散歩

YGIN

第1話

 日曜の昼下がり、私はこれといった当てもなく家を出た。


 歩行中目に映る街の風景は、私にとって何千回と見慣れた光景だったはずだけれど、一つ一つが新鮮に感じられた。何せここ一ヶ月ずっと家にこもっていたのだ。ずっと家に居たものだから、最近は冷房に当たりっぱなしで、日本の夏の蒸し暑さというものさえ忘れていたように思う。

 とはいえ、今日は風があり、青々と茂った木々が気持ちよさそうに靡いていた。道行く人々もどこか涼し気で、蒸し暑いなんて感じているのは私だけなのかもしれないとさえ思った。事実もう夏は終わりに近づいているのだ。セミのワシャワシャと言う鳴き声さえも、どこか家で聞いている時より響きが弱いように感じられた。しかし、たった今夏を目の当たりにした私にとっては、これで充分だった。夏。そう例えピーク時の暑さとは言えなくとも。誰もが嫌がる蒸し暑さを、全身が欲し、そして満たされていた。


 電車かバスに乗ろうかとも思ったけれど、冷房に当てられると、また家に逆戻りしたような気がして躊躇われ、私は学生時代によく通ったあぜ道を歩いた。最先端のブランド物のウィンドウショッピングなど到底期待できない田舎。こんな田んぼに囲まれたあぜ道なんて飽きるほど見てきたし、そのことを散々馬鹿にさえしてきた。はずなのに、私は恐らく人生で初めてこのなんでもないあぜ道を「良いな」と思った。まるで、もうおばあちゃんになってしまったのかと自分で自分を笑いたくなってしまうほどに、私は自分のスニーカーと擦り合わさるそのジャリジャリとしたした音と触感で、過去にあった無数の出来事を想起していた。


 少し歩くと、当たり前のように学校に辿り着いた。在り来りな古い校舎は何も代わり映えがなく、野球部員やサッカー部員が景気良く掛け声を飛ばしている。しかし私は「じゃあ」と言わんばかりに青春時代の数々を思い出して感動で胸が詰まったりなどはしなかった。むしろ思い出したのは、下らないある一日だ。学校なんて辞めて海外に行くなどと言って母と大喧嘩した日。

 それほど海外に行きたいということはなかったのだ。ただ、私は当時、たかだか化粧をしたぐらいであれこれ言ってきたり、バイトで貯めたお金でブランドのヒールをネットで買おうとしたら「パソコンは危ない危険よダメよ」と言ってきたり、帰りが次の日になったぐらいでこの世の終わりであるかのように捜索願を出してきたり。そういった古い価値観の母を半分小馬鹿にしていて、学校でも良く笑い話にしていた。結局あの日は、「私が海外に行くなんて行ったら、あいつ卒倒するんじゃない?」とか男友達とケラケラ笑いながら盛り上がって、それをほんとに実行してみただけなのだった。

 今現在の私からしてみれば、私の人格は酷くネジ曲がっていて、とてつもない親不孝だったなと思う。あるいはどうだろう、結局のところ、自分以外の周りの友達だって似たような価値観だったかもしれない。親の大切さとかそんな当たり前のことにも気付け無いぐらい、自分が若く浅薄であったのは間違いないのだけれど、あの頃というのはとにかく「自分はもう一人前で、親なんてちょっと小馬鹿にしてやれるぐらい、私はなんだって一人で出来るんだから」と、そんな背伸びのような心情があったようにも思う。

 ただ、いずれにせよ、そんな私とは裏腹にいつだって母は真剣だったのだ。父が単身赴任で居ない間、娘が危ない道に転がり落ちてしまわないようにと、ただ娘の幸せを思っていたのだった。世の中には子を捨てる親だって居るのに。生まれる前に殺してしまうことだってあるのに。私は実は母には恵まれていたのだ。本当に良い母だったのだ。生まれた時代が違うのだから、考えてみれば今の価値観と違うのは当たり前なのに。

 そんな風に、私はあの日、たった一度だけ、母に頬を、心底どうでも良い海外のアパレル企業のパンフレットで、打たれた事を思い出しながら、あの青春時代は酷く後悔した。


 その他にも色々なところに寄ったけれど、結局はおよそ一月前にも来た来たくもない場所に着いてしまった。

 私は、なんだかんだで買ってきていた花を据えて、適当に拝むフリをした。人様の墓前なら礼儀に習って神妙な顔つきで拝みもするかもしれない。しかしそれが自分の身内となれば、「いくら真剣に拝んだ所で戻ってきやしない」というやるせなさの方が強く心を支配した。

 深く考え過ぎてどうしようも無くなってしまう前に、もう早く立ち去ることにした。丁度風がまた少し強くなってきて、夜も近くなり冷えてきた。やはり、もう夏は終わりなのだ。何度も脱色を繰り返してロクに櫛も通らなかったあの頃の髪ではなく、ただ母から生まれた時のままの私の黒い髪がサラサラと風に揺られた。


 また、家に帰ってきた。仕事の為すぐ都会に戻ってしまった父と違って、私は結局一月もこの家でだらだらと、特に何をするでもない日々を過ごしたのだと思うと、不思議で仕方がない。

 あの学校を卒業後、都会の大学に出て、そのまま就職して、母とは以降、年に数回単位でしか会っていなかったにも関わらず、自分の中で母とはこんなにも大きな存在だったのかと思い知らされて、ある意味では心が打ちのめされていた。

 しかし、また父のように、結局は私も、あのサバサバとした世界に戻っていかなければならないことは良くわかっていた。それでも、もう少し。もう一日だけ。私は自分が生まれた場所を散歩してみようかなと思った。


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