっているにも関わらず真っ暗で、あやめが不在なのは一目瞭然だった。

その男は携帯電話を取り出して、どこかに電話している。漏れてくるのは、機械的な声だった。

『お掛けになった電話は電波の届かない場所に…』

男は小さく首をかしげて、またスカイラインに乗り込んだ。プリウスはスカイラインに話し掛けた。

「やあ。君のオーナーは、そこのあやめちゃんの、知り合いか?」

スカイラインは答えなかったが、エンジンを掛けられて出発する前にポツリと言った。

「そうだ。」

どうも、あまり話したくないタイプのようだった。車にも、寡黙なタイプは居る。プリウスは走り去って行くその車を見送りながら、溜息をついた。ならば、あやめちゃんの様子を見に来たのだろうか。だが、あやめちゃんが居なかったので、空振りだったという訳だ。

プリウスが静かになった中で代車のデミオが言った。

「なんか見覚えがあるような気がするスカイラインなんだよなあ。」デミオは首を傾げられたならそうしただろうという声で言った。「どこでだったかなあ。あっちこっちへ代車で出てるから思い出せないな。」

プリウスはあきれたような声を出した。

「良く似たスカイラインじゃないのか。」

デミオは心外なという声を出した。

「あんな無愛想なやつを間違えるもんか。あの時は隣りで…」デミオは、思い出したというような声を出した。「ああ、思い出した!あやめが可愛がってデミーって呼んでる奴が居ただろ?アイツが左前擦った時、一日だけオレが代車で出たんだ。その時どっかのレストランの駐車場に停められたんだが、そこに居たやつだ!」

プリウスは驚いた。

「そうなのか?それは…ええっと、何と判断すればいいんだ。」

隣りから、黙って聞いていたエルグランドが言った。

「デミーの前のオーナーが今来たやつと知り合いなのかもな。まあ、偶然同じ店に入っただけかもしれないが。」

前のオーナー…由香里か?

プリウスは考えていた。すぐと、上の道の方から、大きな絶叫が聞こえて来た。

「なんだ?!今のは!」

何やら叫んでいるのだが、遠いのでもごもごと聞こえる。次々と聞こえた車、聞いた自転車とこちらへ情報が向かって来る。背向かいのエスティマが叫んだ。

「星路が盗まれた!」その声は言った。「一緒に居たデミオが錯乱状態で叫んでるぞ!」

「ええ?!」

近所の車達は一斉に叫んだ。星路の車体には、今星路の意識はない。あっちに行っている星路が戻っても、その車体に帰ってしまうから、どこかに連れ去れた状態になってしまう。

「いったい、誰が?!デミオは、なんて言ってる?知ってる奴か?!」

エスティマはしばらく黙った。向こうから何体かの乗り物やら物やらを介して来るのだ。

「…知らないやつだったと言っている。歩いて来たと。どうやったのか、一瞬のうちに乗り込んでエンジンを掛けて走り去ったのだそうだ。」

デミーは泣き喚いているらしい。無理もない…まだ子供から成長したてといった感じの意識なのだと聞いている。

「どうしたらいい…!パトカーに連絡付くか?誰か出かける奴は居ないか!」

裏のエスティマが言った。

「うちのワゴンRが出る!多分いつものコンビニだ。南署の前を通るから伝えさせる!」

エンジンが掛かり、エンジン音が遠ざかって行く。プリウスは、今度こそ大変な事態なのではと不安な気持ちを抑えられなかった。

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