第2話

 だからといって、まさか会社でふたりで弁当を囲むわけにもいかないのだが。

 まあ普通に考えて、社交辞令だろう。だいたい本気だったらこっちも困る。

 翌日、臼井は普通に出社して、いつもと変わらず真面目に仕事をこなした。先輩社員に教わった内容を熱心にメモしている姿を横目に見て、えらいなと思った。

 なんせ昨日の今日だ。社会人なのだから当たり前といえば当たり前なのだが。しかし二十二かそこらの、ついこの間まで学生だった女の子だ。それを考えたら、やっぱりえらいような気がする。

 臼井は教え甲斐のある素直な新人として、入社以来、周囲の人間から可愛がられている。仕事の覚えが早く、礼儀正しい。服装はきちんとしすぎて少し野暮ったいが、まわりのおじさんおばさん連中にしてみればそこも可愛いんだろう。我が子を見守るような目になっている人間も少なくない。

「遠野係長、ちょっといいですか」

「うん?」

 当の臼井から話しかけられて、平常心、と胸の内で呟いた。本人が何でもない顔をしているんだから、いつも通りに接するのが礼儀だろう。

「この資料なんですけど……」

 ああ、と相槌を打ちながら、つい臼井の黒縁眼鏡を透かして、目元に視線がいく。泣きはらしたような痕は、少なくとも見て気づく範囲ではなかった。なんとなくほっとしながら、質問に答える。

「ありがとうございます。すみません、お忙しいのにお時間とらせて」

「はい。どういたしまして」

「あー、遠野、若い子だからって鼻の下のばして。駄目よーうちの可愛い部下、あんたなんかにあげないんだからあ」

 人聞きの悪い難癖に振り向くと、同期の宮須が仁王立ちになっていた。

「のばしてない。あと宮須係長はいっぺんセクハラで訴えられたらいいと思う。男性社員一同の心の平穏のために」

 宮須はふたつ年上で、一緒に仕事をする分には話が早くてやりやすい相手だが、絡まれると面倒くさい。歯に衣着せない言動がうけるのか、女性社員からは人気があるようだが。

「残念、男に対するセクハラはセクハラにあたらないのだー」

「その法律ちょっと前に変わったらしいぞ」

「あれ?」

「総務部の人間としてはぜひとも知っておきたい知識だな。それより、その可愛い部下が板挟みで困ってるように見えるが」

「あーごめんごめん、臼井ちゃん真面目だからあ」

 まったくだ。目を白黒させている臼井の手に資料を返して、自分の席に戻ろうとしたら、宮須から呼び止められた。

「あ、ねえ遠野、明後日の店どこだっけ? 同期会」

「会っていうか、三人だけどな。何て名前だったかな、市役所の裏手の、生簀がある」

 あー了解了解、と手をひらひらさせながら宮須は席にもどっていった。そのあとを追いかけるようについていった臼井が、ふいにくるりと振り返って、ぺこりと頭を下げた。

 その律儀さが、可笑しいような、微笑ましいような気がして、つい笑ってしまってから、思わず自分の顔を擦った。まさか本当に鼻の下が伸びているとは思いたくないが。



「んじゃ、まあ」

「お疲れさんっていうことで」

「もうだめ一秒も待てないビールぅー」

 お前なあ乾杯くらい待てよそれでも社会人か、年上に向かってお前とか言っちゃうやつに社会人としての礼儀を問われたくありませんー、まあまあそれより聞いてよこの店のことうちの課長から聞いたんだけどさあ。

 俺と宮須と、営業部の牧田。たった三人の同期で、不定期に飲みに行く顔ぶれだ。だんだんいい年になってきているはずなのに、同期で集まると心が新入社員に戻るものなのか、年齢相応の落ちつきは一瞬で行方不明になる。

 若手社員にはあまり見せたくないだらしない光景、というかその前に、ちょっといいお値段のする小料理屋だ。正直、騒がしくしているのが恥ずかしい。

 たまには少しいいものを食べたいと注文をつけたのは自分なのだが。

 出てきたのは、値段が違えばそれだけのことはあるのだと思うような料理だった。突き出しからして手が込んでいる。

 だが、ちゃんとしたものを食べたいというあのわけのわからない欲求は、少しも埋まった気がしない。

 何が違うんだろう。手間というなら、臼井の弁当よりよほど手間はかかっているのだろうに。

「あいかわらず何でも不味そうに食べる男ねー」

 宮須に図星をつかれて、思わず自分の顔を撫でた。

「悪かったな、地顔だ。あと箸で人を指すな」

 不味いわけではない。味がいいことはわかる。だが、それだけだった。だからどうしたという、醒めた思い以上のものは残らない。

 対して二人は嬉しそうに、料理に舌鼓を打っている。

「ていうかここほんとにうまいな。また今度来ようよ」

「あーやだやだ、食べ過ぎちゃうじゃない。この年になったらたった二キロ減らすのにどれだけ根性いると思ってるのよお」

 嬉しそうにがっついていた牧田が、急に箸を止めたかと思うと、自分の腹と俺のほうを交互に見た。「遠野は昔っから、ぜんぜん太らないよなあ」

「お前は結婚してから確実に太ったな。そんなに嫁の料理がうまいか」

「うまいよ羨ましいだろう。存分に妬め羨め」

「その腹は羨ましくないな」

「ていうか料理よりビールのせいでしょー、そのお腹は。どう見ても」

「あっなあなあ、お前らこのあいだの健康診断さあ」

 全員が四十近くにさしかかってくると、話題もしょっぱくなる。牧田は健康診断で医師から言われた小言をモノマネ付きで再現してから、大仰に溜め息をついた。「そんで、嫁さんがカロリー制限に協力してくれることになったんだけど」

「ここで目一杯飲み食いしてたら意味ないんじゃないのか」

「たまには! 羽目をはずさせてよ! ていうかお前だろ、うまいもの食いたいって言い出したの!」

「珍しいよねーそういえば。遠野がそういうこというの」

「そうか?」

「そういやそうだよな。どういう心境の変化? っていうか遠野は結婚しないの?」

 すっとぼけようとしたら、話題がとんだ角度でブーメランしてきた。

「その言い方だと、まるで結婚というものがひとりでできるかのように聞こえるな」

「だって、もてるだろお前」

「中年が並んでたら腹がへこんでるほうが相対的にもてそうに見えるっていうだけだろ」

「あっそういうこと言う?」

「あんたってやつはさあー、あたしがふたつ上なの重々踏まえた上でそういう発言するやつだよね殺すよ?」

 宮須は酒に強くない。早々に目が据わってきている。どん、と音をたててジョッキを置くと、テーブルに肘をついた。「まあでも、だいたい遠野は昔からもててたよね」

 完全に言いがかりだが、しかし、こんな話題が出るのも久しぶりだった。宮須用のウーロン茶を勝手に注文しながら、つい苦笑が漏れる。

「あっにやにやしてやがる、感じ悪い! 感じ悪いぞこいつ!」

「料理のうまい嫁をつかまえた奴に言われたくはないな」

「そうだろ羨ましいだろ。羨め」

 適当に流しはしたものの、苦笑したのはもてた心当たりがあったわけではなくて、複雑な心境だったからだ。

 何年か前、同僚から、お前もしかしてゲイじゃないのかと言われたことがある。

 完全なる言いがかりで、同性にそういう興味を持ったことはまったくなかった。即座に否定したが、信じてもらえたかどうかは怪しかった。

 つまりは独身でいることが、不自然に思われはじめる年齢になったということだ。男性社員同士のシモネタ会話に積極的に加わらなかったのも、多分まずかった。

 社内で妙な噂が立った、のだと思う。わざわざ本人の耳に入れようというやつはいなかったが、その頃から、周囲の視線が少しばかり変わったようだった。

 訂正して回ろうかとも思ったが、じきに気がついた。弁解すれば弁解したでよけいに怪しむ奴はいるだろうし、それに、誤解のままにしておくほうが、楽だった。

 実際、わずらわしいことがずいぶんと減った。飲みに誘われる回数が少なくなり、女性を紹介されることも絶えた。

 そういうことをわずらわしいと言い切ってしまう自分を、どうかと思いはしたが。

 若い頃には何度か恋人ができたこともあったが、誰とも長続きしなかった。自分のほうに問題があるという自覚もあった。恋愛感情よりも、わずらわしさが勝ってしまう。

 そのうちに諦めた。自分は人と深く関わることに、そもそも向いていないのだと。

 飲みに行く機会が減ったとはいっても、これが案外、仕事に支障が出るほどではなかった。減ったのはむしろあまり気ののらない、面倒な相手からの誘いであって、大人数の飲み会は普通に声がかかるし、こうして同期も誘ってくれる。

 ありがたいと思うべきなのだろう。噂が耳に入っていないわけでもないだろうに、こうして知らないふりをしてくれるだけでも。

「遠野あんたさあ」

 宮須に箸で指された。「ほんとその面、どうにかなんないの? いっつもこう、眉間にしわよせてさあ。なんなのあんた、人生楽しんだら罰が当たるとでも思ってんの? だいたいそんな顔でよく営業なんかやってたわよねー」

 絡みついでに古い話を持ち出される。総務に移ってくる前は、牧田と同じ営業部にいた。もう七年近くも前のことだが。

「あっ知らないの宮須、こいつの営業スマイル、もう誰かと思うよ? 目を疑うよ?」

「えっちょっと見たい気になる。なんだろうこの心理、怖い物見たさっていうやつ?」

 好き勝手に言われながら無視して食べていると、牧田がふいに箸を置いて、苦笑した。

「まあでもねー、遠野のそういう、なんていうの? まかされたらまかされたこと何でもこなしちゃうところ、すげえし、えらいと思うけど」

 でもさ、と一拍おいて、牧田は続けた。「そういうところ、紙一重だなと思うよ。だってお前、頼まれた仕事断らないでどんどん引き受けちゃうだろ、そんでできるからやれちゃうだろ」

 買いかぶりだとは思ったが、なんとなくぎくりとして、反論を飲み込んだ。

「お前あのまま営業にいたら、胃に穴でも空いてたんじゃない?」

 否定できないような気がして、頬を掻く。牧田は苦笑して、料理に箸をのばした。「まあでもそういう意味じゃ、総務だってなあ」

 宮須がぐいとジョッキを呷って、指さしてくる。「そうそうあんた、いいかげんやたらサービス残業すんのやめなさいよねえ、会社脅迫するつもりなんじゃなかったらさあ」

「どっちかっていうと残業よりも、隣の係長さんの罵詈雑言のおかげでそろそろ胃炎のひとつも起こしそうなんだが」

「えー何か言ったあ? 聞こえなーい」

 耳をほじりながら憎ったらしくとぼけてみせる宮須の前に、店員が持ってきたウーロン茶を置いたら、テーブルの下で蹴られた。この女に憧れる女子社員たちに、いまの姿を見せてやりたいと心から思う。いつも思うだけなのだが。

 真面目な話にあっさり飽きて天ぷらをほおばっていた牧田が、ぱっと顔を上げて話を変えた。「そういや、宮須のとこの新人、あの子ちょっと可愛いよな。いまどきなかなかいないタイプっていうか、真面目だけど素直でさ」

「臼井のことか。料理のうまい嫁に言いつけるぞ」

「なんでそうなるの! じゃなくて、お前どうなのよ、可愛くないの? すぐ近くの席で仕事しててさあ」

「あほか。一回り以上は下だぞ。だいたい俺がちょっかいかけたらセクハラだろ、一応は上司なんだから」

「おまえ変にそういうとこ真面目だよな。公私混同しなきゃいいじゃん」

「だから臼井ちゃんは遠野なんかにはあげないってえー」

 だから宮須の俺に対するその評価の低さは何なんだと言いたかったが、抗議しても倍になって返ってくるのは目に見えていたので、飲み込んだ。「まあ心配しなくても、そもそも若い子はおっさんなんか相手にしてくれないよ」

「だからあんたあたしの前でそういう発言すんのやめろっつってんでしょぶっ殺すよ?」

 はいはいと聞き流していたら、本当にネクタイを掴まれて締め上げられた。

 とりあえず、得た教訓はひとつだった。もうこいつらと飲むときは、安くて騒がしい居酒屋にする。

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