ディンダシェリア~The World Of DYNDASHLEAR
環
日常から非日常へ
第1話自転車
瑞原舞(みずはらまい)は、今日も職場へ急いでいた。
職場までは自転車で20分、バスなら10分。高校を卒業する前、これといってしたいこともなく、専門学校に行くにもやりたいことが見付からず、大学にもただダラダラ行くならやめておけと両親に言われ、就活も面倒だと消極的だった結果、進路が決まらず卒業することになってしまい、それは両親を心配させた。
心苦しかったある日、小さな個人の医院の事務の募集広告が目にとまり、ダメ元で応募したら採用され、ギリギリ四月から就職することが出来たのだった。
本当はバスで通うつもりだったのだが、朝のバスは渋滞に巻き込まれて時間が読めないので、最近では自転車が主になっていた。なので舞は、最初のボーナスで必ず電動自転車を買うと決めていた。
仕事にも慣れて人にも慣れ、こんなものなのかなぁと、毎日ただ同じことを繰り返していた。
職場に着く寸前に、自転車に異変を感じた。
「きゃ!」
ガチャンっと嫌な音を立てて、ペダルの踏み込みが一瞬引っ掛かったようになったと思うと、次の瞬間回らなくなった。降りて見ると、チェーンが外れてぶら下がっている。
「あ~もう!」
もう目の前なのに。この自転車は高校生の時から使っているが、チェーンが外れたのはこれで三回目だった。
仕方なく自転車を押して駐輪場に行くと、同じように出勤してきていた同僚の斉藤律子(さいとうりつこ)が立ち止まった。
「舞ちゃん、外れたの?」
「今そこで。」舞は頷いた。「大丈夫、慣れてるから。すぐ直すよ。」
舞は慣れた手付きでチェーンを掴んで引っかけた。手が真っ黒になる。
「それ、よく洗わないと残ってたら先生にめちゃ叱られるよ。取れるの?」
律子が心配そうに言う。
「大丈夫大丈夫!こんなのしょっちゅうだし。」
舞は律子について医院の中へ入った。
お昼休み、律子が舞の手を見て言った。
「まだ取れてないね…。」
心配そうな顔だ。舞も自分の手を見た。
「うん…頑張ったんだけど、意外にしぶとい。先生に見つからずに今日過ごせるかなあ。」
お弁当を食べる手も、汚いと憂鬱になる。ふと律子の手を見ると、左手の薬指に銀色の枠に綺麗に光る瑠璃色の石が付いた、新しい指輪が見えた。昨日まではなかったはずだ。
「りっちゃん、それ、どうしたの?」
律子はハッとして恥ずかしそうに笑った。
「昨日ね、彼氏にもらったんだ〜。この間のお誕生日プレゼントのお返しだって言って。」
愛おしそうにその指輪を撫でる姿は、とても幸せそうだ。律子の彼は五つ年上の社会人で、二十四歳だった。先日律子を迎えに来た時紹介してもらったが、とても真面目そうなイケメンだった。スーツ姿だったのがポイント高かったのかも、と舞は思い出していた。
「いいなあ、りっちゃん。私、ほんと高校卒業してから何にもないから、羨ましいよ。」
舞はため息をついた。
「そんな、舞にもきっとすぐ見つかるよっ。」
律子は慌てて言う。でも、実際職場は看護師さん達と受付の医療事務の自分たちと、先生しか居ない。職場では有り得ない状況で、誰かと出会うとか、まず考えられなかった。紹介とかは、舞自身が気乗りしない。高校時代の友達に勧められて会ってみても、なんだか違うような気がして、断ってばかりいた。
「いいのいいの。そのうち運命の出会いとか、あるかもしれないし。」
舞が冗談めかして言うと、律子はホッとしたように頷いた。
「なんだかんだで、まだ十代だもの。舞ちゃんだって、出会うと思うよ。患者さんだって、たくさん来るもん。」
舞はフフッと笑った。
「そんなこと言ってたら、また先生に怒られるね〜。」
律子と笑いあって、その日のお昼休みは過ぎて行った。
結局、お昼休みも必死で頑張ったにも関わらず、爪の先に付いた油がどうしても取れなくて、その日は一日先生に手を見られないように常に隠して過ごした。
医院を出て家に向かう道すがら、舞はなんだか悲しくなった。とにかく今日は、家に帰って爪ブラシとか爪楊枝使って頑張ってみよう。
段々と日が長くなって来ているとはいえ、8時にもなるとやっぱり暗い。それでも舞が通る道は、比較的広い道路脇の歩道なので、この時間はまだたくさんの車が走っているし、両脇にあるいろいろなお店はまだ開いていて、その明かりでとても明るかった。それでも、ここの歩道は古いので、デコボコとしていて自転車では走りづらい。所々不自然に登ったり降りたりするので、いくつも段差を昇り降りしなければならず、それがまた自転車に負担をかけているのではないかと舞は思っていた。
一つの段差を降りたとき、またペダルに違和感を感じた。
ヤバい!と思ったが、持ち直すこともあるので、もう一回踏み込むと、ペダルが引っ掛かってガチンと止まり、すぐ前にあった上りの段差にタイヤを取られて、舞は派手に転倒した。
肩に掛けてあったカバンが飛んで、中身がバラバラと巻き散らかされたのが見えたが、急なことだったのでうまく受身が取れず、体の右側を思いっきり打ち付けたのですぐには動けない。
恥ずかしいのと、痛いのとで、舞は半ばパニックになりながら、なんとか起き上がろうともがいていた。
「大丈夫?」
男の人の声がした。舞がやっと手をついて半身を上げると、目の前には三十代ぐらいの、ネクタイにどこかのお店のジャンパーを来た男の人が立っていた。何人かの男の人が、前の店から出て来ている。どこかのカーディーラーの前で転倒したらしい。
「だ、大丈夫です!」
舞は真っ赤になりながら立ち上がった。恥ずかしいのもだが、その人はキツい目の整った顔立ちの男性で、急にそんな人に声を掛けられたので頭に血が上ってしまったのだ。
その男性は舞の自転車を立ててくれ、他の男性は飛んで行ったカバンを拾って来てくれた。
「あ、ありがとうございます。」
舞は言って中身を拾い集め、カバンに押し込んだ。心臓がばくばく言っている。でも、なんだか足が痛い。
「あーこりゃダメだな」と自転車を見ていた男性が、工場の方を見て叫んだ。「おい、河野!」
河野(こうの)と呼ばれた男性が、こちらへやって来る。その人は油に汚れたつなぎを来ていた。
「これ、はめてやれるか?」
男性は二十代ぐらいの、切れ長の目のハンサムだった。が、なんだか不機嫌そうな顔をしている。
「い、いいです。私、押して帰りますから。」
舞が怖くなってそう言うと、それを聞いているのかいないのか、そのつなぎを着た男性は言った。
「ま、すぐ出来ますよ。」
そしてそれを引きずって行く。舞は慌てた。
「あ、あの…。」
先に声を掛けてくれていたジャンパーの男性が、笑顔で言った。
「すぐ、チェーン掛けてくれるんで。ちょっと休んで行ったら?怪我してるし。」
言われて舞は足を見た。脚の右側の側面のパンストが破れて、擦りむいている所もある。これではあまりに恥ずかしくて、家まで歩くのは気が重かった。それで、ご厚意に甘えて、休ませてもらうことにした。
その男性は親切に絆創膏を何枚か持って来てくれ、舞はお手洗いを借りて、怪我の上に貼り、予備に持っていたパンストに履き替えさせてもらった。
ショールームの中はとても綺麗で明るく、今の時間は舞以外の人は誰もいなかった。舞は、さっきホットコーヒーを持って来てくれた男性の名札をそっと見たら、楢橋圭吾(ならはしけいご)と書いてあったのを思い出していた。
その楢橋がやって来た。舞はまた緊張して、黒くなった爪をそっと隠した。
「もう落ち着いた?自転車、直ってるけど、一人で帰れる?」
舞はふと、ショールームの営業時間が8時まで、と書いてあるのを見た。もうとっくに過ぎているのに。慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「いろいろありがとうございました!もう、大丈夫です。」
楢橋は頷いて、自転車のところまで来てくれた。
自転車は、ちゃんと直っていた。よく見ると、下の方に何か透明の樹脂みたいなもので固めたような跡がある。
「チェーンが外れる原因のひとつになってるだろうって割れがあったんだって。それで、河野…さっきの奴が、一応留めといた。でも、うちは車屋だからね。自転車のことはわからないし、一度直しに行った方がいいと思うよ。」
さっきの河野は、リフトアップされた車に何かしていて、こちらを見ていない。舞は聞こえるように大きな声で言った。
「すみません、ありがとうございました!」
河野はこちらをチラッと見たが、軽く手を上げただけだった。やっぱり怖い。
舞は楢橋にもお礼を言い、自転車にまたがって家路を急いだ。頭の中には、楢橋のことでいっぱいだった。
今度は爪をきれいにして、お礼を持って行こう。
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