ただ逃げた、そのあとは何もない

@kasumiko

1. 何もない

 風潮って嫌いだ。

「普通は父親が蒸発したら心配するんじゃないか」

 普通は父親は蒸発しないし、そんな場面に風潮なんか存在しないはずなのに。



 子供の頃の夢は作家になることだった。

「世の中の辛い思いをしている子供に夢を与えたい」

 自分が受けとったものを世の中に返したかった。

 自分が貧乏じゃなくなって、生きててよかったと心から思ったら、物語を書こうと決めていた。

 それだけが、生きていく上で心の支えだった。



 ときどき、急に思い出すこと。

 自分はいかに孤独なのか。

 望まれて生まれたなら、特別な人間になれないことも我慢できたのだろうか?



「女なんて勉強ができてもしょうがないんだよ」

 コンクリート壁の白くて狭い部屋に、夕日の色が満ちていた。台所の窓から見える景色は遮るもののがなくて、向こうの団地と徐々に紺色に変わり行く空が見えた。

「高校出たら働いて家に金を入れるんだよ。こんな家庭なんだから当たり前だろう」

 母の顔はピントを外すようにしないと見ていられない。酷い形相でいるであろう母の顔が大きくなったり、小さくなったりするように感じる。

 台所の換気扇を回していても、部屋は煙草臭かった。喘息の妹の前でもいつも煙草……。

 中学校の鐘の音が聞こえてくる。もう六時だ。

「進学するなら家を出て行ってもらうからね」

 小さな虫がテーブルを這っていた。一匹いなくなったと思ったら、また一匹。この家に住む人間で、その姿にぞっとするのは自分だけだ。

 私は豚のような弛んだ姿の母とは全く違う人生を歩みたかった。同じようにだけはなりたくないという呪いにかかっていた。

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