第3話
うちの会社はいちおう完全週休二日で土日休みになっているが、土曜日にイベントやら社内行事やらの都合で、助っ人に駆り出されることがよくある。
このときもそうだった。近所の大学の一角を借りた学生向けの面談会に合わせて、ちょっとしたPRイベントをやることになったのだが、手が足りず、設営の助っ人に駆り出された。
「あれ、ここに置くパネルは?」
準備を指揮していた宮須が声を上げたのが、定刻の四十分ばかり前のことだった。
「え……もしかして、積み忘れた?」
最後に荷物を車に積んだ人事係の迫が、青くなって荷台をかき回し始めた。
全員で記憶を辿る顔になる。途中でパネルの差し替えがあったから、ほかの荷物とは分けてあった。宮須が難しい顔になる。
「パネルなしでなんとか……いや、だけど、いまからスライドいじってどうにかできる?」
「わたしが間違えて、古いほうのチェックリストをお渡ししてしまったかもしれません」
臼井が名乗り出て、頭を下げた。「すみません。急いで取ってきます。いまならぎりぎり間に合いますよね?」
そう言った臼井よりも、迫の複雑そうな表情のほうを見て、おや、と思ったが。そこには触れずに手を上げた。「俺が行くよ」
「え、でも」
「そっちのほうが早い。臼井、この辺の道あんまり詳しくないだろ。電車で運ぶにはパネルもでかいし、車でさっと行ってくる」
「……すみません!」
重ねて謝られるのに軽く手を振って、迫から社用車のキーを受け取った。
撤収のほうは時間に余裕があるから人手はいいというので、午前中のうちにお役御免になって、帰り道、臼井と同じバスになった。
「家はすぐ近くなのに、同じバスに乗るの、初めてじゃないですか?」
「そう言えばそうだな。まあ、帰る時間がばらばらだから」
朝は臼井のほうがいつも早く出勤しているようで、言われてみれば本当に初めてのことだった。
「係長、いつも残業されてますもんね」
「さばけないからね」
「まさか」
「ほんと。仕事できるやつは毎日残ったりはしないよ。残業ばっかりしてるのはだいたい仕事の遅いやつか、じゃなかったら家に帰りたくないかのどっちか」
「帰りたくないんですか?」
「俺はさばけないほう」
ご謙遜、と臼井は笑った。「この間、営業部の方が、すごく係長のことほめてらっしゃいましたよ。係長のいらっしゃらないときに」
営業って牧田か。牧田だったらあいつ何のつもりだ。今度いっぺんシメる。とかそういうことを考えながら、顔には出さずに顎を掻いた。
「そりゃ光栄だけど……まあ、それは多分、君の前だったから、俺を立ててくれたんだよ」
「そんなふうには聞こえませんでしたけど」くすりと笑って、それから臼井は頭を下げた。「今日だって……、ありがとうございました」
あらためて礼を言われて、思い出した。「そういえば、あれ、嘘だろ」
「え?」
「チェックリストがどうの、っていうやつ」
「あ」
気まずそうな顔になって、臼井は口ごもった。
「迫から何か言われた?」
「いえ、あの……。わたしが軽率だったんです」
臼井はぼかしたが、迫の性格を思えば、それで恩に着せたつもりかくらいのことは言ったかもしれない。自分のミスを後輩に庇われて癇にさわりもしただろう。悪いやつではないのだが、変にプライドが高いところがあって、自分のミスを素直に認められない。
自分の配慮のたらなさが悪かったのだというようなことを、臼井は小声で、恥じ入るように繰り返した。
「何も、臼井が泥かぶんなくてもよかったのに」
新人が器用に立ち回れないのなんか当たり前だと思いながら、そんなふうに付け足したのは、単なる慰めのつもりだったのだが。
帰ってきたのは、思いがけない反応だった。
「……遠野係長が」
「え?」
「いつも、さりげなく皆さんのフォローをされてるのを見てて……真似したかったんですけど。背伸びしてもだめですね」
十年早いとか、そんなふうに、笑いとばしてしまえばよかったのだ。それなのにとっさに返事に詰まったのは、臼井が本気で言っているらしいことに、動揺したからだ。
言葉を探しあぐねているうちに、降りるバス停が近づいてきた。
臼井が降車ボタンを押してから、あ、と声を上げて、
「そうだ。お弁当……今日、もしかしたら昼までかかるかなと思って持ってきてたんですけど。いかがですか」
ちょっと早口ぎみに、そう切り出した。
不意をつかれて、とっさに返事が出てこなかった。ブザー音を鳴らしながらバスが停まる。臼井の消え入りそうな声が続く。「あの。この間の、もし、社交辞令じゃないんだったら……」
「だけど、臼井の昼飯だろう?」
「帰ったら残り物が。うっかり作りすぎてしまって」
「あー、」
なんとなく、選択肢のないところに追い込まれたような気分になりながら、頬を掻いた。
「……いただくよ。迷惑じゃなかったら」
それで結局、またしても同じ公園のベンチに並んで座った。
真夏だった前回よりはいくらかましだが、まだ当たり前のように残暑は厳しく、木陰にいても汗が流れた。
臼井の弁当は、やっぱりうまかった。
何が違うんだろうなと、しみじみと思う。材料のよしあしとか、手間暇とかいうなら、それこそ先日の小料理屋のほうが、よほど手の込んだものを出すだろうに。
もらってばかりというのも何だが、材料費を払うというのもそれはそれで変だ。それで、つい、
「悪いな。今度、なんか奢るよ。ケーキとか」
そう言ってしまってから、妙に焦った。「こういうのもセクハラになるかな?」
「されてるほうが嫌がったらセクハラなんじゃないですっけ」
「嫌がってるように見えなくても、内心じゃ怒ってるかもしれないだろ。男なんて単純だから、そういうの全然気づかなかったりするし。宮須みたいにわかりやすく蹴りでも入れてくれりゃいいけど」
臼井がくすりと笑う。「男の人は大変ですね」
「かもな。多分、女の子の次くらいには」
「……係長、もしかして女の人たくさん泣かせてません?」
むせた。
せっかくの弁当を吐き出すのがもったいなくて、根性でどうにか飲み下してから、ようやく抗議の視線を隣に投げる。
「なんでそうなるんだ。残念ながら、誰も近よってさえこないよ。それこそ宮須あたりに言わせれば、この世にひとつも楽しいことなんかなさそうな仏頂面だそうだから」
臼井は一瞬、変な顔をした。
「宮須係長と、同期なんですっけ」
「まあ、一応……あいつ、なんか俺にだけ当たりきついよな? 俺の気のせいじゃないよな?」
「それは……」
臼井は何か言いかけて、口ごもった。
「なに?」
聞きかえすと、臼井は慌てたようにぶんぶん首を振った。「いえ、なんでもないです」
怪訝に思いはしたが、臼井がそれ以上触れて欲しくなさそうにしていたので、話を変えようとして、
「そういえば、仕事中じゃないんだから、いちいち役職で呼ばなくても」
何の気なしに言ってしまってから、「え?」と振り返る臼井の勢いに焦って、言葉を足した。「いや。ほかの皆も、そうしてるだろ?」
「あ、ええと……そういうものですか」
「そういうものだね」
会社によるかもしれないけど、と付け足してから、どうもいちいち調子が狂うなと思った。
「ごちそうさま。うまかった。……料理、好きなんだな」
これだけうまいものを作るのなら、手間が苦にならないくらい好きなのだろうと。それくらいの、軽い気持ちで言った言葉だった。
だが臼井は、すぐに返事をしなかった。何かを言いかけて、長くためらっていた。それからようやく、
「……好き、なんでしょうか。嫌いなのかも」
そんなことを言った。
「そうなのか?」
聞き返したのも、ただ意外だっただけで、他意はなかったのだが。臼井はなぜかいたたまれなさそうに目を伏せた。
「……すみません」
泣くんじゃないかと思って、慌てた。「なんで謝るんだ。ほんとにうまかったよ」
臼井はいっとき黙っていた。それから、気まずい沈黙を振り払うように、ぱっと顔を上げて、冗談っぽく笑った。「ケーキ、ほんとに楽しみにしてていいですか。わたし、甘いもの、すっごく食べますけど」
「覚悟しとくよ」
苦笑して答えながら、無理のにじむ臼井の笑顔に、落ち着かない思いをもてあまして。
それじゃあまた来週と、立ち去る背中を見送りながら、俺はいったい何をやっているんだろうなと思った。
部屋に引き上げてから、思い切り頭を掻いた。
臼井はああいう言い方をしたけれど、弁当は、わざわざそのために作ってきてくれたのだろうという気がした。中年男のみっともないうぬぼれでなければの話だが。
一回りどころでなく年下で、直属じゃないとはいえ部下だ。自分が牧田に言った言葉が蘇る。
セクハラが怖いとか、そういう問題じゃない。相手は年下の、まだたいして世間ずれしてもいない女の子だ。それも失恋したばかりのところにつけ込んで。
いや。考えすぎだ。それこそうぬぼれだ。
臼井だって、中年男相手に本気でどうこうなんて思いもよらないだろう。恋愛対象にならない年齢だからこそ、安心して話せるというだけだ。きっとそうだ。
だいたい、弁当がうまかったからってなんだっていうんだ。手料理が食いたいだけなら家政婦でも頼めばいい。
家政婦。家政婦か。思わずネットで検索する。斡旋所のページがヒットしたが、詳細にたどり着く前に冷静になった。
他人を部屋に立ち入らせるような面倒くささと引き替えにまでして、見知らぬ誰かの手料理が食べたいのかというと、そんなわけがなかった。だいたいよっぽどの高給取りならともかく、ひとり暮らしの男が家政婦を雇うとか、どういう状況だ。
うまいものが食べたいなら、自分で料理に凝ればいい。そうしよう。男性向けの料理教室もいまどきはある。いやそれはさすがに少々ハードルが高いか。
自分が問題を直視していないことには気づいていたのだが。
惰性でレシピを検索すると、ヒットしたのはほとんどがクックパッドか、料理好きの女性のブログだった。気も無いまま上から順にいくつか開くと、レシピじゃなくて、普通の日記が混ざっていた。
すぐ閉じればよかったのに、うっかり「若い女の子を好む男は精神的に幼稚」みたいな文章が目に飛び込んできて、思い切り机に突っ伏す。
立ち直るのに時間がかかった。
だいたいあの日、どうして臼井にあんなことを言ってしまったのか。また食いたいとか、馬鹿なことを。
直視したくはなかったが、自分でも薄々、その答えに気づいてはいた。
俺は多分、羨ましくなったのだ。
自分ではない誰かのために、心を込めて作られた手料理が。
エアコンをつけるために立ち上がる気力もなく、馬鹿馬鹿しいほど暑い部屋の中でひとり、自己嫌悪にうちのめされて、いっとき転がっていた。
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