10.試練/運命との対峙
今思えば、何て僕はマヌケなのだろう。
そしてあの女は何て不用心だったのだろう。
あれは忘れもしない、二〇一三年三月二十九日の金曜日の夜だった。
その日は会社の仲間と何人かと集まって居酒屋に飲むことになり、いつもより帰りが遅く、僕が住んでいるマンションの最寄り駅から一人で帰途についていた。久しぶりに酒を飲んだこともあって、ほろ酔い気分で怪しい足取りだったのだが、ふと前に一組のカップルと思われる男女が歩いていた。
そのカップルは女の方はグデングデンに酔っぱらっているらしく、歩いてはいるものの体のほとんどを男の方に預けていた。
「……おいおい、のみすぎたんじゃねーの?」
男の方は声と後姿から推測するに、年齢は四十から五十は過ぎているだろうか?声が脂ぎっていて、上品そうな雰囲気は感じられない。
「だーじょーぶーよ!ダイジョウブ!」
「……まあ、いいけどよー。俺の家まであと少しだから……。そこでゆっくり休もうぜ!」
「ええー、本当に泊まるのー?!」
「あったりっめえだー! お前オレに何をしたか忘れたんじゃあるまいな?」
「ワースレマシター!!」
女は明るく陽気に答えたのに対し、男はフフンと鼻で笑って少しすごむように、
「じゃあ、思い出せてやるよー! このやろっ!」
「きゃあ!ギャハハハ!ちょっとくすぐったーい!」
男は女の両手首を片手に掴み、女の頭上に持ち上げた。
「ちょっとー何するのー。」
女には陽気さが残っている。
ゆっくりゆっくりと、大きな声で
「お前はなぁ……。おととし出会ったころから、俺を散々だましていて、骨抜きにしてやがったんだなー。いくらお前に貢いだとおもってるんだ!? ここで恥ずかしい思いをさせてやろうか?」
女は男に両手首をつかまれ、身をくねくねさせてもがきながら、
「やだよお、やだやだ! きゃははは!」
男はフフンと下品に笑って
「じゃあ、おとなしくついてきな! 少しくらいお礼をお貰ってもバチは当たらねえだろ?」
「はああい!お邪魔しまーす!ヒャハハハハ!」
「言っておくが、オジサンのお仕置きは厳しいぞー! 覚悟しとけよー! がははは!」
男の両手は女の両手首から、上半身の方へ滑り込んでいった。
「ちょっとー! おうちいってからでしょ!」
女は男に呼応するように下卑た笑い声を響かせ、
「いやあ、男はバカで本当にあたし助かるわー! 利用できるものは本当に利用させていただきままーす! それが運命の交差点! あはは!」
男は女の力が入らない手首あたりを突かんで、そのまま背中に回しこんで、
「こういうおバカさんは、たーっぷりしつけないとな!」
「あたしでも、オジサンが好きなことは嘘だったけど、ベッドの上は本当上等! ファーストクラスねえ!」
「この馬鹿野郎が……。好きは嘘だったなんて堂々と言いやがって! 覚えておけよ! がははは!」
「はあい! 忘れないでおきますー!ああ、頭痛ーい……。きゃはは」
うっとおしいな……。サッサと追い越そうか……。
僕はそう思い、カップルの横を追い越そうと、歩調を速めて、ちょうど横に並んだとき……、
「ああー、きもちわるっ!」
女が大きな声出を出したので僕は驚いて、おもわず女の顔を見た。ちょうど街灯の真下で顔も表情も良くわかった。
このとき僕は息をするのを忘れていたのではあるまいか……と言うほど凄まじい衝撃を受け、そこに立ち尽くしてしまった。
その女はユリだった。
ユリを連れた男は、こちらの様子に気がついて、
「おお、何かようかい!」
案の定、ガラが悪い口ぶりだったが、そんなに悪態づくような態度ではなくむしろ不思議そうに男は僕に尋ねた。
「……いや……、いえ……。」
その時、ユリはこちらを見て、少し不思議そうにして
「あれ?どこかで会ったような…どこかのバカでヘタッピに似ているような……。」
そう聞こえた。バカでヘタッピ……。この部分は声が少し小さくなり、はっきりとは聞こえなかったがそう聞こえた。僕のことと確信した。
バカでヘタッピ。
これが彼女の本性、そして僕への真実なる想い……。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
僕はたまらなくなり逃げ出すように走り去った。
そして、その日から僕は考えた。何らかの報いを彼女に受けさせなければ……。あの男との会話の内容から察するに彼も騙されていたのだ。
自分だけじゃない。自分だけじゃない。騙されたのは自分だけではない。苦しい屈辱的な思いをするのは自分だけじゃない。
僕やあの男……と同じ被害者が増えないように……。あの男も笑ってはいたが、内心ショックなはずだ……。相当ショックなはずだ……。
僕はある結論に達した。
そうだ……。いなくなればいいんだ。こんな嫌な……こんなに苦しく屈辱的な思いをさせることがないように……。
あの女は悪だ……。邪悪な欲にむさぼる悪鬼……。自分の利益のためだけに「弱さ」や「やさしさ」につけ込み、踏みにじる……。放っておけば、僕と同じような被害者が現れる可能性がある。
こんな事を悶々と考えていた。もちろん彼女にはこの心を悟られないように……。
そして何気なく、つけっぱなしだったテレビのニュースでゴールデンウィーク最終日は何やら爆弾低気圧とやらが来るらしく、荒れ模様の天気になると、激しい嵐になる恐れが高いと伝えていた。
これはもしかしたら……とある思いが僕の胸に去来していた。嵐…、運命が後押ししているかもしれない。不思議とそう思えてならなかった。
そして実際にその嵐が予報がされていた前日にユリを家に呼び、泊らせるような算段を僕はとっていた。
今は何をネタに彼女を呼び出したかははっきり覚えていないが、確か「プレゼントがあるから、直接渡したい。うちに来てくれ」とか何とか言って自宅のマンションに連れ込んだのだと思う。
「あれ? おかしいな……あっ! まさか……。」
僕は声を大きくしていった。
「……どうしたの?」ユリは手にある雑誌に視線を向けたまま言った。
「……カードを落とした! たぶんあそこだ! あの河川敷の鉄橋の下だ!」
「……カードを落としたって、何のカード?」
「……クレジットカード……。」
僕はか細い声で答えた。
「ええ!?」
ユリはそこで初めて、雑誌のページを閉じ僕の顔を見た。
「何やっているのよ!」
彼女は僕の不注意を叱責した。当然その叱責の声音にはエゴイスト……いや邪悪に身を委ねる悪鬼そのものだった。
「悪いけど、探すのを手伝ってくれないか? たぶんあの橋の下だ……。」
僕はユリに頼んだ。
「え? 探す? 冗談でしょ? 一人で探してきなよ!?」
「……今現金が手元に無い……。カードが無いとプレゼントも……。」
「ええ!? プレゼントも一緒なの?」
「……最近橋の下の……川が流れる音と橋の上を列車の音にもはまりつつあって……。浸っていたら、その場にカードとプレゼントを……もし、その場所を探して見つけられなかったらカードを使用停止手続きして……。」
彼女は部屋の窓の外をみた。予報通り雨が土砂降りで風もすごい。
「……この天気よ?! 本気なの?」
「……これ以上天気が悪くならないうちに……。頼む急いで……。」
僕は言った。
それから彼女は何かと渋ってはいながらも、薄手のコートを着て外出の準備を始めた。
「駅までタクシーで行こう。タクシー代くらいはあるから……。」
「それなら最初っから呼んでおいてよ!? この天気じゃない!」
駅までタクシーで行き、ダイヤが遅れ始めた鉄道に乗り、ようやく目的地の鉄道鉄橋がある河川敷にやってきた。河川の水は獣のごとく飛沫を立て暴れまわている。
「……どのへんよ!? この雨の降りようじゃ、ここも危ないかも……。」
ユリは声を絞り出すようにしゃべっているが、叩きつけるような雨の音と増水した河川のしぶきの音でかき消されそうになっている。
「もう少しこっちかな……。確か鉄橋の下で」
と僕は彼女を鉄道鉄橋の下に誘い込んだ。
「ところでなんでその鞄持ってるいるのよ?」
彼女は僕の右手に持っている片手を見て言った。
「タオルとか着替えとか……。」
「ふうん。それでどこよ?もうっ!」
彼女はかがみこんで足元を探し始めた。当然二人とも雨でずぶぬれな状態になっている。
確かにタオルは入っている。着替えもある。だが着替えは一人分だ。その代わり鉄パイプにタオルが縛って巻いてある。
僕は決して彼女にに見えないように、手袋を両手にはめて、鉄パイプに縛ってあるタオルをほどき、彼女にゆっくり近づき後ろから力いっぱい頭へ振りおろした。。
彼女は声にならないような悲鳴をあっげ、その場に倒れこんだので、さらに僕は馬乗りの状態になりさらに彼女の頭部に振りおろした。
1回、2回、3回、4回、………………。
何回振りおろしたのだろう、しかし嫌な感触だ。早く終わってくれ!と思っていたらいつの間にかピクリとも動かなくなった。
しかし、血があまり出ていないが大丈夫だろうか。死んだのだろうか?僕は不安だったので、念のため首を五分くらい絞めておいた。
そして動かなくなった彼女の体を増水した川へ投げ入れた。
あらかじめ、下見をしていて人がいなくなる時間帯や見えにくい角度は調べておいていた。
僕はさっさとその場で着替えて、さらにレインコートを着てその場を去った。
もうこれ以上彼女に泣かされる男は出ないのだ。僕は自分の試練と運命に勝った! 彼女へのおぞましい思い出もこの豪雨が流してくれる。
僕の胸の中は外の天気とは対照的に晴れ晴れとした気分だった。
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