9.錯綜
何なんだ? この女は……? 全てを見透かしているような顔でこっちを見ている。本当に忌々しい。
こいつさえいなければ。
胸の中で、その言葉を短い時間の中で、何度連呼をしたことだろう。
まずい……、非常にまずい……。どう答えればいい?
僕は言ってしまったのか? 何か致命的な……辻褄が合わないような事を……。
別れたとはいつと言った……だと?
そう。確かに潮崎さくらの言うとおり、僕は高柳ユリを殺した。あの忌々しい女を殺した。たくさんの男を騙し、欺き、傷つけた……、あの女を殺した……。この間のゴールデンウィーク最終日だった。
先ほど述べたとおり、そのとき付き合っていたあの女の態度や性格は、出会った頃のそれとは別人のように変わってしまった。
出会った頃……。彼女は僕のあまり一般ウケをしないと思われる趣味に対して、非常に踏み込んでくれたように見えた。
「雄馬さん、次ここ行きましょう」
「こういう静かそうなところで、ゆっくりとおしゃべりをして、周りの自然に癒されたいですね!」
とか言う言葉にすっかり、僕は真っ逆さまに有頂天になっていたのだ。今、川村絵里との出会いで感じたように、希少的と思える自分の趣味へ一緒にふみこんでくれた……。とばかり思い込んだ。無様なほどに僕は心底うれしかった。
やがて去年の冬から、これも前述したように態度が一変し始める。
「雄馬さん、私達、付き合い始めて今幸せ。その出会いと今の幸せの記念品を買いたいのだけど……。実はお金がなくて……御願い貸してもらえる?」
僕は
「別に良いよ、僕はユリちゃんがそばにいるだけで……。」
「だめ……だめなの。目に見える何かが二人に無いと、人間は忘れてしまうのよ。幸せを……。人間は勘違いするわ……。その幸せが当たり前のもの……とね。」
彼女の容姿はスタイルはやや痩せ型ではあったが、顔は清楚を絵にしたような……テレビでアナウンサーやいい教育を受けた令嬢……と言う雰囲気を醸し出すような、目と鼻も口も謙虚で整った顔立ちで、ファッションもそれに準じた白系の色を中心とした明るい色のワンピースやシャツ、ブラウス、スカートを好んで着るのが多かった。
その日までは、イメージどおり、怒りや涙などを激しい感情に載せて表に出しすぎることは少なかったが、
「雄馬さんにはわからないかもしれない……。実は私の父と母が……その幸せを忘れてしまった、というか自分から手をはなしてしまったの。それぞれの欲望のために……。」
とその言葉を言い終わらぬうちに、彼女の目から涙が次々とこぼれた。
「私の両親は結婚式もしていないし、婚約指輪とかもしていない……。母が言っていたわ……。そういう目に見えるものをのこそ無かったから、お互いに愛や幸せを忘れ、己の欲望に走ってしまい、悲惨な離婚になったの。」
そして彼女は続けた。ただし、それまでの彼女が見せたことが無い、恐怖と怒りの入り混じった表情に変わった。
「母は父と離婚して、無関心だった私に暴力を振るうようになった……。そして母が可愛がっていた息子……私の弟が、学校に行く途中に私の目の前で車に跳ねられて亡くなってしまった。あのとき……。」
彼女は、ここまで話しを進めると、顔が歪み始めた。おそらく自分の運命に対する憎悪によるものだろう。そして声はうめき声に近いような嗚咽を混ぜて、
「……母は弟が死んだことを、弟の近くにいた私のせいにっ! ……。あなたのせいだ!あなたがしっかりしていれば、あなたさえしっかりしていれば……! あなたが代わりに死ねば……と様々な言葉による心への暴力と、火のついたタバコを投げつけたり、押し当てたり、殴ったり、蹴ったり……と身体への暴力……。痛いっ……。痛みと恐怖に耐える日々だった。」
と彼女は振り絞るように伝えた。
いつもは落ち着いて、笑顔を向けてくれて、僕の趣味にも合わせるときにも、常に笑顔と落ち着いた仕草しか見せたことが無かった彼女が、初めて見せた憎悪と悲しみに塗れた過去……。少なくともこの時点では、僕は衝撃的で大量の鉛を飲まされたように胸が重くなった。
「母さんは変わってしまった。父と別れてから酒と暴力ばかりの日々だった。」
とやや落ち着いて彼女は言って、
「私は人って、すぐに忘れてしまう生き物だと思うの。それも自分に向けられた愛情だとか、日頃の幸せだとか……良いものは忘れて、嫌な事……。私が今言ったような、怖い、悲しい、憎たらしい……そういった感情は忘れづらいけど……。だから、愛情を思い出すような……なるべく忘れないような目に見えるものが必要だと思うの。」
結局、僕は彼女にお金を貸して、彼女は腕時計を買った。はっきりいって、当時の僕には目玉が飛び出るような値段の時計をペアで買った。
「高いものほど……、高価なものほど、忘れづらいものなるのよ。これで二人は大丈夫……、きっと……。」
結果を言うと、このお金は現在も返してもらっていない。そればかりか、次から次へと今と似たようなことを言って、お金を借りるという名目で、色々なものをものを買い始めた。バッグ、腕時計、携帯電話、ぬいぐるみ……お金を貸す、愛情を目に見えるもので……とやらでさまざまなものを買わされた。
いい加減、僕も懐がもたないので、その旨を打ち明けると、怒ったり喚いたり時には泣き叫んで物を投げたり、罵倒されたりしたことは前述のとおりである。
でも、この時まではそれでも別れたくなかった。趣味を共感してくれる貴重な存在、しかも「このやり取り」さえ除けば、至って普通の恋人なのだ。別れたくない……。別れてしまっては、もう二度と「誰か」と共感できないないかもしれない……。
僕はまだ「ここで触れていないあの事実」を知るまでは、そう思っていた。
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