蝉の泣き声

神連カズサ

一、

 がたん、ごとん、がたん、ごとん。

 車窓から見える緑に目を細めながら、涼夏(りょうか)は煩わしそうに一つ結びにした髪を撫でつけた。

 田舎の電車に乗るのが久しぶりすぎて、冷房がないことをすっかり失念していた。

 むしむしとサウナの中に居るような気分になって、思わず、うへえと殆ど無人に近い車両の中で、舌を突き出す。

「……暑い」

 そう呟いた声は、開いた窓から聞こえてくる蝉時雨に掻き消されてしまった。


 初めて会ったのは小三の夏。

 お互いまだ小さくて、それでいて生意気な歳の頃だったから、それこそ威嚇する猫よろしく睨みあって対峙した。

 彼が話す関西弁は当時の自分には聞き慣れないもので。それが余計に警戒心を固くさせたのかもしれない。

 お互いに、お互いが使う言葉をバカにしてよくケンカになったのを思い出す。

 くすり、と昔に笑みを浮かべながら、涼夏は蝉時雨に耳を澄ませた。みんみん、と何重にも鳴り響く大合唱の中、時折吹き込む風が頬を撫でるのが心地良い。

やがて、車掌が駅名を伝える声に、自分が降りる駅だったことを思い出すと、ゆっくりと座席から立ち上がった。二時間近く座っていた所為で、ジーンズが肌に張り付く感触が気持ち悪い。駅に迎えを寄越すと言ってくれていたから、目的地に着いたら早々に着替えてしまおう。

 そう算段を付けて電車を降りると、そこで涼夏を待っていたのは、甚平に麦わら帽子、極め付けにはオレンジ色のフレームの派手なサングラスを身に着けた珍妙な格好の青年であった。

「どぉも、遠いとこからわざわざありがとうございますぅ」

 どこか聞いたことのあるような声に、首を傾げながらも、若干厭味ったらしい言い方に腹が立って、取りあえず営業スマイルを張り付けて間髪入れずに言い返す。

「いいえ。私が来たいと言ったので……。まさか空港から電車で移動することになるとは思ってもみませんでしたけど、道中すごく楽しかったです」

 こんな炎天下の中、モデルと女優を生業としている涼夏を歩かせるだなんて、と遠回しに言えば、男は一瞬だけ眉を寄せたが、次いでサングラスをずらし、涼夏の顔を凝視する。

 漸く、自分が有名なモデルであることに気が付いたのか、と涼夏が紫外線の濃度によって色の変わるレンズが入った特殊なサングラスを掛けながら、勝ち誇ったように口元を綻ばせると、男が急に叫び声を上げた。

「あーッ!!!」

「な、何よ!? 急に!!」

「お、おま! 涼夏か!!」

「はあッ!?」

 芸名である「立夏(りっか)」で呼ばれるならいざ知らず、こんなダサい格好をした男に本名で呼ばれて、涼夏は目を剥いた。本名は今まで一度も公表したことはないし、これからもするつもりはない。では何故この男が自分の名前を知っているのか。

 涼夏は首を捻ると、男の顔立ちに幼馴染の面影を見つけて叫んだ。

「い、いっちゃん!?」

「お、やっぱり! お前、涼夏やんなぁ!」

「うわー懐かしい!! おっきくなったねぇ! 昔は背あんまり変わんなかったから、誰かわかんなかった!!」

「俺も全然分からんかった! 何か声似てるなぁ、って前から思ってたねんけど、まさかモデルの立夏が涼夏とは思わんかったわぁ」

 うんうん頷きながら腕を組んで、涼夏の荷物を受け取る男――新島樹(にいじま いつき)を見て涼夏は笑った。

「いっちゃんは今何してるの?」

「デザイナー。旅館の広告とか温泉の割引券作ったりして、宣伝してんねん。言うたら俺が広報の担当者やな」

「へえ……。あ、温泉で思い出した! ねえ、お風呂って今からでも入れる?」

 そう言った涼夏に樹の顔が渋くなった。

「うーん、ちょお待ってや」

 それからどこかに電話を掛け始めたかと思うと、何やら捲し立ててものの数秒で会話は終わる。

「おかんが沸かしといてくれるて」

「えー!? わ、悪いよ! 女将さんにそんなことさせられないって!」

「女優歩かせたんやから、それくらいせえな『夕凪』の名前が泣くって」

 おどけながら、そう言って歩き始めた樹の後を涼夏が慌てたように追いかけた。

 見上げるほど高くなった身長の幼馴染と昔の彼が重なって見えて、何故かそれが泣きそうになるくらい嬉しかった。


「え、いっちゃんが運転するの」

「なんや、嫌やったらお前こっから歩きやぞ」

「……夕凪と駅の距離を知っててそれ言うんだから、性格悪くなったよね」

 そう言って恨めしそうに樹を睨んだ涼夏に、彼はけらけらと笑い声を上げると、ハンドルを握りしめて車を発進させた。

 昔は送迎バスが何台も出るほどの人気旅館だった「夕凪」もここ十年であちこちに出来た大手ホテル支店に客足を取られ、今では老舗の名前に縋って営業をしているようなものであった。

 この夏の売り上げ次第では別館を壊さなければならない。そう思っていた矢先、助手席に座る涼夏から次の映画の撮影で使うロケ地の候補として下見したいと連絡が入ったのだ。

 最初は今をときめく女優の名前を騙った嫌がらせだろうと誰も本気にしていなかったが、女将であり樹の母でもある清子(きよこ)が、あの声は嘘を吐いている声じゃなかったと一点張りし、承諾した結果、本当に女優である立夏(涼夏)がやって来たのである。

「まあ、でもおかんが正しかったなぁ」

「何が?」

「いやぁ、俺ら最初悪戯かなぁって思てたからよぉ」

「えーひっどーい」

「いやいや誰でも女優の名前で連絡されたらびっくりするて……。お前何で本名で名乗らんかってん、おかん言うたらめっちゃ喜んどったぞ」

 先程、電話をした時の母の声色を思い出しながら、樹は涼夏の顔をちらりと横目で見た。

「……だって、何て言えばいいのか分からなかったし」

「いや、そこは普通に泊まりに行きたいんですけど、でええやん」

「何年も行ってなかったのに、今更何しに来たんだって思われたらどうしようって思っちゃって」

「くはっ。相変わらず被害妄想きっついなぁ」

 子供の頃から自分に関わること全てをネガティブに考えていたところは健全らしく、それが可笑しくて樹は歯を見せて笑った。

 久しぶりに会ってすっかり綺麗になったというのに、相変わらず難儀な性格をしている幼馴染に何だか妙にホッとした。

「いっちゃんだって、相変わらず意地悪なところは変わってないよね」

 目を細めながらにそんなことを言われて、樹は苦笑した。

「そんなんお前限定やから安心せえ」

「何それ! 全然安心できない!!」

 車内で弾む笑い声に対抗するように、蝉時雨の音が大きくなった気がした。


 チェックインの客に涼夏が見つかると困るので、樹は彼女が目立たないよう細心の注意を払いながら従業員出入り口のある、裏手に車を停め、涼夏を事務所に案内した。

「いやぁ! りょうちゃん久しぶりやねぇ!! えらい別嬪さんになってぇ!!」

 事務所に入って早々、そう言って涼夏に抱き着いた清子に戸惑いながらも、涼夏は笑みを返した。

「お久しぶりです、おば様」

「いややわぁ! 聞いた!? 今、おば様って言うたでこの子! いややわぁ!」

 久しぶりに会った清子は相変わらず着物の似合う美人で、けれども、何年たっても変わらない明るい性格に涼夏はくすり、と笑みを零した。

「もうこの子ったら他人行儀やなぁ。昔みたいに清ちゃんって呼んでぇなぁ」

「い、いやそれは流石に……。一応仕事で来てますし……」

「えーもうーいけずー」

「気色悪いこと言うてらんと、さっさと風呂連れて行ったれよ。二時間も電車乗って疲れてんねんから」

 ぶう、と子供のように頬を膨らませながら温泉の具合を見に行った清子に、樹は溜息を吐き出す。

「経営はじいちゃん任せやったからな……。おかんはお飾りに近いから何もようせんねん」

「そ、そんなことないと思うけど……」

「三葉(みつば)が、学校行きながら帳簿付けてんねんぞ」

 三葉とは、樹の三歳年下の妹だ。小さい時から頭が良かったのは覚えているが、高校生が旅館の帳簿をやり繰りしていると思うとゾッとした。

「三葉ちゃん、すごいね」

「今日もお前に会いたいって言うてたんやけど……。決算近いからなぁ、部屋でパソコンと睨み合いしてると思うわ」

 肩を竦めながら、樹は自分のデスクに座ると、パソコンを立ち上げて涼夏の方に画面を向けた。

「これやろ? お前がうちの旅館思い出したの」

 そこには、夜空を彩る花火に囲まれた夕凪と「夏の夜、大切な人と過ごしませんか?」という文が書かれていた。

 花火、と言われて、涼夏が思い起こすのはこの旅館と、目の前でにやにやとした笑みを浮かべる幼馴染のことだった。

 毎年、夏が来る度にここに来るのが待ち遠しかった。モデルになってからは忙しくて、ここ何年も来ることが出来ていなかったけれど、辛いことがあるといつも夏を過ごしたこの場所を思い出していた。

「今度撮る映画でね、花火を打ち上げるシーンがあるんだ」

「デカいやつ?」

「違うよ、ロケット花火」

「何や、しょうもないなぁ」

 唇を突き出して頬杖を突く樹に涼夏は笑う。

 本当は樹に会いたくて、マネージャーを振り切ってまでやって来たと言ったら、彼はどんな顔をするだろうか。


 いつかと同じ夏の始まりを告げるように、夕暮れにまた、蝉時雨が鳴り響いた。

 


二、

 白い肌の上を伝う滴はまるで、ラムネの中に入ったビー玉のような光を放っていて、思わずごくりと喉を鳴らした。

「立夏さん、休憩入りまーす!」

 緑色のパラソルに入っていく幼馴染を眺めながら、樹は溜息を吐き出した。

 涼夏が帰ってから二日後。正式に映画のスタッフから連絡があり、夕凪がロケ地として使用されることになった。一週間の準備を経て、昨日から撮影が始まったのは良いのだが、何も事務所の前にセットを組むことはないだろう。来客があるたびに説明を繰り返すのが、いい加減面倒くさくなり、ぐったりとした顔で麦茶を流し込んだ。

「いっちゃん」

「うお!!? な、何や! びっくりした!!」

「あはは、ごめーん。何かね、ウォーターサーバーが暑さでやられちゃったみたいで……。事務所の水貰ってもいい?」

 麦わら帽子に白いワンピースを着た涼夏が、にっこりと歯を見せて笑う。宛ら映画のワンシーンでも見ているかのような錯覚を覚えて、樹はぎこちなく彼女から目線を外して、おう、と短く返事を返した。

「はあ~! 生き返る~!」

 ごくごく、と浴びるように水を飲む涼夏を尻目に、先ほどまで彼女が居たセットの方に樹は視線を移した。

 数人のスタッフと今をときめく俳優が三人、談笑しているのが目に入る。

 その中にさっきまで幼馴染が居たのかと思うと、何だか妙な気分になった。昔から、顔は可愛いと思っていたが、中身は想像も付かないほどにお転婆で、そのくせ涙腺が弱いから、喧嘩になるといつも泣いていた。その所為で、何度亡き祖父から拳骨を喰らったか。

 懐かしい痛みを思い出して、樹は右手で己の頭に触れた。

 汗が滲むから、と巻いたタオルもすっかり湿っていて、あとで取り換えるなり風呂に入るなりしなければ、と顔を顰める。はあ、と溜息を吐いたタイミングでまた、涼夏に声を掛けられた。

「いっちゃんも飲む?」

 いくら冷房が効いているとはいえ、溜息を吐くくらい暑いのだと思われたのだろうか。

 半分ほど減ったミネラルウォーターのペットボトルを差し出す、涼夏の白い手に見惚れて、少しだけ反応が遅れる。

「飲まないの?」

「え、あ、ああ……。ほんなら一口だけ」

 そう言って受け取ったペットボトルの淵には、うっすらとピンクの口紅が付着していた。数秒ほど固まった樹に対し、涼夏は怪訝そうに眉根を寄せたが、樹は意を決したようにそれを飲み干した。

「ああーッ!! 一口って言ったのにーッ!!」

 恨みがましそうに空になったペットボトルを指差しながら、半泣きになる涼夏に、樹がけっと唇を突き出す。

「俺の一口はこんだけなんですぅ」

「はあッ!? 意味わかんない! いっちゃんのバカ!!」

「バカってなんやバカって!」

「バカにバカって言って何が悪いのよ、バカ―!!」

 バカバカ、と空になったペットボトルで叩いてくる涼夏に、子供か、と呆れながら樹は笑った。見掛け倒しな所は昔からまったく変わっていない。

 テレビや雑誌の中の彼女は、凛とした美しさの所為で冷たさを感じさせ、とても近寄りがたそうなのに。こんなにも、近くで己と会話をする涼夏が、堪らなく愛らしく思える。

「おいコラ、さっさとせえな休憩終わるんちゃうんか」

「あ……」

「ほら、早よ行け」

 鬱陶しい、と思ってもいないことを口にすれば、涼夏がにやりと笑って見せた。幼い頃から、偶に見せるその笑い方は決まって、何かよからぬことを思い付いた時の彼女の癖であった。

「いっちゃん」

「な、何や」

 そっと、自分の唇に触れて、涼夏が目を細める。ビー玉のような色の瞳が睫毛に反射して眩しかった。

「……間接キス、しちゃったね」

 薄くなったピンクの口紅を伸ばすように、艶めかしく涼夏の指が唇の上を滑っていく。

 ドッ、と心臓の音が大きくなるのが分かった。次第に、頬に集中する熱に、反論するのも忘れて彼女の唇から目が離せなくなる。

「あは、真っ赤になっちゃって! 可愛いー!!」

 そう言ってまた、白い歯を見せて笑うものだから。

 樹は堪らなくなって叫んだ。

「お、男に可愛いって言うなや!! 大体可愛い言うんはお前みたいな――」

 しまった、と思った時には既に遅くて、これ以上言葉が口から零れないようにと手で口を押え、恐る恐る涼夏に視線を移す。今度は彼女の顔が真っ赤に染まっていた。

「りょ、涼夏?」

 そのまま放っておいたら爆発してしまうんじゃないかと思うくらいに真っ赤になった涼夏に手を伸ばせば、華奢な肩がびくり、と跳ねた。

「……わ、私撮影戻るね!!!」

「お、おう」

 ドクドク、と忙しなく脈打つ心臓に、樹はその場に蹲る。

 窓を焦がすように照り付ける太陽が、憎らしかった。


 目を見開いて、顔を真っ赤に染めた幼馴染の顔が頭から離れない。

 ふるふる、と弱々しく首を振る涼夏に、映画のメインポスターのデザインを任されている武虎が不思議そうな表情で彼女に声を掛けた。

「どうした? どこか調子でも悪いのか」

「う、ううん。調子は悪くないよ! むしろ絶好調って感じかな! 虎ちゃんの方はどんな感じなの?」

「そうだなー……。やっぱりワンピースじゃなくてこっちの浴衣の方がしっくりくる気がする……」

「どれどれ~?」

 先日、衣装合わせで取った浴衣と今着ているワンピースの写真を見比べながら、涼夏が渋い顔になる。

「……私も、こっちの方が好きだな」

「だろ? でもなぁ監督が何て言うか……」

 今回監督を務めるのは、この界隈では気難しいと有名な人物である。夕凪をロケ地にするのだって、マネージャーと二人で何日も足を運び、漸く了承をもぎ取ったほどなのだ。さて、どうしたものか、と涼夏が腕を組んで唸っていると、視界の端で美しい金糸雀が翻った。

「虎」

 鈴を転がしたような声に、思わず瞬きを繰り返せば、武虎も驚いたようにその人物を凝視している。

「美乃?」

「父さんが、これ持っていきなさいって」

 にっこり、と菓子折りが入った袋を片手に微笑んだ日本人形のように美しい少女に、その場に居た誰もが見惚れた。

「こんにちは、美乃ちゃん」

 風で飛ばされそうになった麦わら帽子を押さえながら、涼夏が、美乃に声を掛ける。

 桜のような儚さを感じさせる美少女と、今をときめく若手実力派女優のツーショットに思わず、携帯のカメラ機能を起動させたスタッフたちを武虎が眼力で諫める。

「立夏さん!」

 嬉しそうに頬を染める少女に、場の空気が和やかなものに変わるが、武虎の冷ややかな視線が痛いくらいに突き刺さり、スタッフたちは遠巻きに眺めながら己の仕事に戻っていった。

「せ、先日はその、どうもありがとうございました!」

「あら、いいのよ。むしろこっちがお礼を言いたいくらいだわ。虎ちゃんったら、締め切り間近だってのに、一向にデザインラフを上げてくれなかったんだもの」

「……余計なこと言うなよ」

 少しだけ唇を尖らせて、武虎はそっぽを向いてしまった。若干気恥ずかしそうな声音だったのは、美乃の前ではかっこいいお兄さんで居たいという表れなのだろう。普段の仕事熱心な彼からは想像できない表情に、涼夏がくすり、と笑みを零す。

「あ、そうだ。美乃ちゃん、どっちがいいと思う?」

 武虎をからかうのは楽しいが、美乃が帰った後にくどくどと文句を言われるのは嫌だ。そう思って、涼夏は先ほど自分たちが見ていた浴衣とワンピースの写真を美乃に手渡した。

「……これどっちも立夏さんですよね?」

「う、うん」

 難しい表情で写真を見比べる少女に、武虎と涼夏は顔を見合わせる。

 次いで、ゆっくりと美乃がその口を開いた。

「この浴衣、色が気に入りません。立夏さんに着せるなら、もっと淡い色合いの……。勿忘草色に白の牡丹が入ったものの方が映える気がします」

 流石、伝統ある呉服店の跡取り娘である。嫌悪感を隠しもせず、センスが悪いと桃色の浴衣に美乃は舌を出した。

「確かに……。この映画のコンセプトの一つは『夏』だしな。これだと春色の印象が強い」

「そんなこと言ったって、撮り直している時間がないわよ」

 首を横に振って、ああでもない、こうでもない、と言い合いを始めた涼夏と武虎に、美乃がにやりと人の悪い笑みを浮かべて見せた。

「こんなこともあろうかと、皇呉服より、お着物お持ち致しました……!!」

「宣伝する気満々か!!」

 武虎が驚きを隠そうともせずに叫ぶ。

車に控えさせていたのか、「皇」とデカデカと背中に文字の入った法被を着た男たちが大きな筒籠を持って現れる。

「もちろん、先ほど言った勿忘草に白牡丹の浴衣もございます!」

「……お前、おじさんの前でもそうやって商売してやれよ。絶対喜ぶって」

「いやよ。私、立夏さんに着てもらいたいから持ってきただけだもん」

 こういうところは高校生というか何というか。商売人としての血を否定するくせに、持ってきている着物の量はロケに使用する予定だったそれとほぼ同数なのだから恐ろしい。

 俳優だけならまだしもエキストラの分まで揃えているらしく、涼夏と武虎がそろって苦笑いする。

「さあ、行くわよアンタたち! うちの着物を着せないってんなら、虎は貸しませんって直談判してやる!」

「へい、お嬢!!」

 野太い声の男たちを引き連れて、美乃が監督の居る大きなテントの方に向かっていく。それを慌てた様子で追いかける武虎に、涼夏が小さく笑った。


「いっちゃん」

 昼間のことがあったから今日はもう、こちらには顔を出さないだろうと思っていたのに。ラフな格好に着替えた涼夏が、こちらを窺うように事務所のドアを開けて立っていた。

「何や」

「あのね、これ見てほしくて」

 そう言って差し出された写真には、桃色の浴衣を着た涼夏と、淡い水色の着物を着た涼夏が映っていた。

「どっちがいいと思う? ポスターに使いたいんだけど、迷っちゃって」

「……そら、こっちやろ」

 そう言って樹が指差したのは、美乃推薦の勿忘草色の浴衣であった。何の迷いもなくそちらを選んだ樹に、涼夏の目がこれでもか、と見開かれる。

「……どうして、こっちを選んだの?」

「うーん……。色合いが好きっていうのもあるけど、お前に似合うんはやっぱ青系統かな、って思って」

「どうして?」

 また、涼夏が問うのに、樹はぽりぽりと頬を掻いた。

 幼い頃、涼夏の着ていた浴衣は全部樹が選んでいたのを、きっと彼女は知らない。

 肌の白い涼夏に、桃色を着せるのは血色が良くなって可愛らしいと思った。実際子供の頃はよく桃色系統の浴衣を選んでは、母親が選んだ風にして彼女に着てもらっていたくらいだ。

 けれど、今は違う。

 少女、と呼ぶには大人になりすぎていて、大人、と呼ぶにはまだ何か足りない。そんな曖昧な年齢だからこそ、涼夏にはこの青がよく映えて見えたのだ。

 儚げな蛍のように、白い肌に薄っすら青みがかるのが、美しい。

 このまま消えてしまいそうな何とも言えない思いが胸中に渦巻いた。ひと夏にしか会えない、子供の頃に抱いていた懐かしい感覚が蘇ってくる。

「こっちの方が映画のイメージにも合ってると思ったからや」

「……」

「な、何やねん」

「そこは嘘でもこっちの方が可愛いからって言っておくべきだったね。女心が分かってないよ、いっちゃん」

 じとり、とした目で何を言うかと思えば、くだらない。

「……そんなん言わんでも、分かるやろ」

 アホか、と樹は目を細めて、涼夏の頭を小突いた。

 黙ってこちらを見たまま固まってしまった涼夏の顔を、樹が不思議そうに覗き込めば、女優の顔が見る間に色付き始める。

 顔と言わず、肌と言う肌を赤くして、目を潤ませた幼馴染がこちらを睨むのに、樹は笑った。

「真っ赤になっちゃって、かーわいいー」

「ちょ、それもしかして私の真似!? 全然似てないから!! やめてよ!」

 ぎゃあぎゃあ、と煩わしいその口を塞いでしまえば、静かになるだろうか。そんな邪な考えが脳裏を過るが、樹は頭を振って、それを却下した。

 自分はロケ地の提供者で、彼女は女優。

 昔のように、遊びに来ているならいざ知らず。今は、お互い仕事相手として接さなければならない。

「……うっさいな、似てたやろうが」

「に、似てなかったよ!!」

「あーはいはい。……煩いから、さっさと部屋帰って寝れ。明日もどうせ早いんやろ」

 電源が入ったまま放置していたパソコンに向き直ると、樹はお気に入りの椅子にどっかりと腰を下ろした。

「…………いっちゃん」

 小さな声で、自分を呼ぶ涼夏を振り返れば、そこには今にも泣きだしそうな顔をした幼馴染が居た。

「……な、おま、急に何やねん」

 目に涙の膜を張って、唇を噛む涼夏に、樹は戸惑いを隠せない。

 どうしたら良いのかが分からなくて、咄嗟に幼い頃よくそうしていたように、彼女の身体を腕の中に閉じ込めた。

 とく、とく、と伝わってくる心音に、樹が眉根を寄せる。

「……ウソ泣きか、コラ」

「引っ掛かる方が悪い」

 悪びれもせず、満面の笑みを見せた涼夏に、樹は溜息を吐き出した。

「涼」

 子供の頃、呼んでいた呼び方で彼女に問いかければ、一瞬だけ驚いたような顔をして、彼女は笑った。

「なあに、いっちゃん」

 その顔が、あまりにも綺麗だったから。

 思わず先ほどの考えも忘れて、唇に触れてしまったのは、仕方がないと思う。

 

 冷房が掛かっていたのに、じわりと背筋に汗が伝った。



三、

 じりじり、と肌を焦がす熱が憎らしい。

 身の内に段々と侵食して、いずれは身体をも溶かしてしまうのではないかと、熱でぼうっとした頭でそんなことを思った。

 首筋を伝う汗を拭いながら、涼夏は溜息を零す。

 唇にやわやわと触れて、先日の夜の出来事をぼんやりと思い出しては、また溜息を零した。

 ――樹にキスをされた。

 何がきっかけだったのかは、分からないが、ままごとの延長戦のような可愛らしいキスに、涼夏は咄嗟に反応することが出来なかった。

 一瞬だけ触れた唇は少しだけかさついていて、それに気が付く頃には目の前に真っ赤になった幼馴染の顔があった。

「わ、悪い」

 そう言って心底困ったという顔をした彼に何と言ったらいいのか分からなくて、涼夏は頭を振って曖昧に笑った。

「へ、平気だよ。な、慣れてるし……。ほ、ら、芝居でよくするしさ……」

「……」

「い、いっちゃん?」

 何か言葉を間違ったのだろうか。

 あの場では何と返すのが正解だったのか自分には分からない。

 樹はそれきり黙り込むと、数秒間を置いて、部屋に帰れとだけ言った。

 おやすみ、と涼夏の声に一瞥をくれたきり、二人は会話をしていない。

 

「…………慣れてる、かぁ」

 当たり前だ。

 涼夏ほどの女優にもなればキスシーンの一つや二つ、ない方がおかしい。

 ちくり、と痛んだ胸の理由が分からなくて、樹は無性に機嫌が悪かった。

 子供の頃なら、お互いに何でも思ったことを素直に言えたのに。離れていた時間が長すぎて、今はもう涼夏が何を考えているのかさえ、分からない。よく考えてみれば、夏休みにしか会うことがなかったから殊更彼女の思考が分からなかった。

 それに、夏なんてあっという間に過ぎる。

 昔は夏休みが長くて嫌で堪らなかったのに、今は違う。今、というか、涼夏と出会ってから変わってしまった。

 夏が待ち遠しくなったのも、蝉の鳴き声が愛しく思えるようになったのも、全部――涼夏が隣で笑っていたからだ。

 それに気が付くと、樹は派手な音を立てて椅子から立ち上がった。

 しん、と静まり返っていた事務所に木霊する椅子が倒れる音に、隣のデスクに座っていた従業員が不思議そうな顔で樹を見た。

「だ、大丈夫ですか?」

「……お、おう。悪い。ちょっと休憩行ってくる」

 ポケットにライターと煙草を忍ばせながら、樹は事務所を出た。

 じりじりと肌が焦げるのではないかと思うくらい爛々と輝く太陽に舌打ちして、撮影セットの脇を通り抜けると、木々が多い茂る裏庭へと向かった。

 大人一人がやっと通れるほどの細道を抜ければ、そこには使われなくなったバスの停留所があった。

 祖父の子供の頃からある停留所は、路線変更の為、樹が生まれてからは使われなくなってしまったらしく、彼はよくこの場所でキセルを銜えて紫煙を燻らせていた。

 着流しにキセルを銜える祖父の横顔が格好良くて、肺が悪くなると母に怒られるのも構わず、よく一緒にこの場所に連れてきてもらった。

 法律的には煙草を吸っていい年齢ではないが、それももう一年の辛抱だ。

「ふーっ」

 吐き出した煙が青葉の隙間を潜って空に上がっていく。

 冷房の効いた部屋もいいが、こうして自然の涼しさに包まれるのが樹は好きだ。

 森林浴を楽しみながら、煙を燻らせていると、人の声が聞こえてきた。

「……や!」

「ね? だめ?」

「いや! 離して!」

 男と女の声が一人ずつ。

 女の声の方に、聞き慣れた感じを覚えて樹は座っていたベンチからゆっくりと立ち上がった。

 この辺りは人気もなく、連れ込むには丁度良いと踏んだのだろうか。

 せっかく息抜きに来たのに、気分が悪い。火をつけたばかりの煙草を携帯灰皿に押し付けると、わざと足音が聞こえるように大股で歩きながら、声の方に近付いていく。

 そこには木の幹に身体を押し付けられた涼夏と、彼女に覆い被さるようにして男が立っていた。

 それを視界に収めた瞬間、身体が沸騰した湯沸かし器のように熱くなるのが分かった。

 考えるより先に男の横っ面を殴って、涼夏の手を取る。


「行くぞ!」

「え、ちょ」

 ぎゅっと握りしめられた手に、涼夏は瞬きをした。大きくなった背中を、必死に追いかけながら、繋がれた手を見て眉根を寄せる。

 

――いっちゃんの手って、こんなに大きかったっけ。

 

 暫く会っていない内に、すっかりと男の人になってしまった彼に、今更ながら心臓があらぬ音を刻み始める。

 どれくらい走っただろうか。

 気付けば、小さな川が見える場所まで来ていて、どちらからともなく、その場に崩れ落ちた。

「…………いっちゃん」

 川の水で顔を洗う後ろ姿に、幼い日の樹が重なる。

「んー」

「あのね、さっきの……」

「……おう」

「撮影、だったんだけど……」

「はあッ!??」

 居心地悪そうに指を弄りながら、涼夏が明後日の方向を見て言った。

「……あそこ使うとか言うてなかったやんけ」

「いや、ま、そうなんだけど」

 涼夏曰く、監督が広大な自然を前に我慢できず、撮影していく内に森の中に入って行ってしまったのだという。


「……はあ」

 最悪だ。恥ずかしすぎる。

 走った所為で上がった体温を川の水で冷やしたというのに、これでは意味がない。

 じわり、と侵食する羞恥の熱に苛まれながら、樹はもう一度溜息を吐き出した。

「……ご、ごめんね?」

 涼夏の声が近くて遠い。

 本当に襲われていると思って、焦ったのだ。

 誰だってあんな人気のないところで知り合いが、幼馴染が襲われていたら助けに入るに決まっている。涙目で、抵抗する涼夏の顔を見たら、我慢できなかった。あとで、先ほどの俳優と監督に謝らなければ、と乱暴に頭を掻きながら思っていると、視界が少しだけ暗くなった。

 見上げれば、鼻先が触れあいそうな距離に涼夏が居て、思わず固まる。

「ひひ」

「な、何や、きっしょいな」

 しゃがみ込んだかと思うと額をこつり、と合わせてきて、樹はますますどうしたらよいものか分からなくなってしまう。

「…………りょ、」

「――好き」

「は」

 さわさわ、と風に遊ばれた木の葉の音が耳を擽る。涼夏の声が風鈴の音色のように凛と、胸に響いた。

「……好き」

「な、」

 口を開いて金魚のようにパクパクと動かす樹に涼夏は微笑んだ。

「好きだよ」

 とどめ、と言わんばかりにもう一度投下された告白に、樹の肌がじわじわと赤に染まっていく。それから、涼夏は樹の唇に柔くキスをした。

「おま、」

「……」

「…………こういうんは男からが普通やろ」

「知らないの? 最近は女の子からでもするのよ」

 涼夏の感触が残る唇を柔く触りながら、樹は眉間に皺を寄せた。

 得意げな表情を浮かべたままの幼馴染が、愛しくも憎らしい。

 そっと、腕を掴んで引き寄せれば、存外簡単に手中に納まった彼女に、樹は目を丸くした。

 うっすらと色付く耳元に、瞬きを繰り返す。

「涼」

「な、なに」

 こっち向いてみ。

 低い声で呟けば、存外初心な幼馴染はそれだけで、全身を真っ赤に染め上げた。

 それが堪らなく可笑しくて、笑い声を押し殺すように彼女の肩に頭を預ける。

「可愛いな、お前」

「う、煩い! こんな時に言われても嬉しくないっての!」

「ほんま、可愛らしいわぁ」

「煩いってば!」

 いやいやと頭を振る涼夏をじっと見つめれば、負けじと見つめ返してくる。

「好きやよ」

「……遅いのよ、バカ」

「……バカは勘弁してくれ。どっちかっていうとアホの方が許容範囲内やから」

「何それ、意味わかんない」

「まあ、その内分かるようになるって」

 重ねた掌の温度は、じりじりと身を焦がす太陽の光よりもずっと熱くて、触れている部分から溶けてしまいそうな錯覚を覚えた。

「……涼」

「ん、」

 可愛らしいリップ音を鳴らしながらしたキスは、かき氷のシロップのように甘く、舌を侵す。開いた唇の隙間から舌を絡めれば、温い唾液が混ざり合って、項の辺りがビリビリと痺れた気がした。

「好きや」

「もう分かったってば」

 抱きしめた身体の細さに、樹は戸惑いながらも腕の力を緩めようとはしなかった。

 ただ、もう二度と離すまいと、涼夏の肩口に額を当てながらに誓った。


 蝉時雨の声が一層激しくなった気がした。



四、

 紅色に染まる夕日をバックに、ロケ地での撮影は終了した。

 あとは都内に戻って、建物内のシーンを二、三撮れば、涼夏の撮影は終了となる。

 クランクインした時は、エキストラやスタッフと上手くやっていけるか不安だったが、終わりが近付くに連れて、まだ一緒に仕事をしていたい、そんな気持ちにさせられた。

「立夏」

「……あれ、陽ちゃん来てたの?」

「おう。社長がな、様子見て来いって」

 ひらひらと片手を振りながら、現れた長身の男に涼夏は苦笑した。

「そんな子供じゃないのに、いいよ」

「そうかぁ? マネージャーの明美ちゃんまで巻き込んで、夕凪をロケ地に推したくせに」

「ぐっ」

 思わず両手で顔を覆って呻けば、男はケラケラと声を上げて笑った。

 銀縁のシンプルなサングラスを外すと、冷たい光を宿した榛色の目と目が合って、立夏はびくりと肩を竦ませた。

「お前の我儘なんて久しぶりだったからな。あの人も心配してんだよ、一応」

「……」

「分かってると思うけど、今回だけだからな」

「……はい」

 ごめんなさい、と素直に零せば、男――陽(はる)希(き)の表情が少しだけ和らいだ。

「それと、スキャンダルにも気を付けろよ」

「へ」

「ここ、付いてる」

 何が、と聞く前に、涼夏はハッとした表情を浮かべて首筋に手を遣った。

 昨日は、今日の撮影が終わったら涼夏が帰ることを知った樹に離して貰えなかった。キスだけだと言ったにも関わらず、とても人には言えないようなところにまで口付けをされてしまって、漸く解放される頃には空が白んできていた。

「……ファ、ファンデーション持ってる?」

「持ってる訳ねーだろ。オフなのに」

 にやにやと笑いながら去っていく陽希の後ろ姿に、涼夏はわなわなと震えることしか出来ない。

「い、いっちゃんのバカ―ッ!!!」

 夕暮れを縫うように飛ぶカラスの羽音に、涼夏の叫びが混ざり合った。


「さ、悟兄ちゃん!?」

「よ~、樹。二年ぶり~」

 祖父が死んで以来、久しぶりに会った従兄に樹は目を剥いた。

 今や国民的俳優として有名な陽希が、うちのロビーでアイスコーヒーを片手に寛いでいる。背景にキラキラなエフェクトが見えた気がして、首をぶんぶんと横に振った。

「……な、何しに来たん」

「清子さんに会いに」

 イケメンの無駄遣いだ、と言わんばかりに爽やかな笑みを浮かべる陽希――悟(さとる)に、樹は蟀谷を抑えた。

「おかんに会うたら倒れるから止めてっていつも言うてるやん」

「だって、可愛いんだもんよ。うちのクソ親父の妹にしとくには勿体ないレベルで」

「おっちゃんの悪口言うのはええけど、おかんを巻き込むのは止めてくれ」

 どこか遠い目をしながら、樹がそう言うのに、悟は笑った。

「……立夏、どうだったよ」

 アイスコーヒーを飲み下しながら、そう言った悟の目はどこか真剣な色を含んでいた。

「ど、どうって何が」

「あいつの芝居に決まってんだろ」

 眉根を寄せた樹に、悟はいいから答えろと語気を強めて言った。

「……普通にカッコ良かったけど」

「……そうか」

「悟兄ちゃん?」

 安堵したように溜息を吐いた悟に、樹は首を傾げた。

 瞼を閉じれば、今でも昨日のことのように、初めて彼女の芝居を見た日を思い出せる。

 

 深く息を吸い込んでいるのか、華奢な肩が大きく上下して、それから空気を震わせるように彼女の声が辺りに響いた。

 一言、二言、喋るだけの簡単なシーンだったのに、樹は思わず持っていた書類を落として、その光景を目に焼き付けていた。

涼夏が動く度、話す度、空間が震える。

花が綻ぶかのような、美しい笑みを浮かべた涼夏に、カメラマンが歩みを寄せる。

カメラが一心不乱に彼女を追いかける様に、ずるいと思った。

レンズ越しに、涼夏の迫真の演技を見れて、羨ましい、とそう思ったのだ。


「……めっちゃ綺麗やった」

「何が?」

「うお!?」

 ぽつり、と零した独り言に、今まさに思い浮かべていた人物の声がして、樹は後ずさった。

 眼前で不思議そうな顔をする涼夏と、にやにやと人の悪い笑みを浮かべる悟に、何でもないと慌てたように首を振った。

「お疲れ、立夏」

「うえーい。ありがとうございまーす」

 自分の飲みかけのアイスコーヒーを差し出した悟と、何の戸惑いもなくそれを受取ろうとする涼夏の間に入って樹は叫んだ。

「お、おまアホか!! 男からそんな簡単に飲み物受け取んなや!」

「な、何よ。くれるって言ってるんだからいいじゃない」

「よくない!」

 視界の端でより一層口元の笑みを深くした悟が目に入るが、そんなこと気にしている場合ではない。アイスコーヒーに向かうはずだった涼夏の手が不自然に空中を彷徨う。その細い手首を強引に掴むと、樹は早足でその場を後にした。すぐ後ろで困惑の声を上げる涼夏を無視して、自分の部屋へとずんずんと足を進める。

「うえ、ちょ……!?」

 ボフン、とベッドの上に涼夏を突き飛ばすと、樹は柳のように細い体の上に跨った。

「ま、待っていっちゃん! これ衣装だから色々まず――」

「……お前さぁ。いっつもあんな風に誰彼構わず物貰ってるんけ?」

「は?」

 白けた目で涼夏を見つめれば、彼女は心底意味が分からないと言った風な表情になって固まった。

「……い、いつもじゃないよ? 陽ちゃんとか、明美ちゃんとか。仲の良い人としか回し飲みしないし」

「ふーん」

「ホントだってば!」

 

未だ疑いの目で己を見て来る樹に涼夏は戸惑った。

 昨夜も思ったが、間近で見る幼馴染の顔や身体に慣れず、まるで知らない男に組敷かれているようなそんな錯覚を覚える。

 筋張った手に、薄っすらと日焼けした肌。

 少しツリ目気味な目には、困惑した表情を浮かべる己が映っていた。思わず、そっと身じろげば、下半身を柔らかい感触が包み込む。

 ここがベッドの上であることを思い出して、涼夏の顔がじわじわと赤に染まった。

「……やらしー顔しよって」

「ち、ちが」

「そない顔赤して言われても、説得力あれへんねんけど」

 さっきまで怒っていたくせに、途端ににやにやと人の悪い笑みを浮かべるものだから、涼夏が慌てたように樹から距離を取ろうと試みた。

 だが、そこは男と女。体格差の所為で上手く力が入らず、涼夏の独り相撲も良いところになってしまう。

「も、いっちゃん離れてってば! 近い!」

「えー? どないしようかなー」

「棒読み!!」

「はは、お前ほんま、かいらしいなぁ」

 ちゅ、と軽いリップ音を立てて唇を重ねられては、抵抗する気も失せる。

 溜息を吐きながら、力を抜くと涼夏はさっきから疑問に思っていたことを口にした。

「……そう言えば、陽ちゃんといっちゃんって知り合いなの?」

「あ? 言うてへんかったっけ? 悟兄ちゃん、俺の従兄やで」

「マジで?」

「マジで」

 うそだーと途端に悲鳴を上げた涼夏に、樹はむっと唇を尖らせた。

「嘘ちゃうわ。悟兄ちゃんとこのおっちゃんがホンマはこの旅館継ぐはずやったんやけど、兄ちゃんが四歳の時に、おっちゃんがじいちゃんと派手に喧嘩して出て行ったから、見かねたうちの親父が婿養子になって跡継いだんやよ」

「うええ……。何その昼ドラ……」

「俺も初めて聞いた時は同じこと思った」

 歯を見せて笑う樹が、途端に可愛く見えてしまって、涼夏は思わず彼に飛びついた。

 少し鍛えているのか、やや硬い胸筋の上に倒れこむと、突然のことに頭をぶつけてしまったらしい樹から非難の視線が突き刺さる。

「いっちゃん、ごめーん。手が滑ったー」

「……お前も棒読みやんけ」

「さっきのお返し―」

 けらけらと、どちらからともなく笑みが零れる。

「いっちゃん」

「んー?」

 猫よろしく目を細めた彼女の髪を手で梳きながら、樹が首を傾げる。

 クーラーの効いていない部屋は少しだけムッとしていて暑かったが、涼夏から香る石鹸のような爽やかな香りに、暑さが和らいだ気がした。

「好き」

「……っ」

「好きだよ、いっちゃん」

 頬を桜色に染めながら、涼夏が笑う。

 それは、樹がカメラマンに嫉妬した、あの笑みだった。

「ああもうっ!! お前、ほんま性格悪い!!」

「何よそれ! いっちゃんだって人のこと言えないくせに!」

「……俺はお前限定やからええんやよ」

「……そういうとこっ!! そういうところが性格悪い!! もうやだー!」

 泣き真似をする涼夏の耳が赤く染まるのに気が付いて、樹は笑った。

 腹筋を使って器用に起き上がると、腕の中にすっぽり納まる、少女ににっこりと笑みを浮かべる。

「涼夏」

「なに」

「キスしたい」

 やわやわと彼女の唇を指で弄びながら、樹がそう言えば、返事の代わりにじとりとした視線が帰ってくる。

 いちいちそんなことを聞くな、とそう言われているような気がして、樹は思わず喉を鳴らして笑った。

「……俺も好きやよ」

 今日はオレンジ色の口紅なんだな、とぼんやりと思いながら、見た目通り柔らかいことを昨日知った唇に、樹は自分のそれを重ねる。

 

 少しだけ肌寒くなった風が、二人の間を通り抜ける。

 ――蝉時雨の声はもう聞こえなかった。

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蝉の泣き声 神連カズサ @ka3tsu0

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