18 下校時刻の攻防戦 ②
4
「下校チャイム? 確かにそんなものを待っていたら文字通り日が暮れてしまうでしょうね」
車椅子に座っていた踊瀬がゆっくり立ち上がる。
「でも、待つ必要なんてあるかしら? 音楽がないのなら鳴らせばいいだけの話。どんなに上手な踊り子だって、伴奏もなしに踊っては滑稽でしょう?」
笛の音の旋律に合わせてゆっくり足を高く上げる踊瀬――その足にはいつのまにか、あのぴかぴか光る赤い靴。
「まして一流のダンサーであれば、一流の
ここは相変わらず生徒会室のままだ。なのに、踊瀬は立ち上がって踊ってるし、トロイメライの曲がずっと絶え間なく鳴り続いている。なんだ、これ。一体何がどうなってるの?
「ええと、あなたさっきなんて言ってたかしら。わたしを押さえつける? 乱暴な手を使ってでも? ふふ、さあ、やってもらおうかしら?」
踊瀬の周囲がまるで陽炎が立っているみたいに歪む――まずい。なにがなんだかわからないけど、絶対にやばい。とっさに身を翻して生徒会室の出口に向かうのと、後ろから鋭い風切り音が鳴るのはほぼ同時だった。
「ッ……!」
「残念。次は当たって頂戴ね?」
視界の端に見覚えのある巨大な斧がちらりと見えた。学校の生徒会室には絶対にあっちゃいけないはずのものが、どうして。まして、そこだけ霞がかったみたいにぼやけた姿の望者たちが現れるなんて、つい数分前には想像もできなかったのに。
「う、わああああああああああああああああっ!?」
何も考えられないまま無我夢中で逃げる。あの斧と望者たちは辺りをめちゃくちゃに壊しながら確実に追ってきている。どうしよう、どうしたらいい!? こんな状況なのに、周りは学校そのままでトロイメライになっている様子はない。逃げる? ここは最上階だ、四階から飛び降りるわけにもいかないし、階段を使って降りるしかない。でも、その途中でもし他の人に出くわしたら? 多分、あいつは他に誰が来ようと平気で巻き添えにして襲ってくるだろう。わたしが逃げた先々で沢山の人が踊瀬の犠牲になったら……なんて考えるだけでぞっとする。
わたしが必死で廊下を走っているのを、踊瀬は望者と斧を従えながら悠々と追ってくる。アニメに出てくる妖精みたいにふわふわと宙に浮かんで。昨日は視界が開けていたトロイメライだったからなんとか逃げられたけど、今は校舎の中だ。ぐずぐずしてるとすぐに壁に追い詰められる……! わたしは迷った末に階段を二段飛ばしで駆け下りた。道中で誰かに出くわさないことを祈りながら。
「ほら、どうしたの? さっき言ったみたいにしたらどうなの? これじゃああべこべじゃない。追い詰めるどころか、逆に追い詰められて。うふふ、どこまで逃げられるかしら?」
後ろからはがんがん、ごんごん、と壁や床が壊される音が聞こえてくる。むちゃくちゃだ、一体何を考えてるの!? とにかく今は振り切ることを考えよう。このまま一階まで降りて、外に出ることができれば……!
走っているうちに昇降口が見えてきた。靴を履き替えてる暇はない。上履きのまま、出口に向かって突っ込む。……しかし。
「うっ!?」
扉はちゃんと開いていて、外の校庭の景色が見えていた。なのに……わたしの身体は何かにぶつかって出口から先に進むことができない。まるで見えない壁がそこにあるみたいだった。なんで!? どういうこと!?
「あら、当てが外れたみたいね? さあ、次はどうするつもり? またちょろちょろ鼠みたいに逃げ回る? どこに行ったって逃げ場なんてないでしょうけど」
まさか……踊瀬の力は校舎にまで及んでるのだろうか。昇降口だけでなく、他の出口もこんな風に見えない壁に塞がれているってこと? だとしたら、本当に逃げる場所なんてない。走り回った末に追い詰められて、最後は大神みたいに……。茫然としていると踊瀬一行がどんどん近づいてくる。どうにか、どうにかしなくちゃ! 踊瀬たちが来るのとは逆の方向に再び走りだす。
「くっ……!」
直線上に逃げててもいずれ追い付かれる。この様子だと多分窓から逃げることもできなさそうだし……あっちは大人数だ、逆に狭い教室の中に入って追いかけづらくさせるか? 下手な入り方をしたら袋小路に追い込まれるだけだけど……考えてるうちに踊瀬の操る斧が数メートル後ろまで迫ってきていることに気づく。わたしはイチかバチかで近くにあった教室に飛び込んだ。
「あっ……」
しまった、ここは被服室――烏丸先輩のアトリエだ。確かに物が沢山置かれていて盾にはできそうだけど、ここにある自分の作品がメチャクチャになったら烏丸先輩はきっと烈火のごとく怒るだろう。いや、それ以前に烏丸先輩がまだ残っていたら間違いなく巻き添えにしてしまう。急いで辺りを見回すが、烏丸先輩の気配がない。
「どうしたの? あの真っ黒女の根城に入るなんて。助けでも呼ぶ気?」
「――ええいっ!」
烏丸先輩もいないことだし、今はなりふり構ってる暇はない。あとで先輩に皮を剥がれることを覚悟しながら周りのトルソーをなぎ倒しながら進んでいく。ただでさえ狭い室内で無数の障害物に阻まれ、望者や斧たちも簡単には前に進めない。
「……で、だから何? 邪魔な物を全部片づければいいだけでしょう」
踊瀬の号令で、斧がトルソーを切り刻んだり、望者たちがえっちらおっちらものをどかしていく。わたしはその隙になんとかもう一つの出入口から出ようとしたけど、そちらはショーケースやら小物入れの戸棚やらで塞がっていた。血の気が引く。
「…………」
どうしよう、どうしようどうしよう。踊瀬の横をすり抜けて強引に出る? 無理、入口は踊瀬の手下たちで完全に塞がれている。窓は……やっぱり開かない。隠れてやり過ごす? 入るところを見られた以上、周りの物ごと斧に切り刻まれて終わりだ。――完全に手詰まりだった。
どうしてこんなことになっちゃったんだろう。もう少し冷静に考えてから行動すれば良かった。あの意地の悪い踊瀬が現実では無力なまま、なんて都合が良すぎたんだ。猫さんの言う通り、踊瀬に近寄らないようにしていればこんなことには。今更したってしょうがない後悔ばかりが浮かんでくる。
嫌だ、怖い。消えたくない。大神みたいになりたくない……!
「ッ……」
喉の奥が詰まって、目と口を閉じてないと何かが溢れそうになった。ごりごり、ぎりぎりと嫌な音がどんどん近づいてくる。心臓の鼓動がばくばくうるさい。……あれ、おかしいな。心臓って腰にあったっけ?
はっとしてスカートを探る。そこにはトロイメライで拾った、現実には持っていけないはずの“心臓”が入っていた。そうだ……これはプリンス先輩のなんだ。こんなところで諦めてなんかいられない。プリンス先輩たちを見つけるまでは、絶対に……!
わたしはもう一度辺りを見回した。そして――ショーケースの中で何かがきらりと光っていることに気が付いた。
◆
「――ひぃっ!?」
放課後は自分専用のアトリエと化した被服室に直行し、ファッション誌やクロッキーを片手に“新作”の構想を下校時刻ぎりぎりまで練り続けるのが最近の手芸部部長・烏丸クロエの日課であった。だから灰庭かがりがよくわからない理由で勝手に帰った後も、彼女はずっと一人きりで誰にも邪魔されることなく作業をしていた。
始めは地震かと考えた。自分の近くにあったトルソーが突然ばたばたと倒れだしたのだ。しかし地面に伏せ、テーブルの下に隠れていても揺れはまったく感じられない――にも関わらず、トルソーは次々と倒れ、あろうことが着せられていた服ごとバラバラになっていた。
「な、なんなのよこれ、どうなってるのッ!?」
倒れた衝撃で割れた、わけではない――トルソーの断面はまるで刃物で無理矢理に押し切ったようになっていたり、あるいは力づくで引き裂いたようになっていた。クロエの十七年の人生でこんな奇妙奇天烈な出来事は一度たりとて起こったことはない。彼女はもちろん自分の目を疑ったが、疲れによる幻覚というわけではないらしかった。
「な、な、なに……一体なにがどうなってるっていうのよ……!」
透明人間の仕業? ポルターガイスト現象? 現実主義者のクロエにはそんな絵空事到底受け入れることはできない。目の前の減少をなんとか自分の納得できる物理現象に当てはめて解釈しようとする。しかしショーケースのガラスがガタガタと揺れ、割れる音が聞こえてきた瞬間、彼女の理性は限界へと至った。
「いやああああああああああああああああッ!」
クロエは慌ててショーケースの中を確認する。ない、ない、ない……! ショーケースに厳重に閉まってあった大事が“あれ”がない。歴代手芸部部長から受け継いできた、いわば家宝にも等しい伝説の“二足の靴”――片方が失われ、いよいよ守らねばならないもう一足の靴までもが。クロエは絶叫し、その場にへなへなとへたり込んだ。
そして彼女は下校チャイムが鳴るまでしばらくその場で放心していた。
5
その靴が烏丸先輩が大事にしていたものだっていうのは覚えていた。わたしはガラスを叩き割って勝手に履いたなんて知られたら多分、全身の皮を剥ぐ程度じゃ許してもらえないだろう。
そもそも、なんでそんなことをしてしまったのか自分でもよくわからない――強いて言えば、踊瀬の履いていたあの赤い靴から連想したのかもしれない。この透明な靴も、踊瀬の靴と同じように光ってたから……なんて、自分でも意味不明な理由だと思う。
踊瀬の赤い靴、多分あれが魔法の力の源なんじゃないかとは考えていたのだ。わたしもあんなふうに魔法が使えれば少しは対抗できるのに……そう思ったから、なのだろうか?
「う、うわああああっ!?」
「なっ……」
透明な靴を履いた途端、わたしの身体は宙に跳ね上がった。すぐそばまで来ていた踊瀬もわたしの奇行に度肝を抜かれたようで動きが止まる。
「あ……あなた、その靴……!」
「ま、待って、今話しかけないでッ……」
足が――わたしの意思をまるきり無視して動いている。ジャンプしたり、その場で足踏みしてみたり……まさか本当に魔法が起きてるっていうの!? でも、こんなのじゃ全然役に立たない。茫然としていた踊瀬も我に返ったようで手下に指示を出し始めた。
「無様な命乞いね、まるでカエルみたいだわ。あなたの顔もそろそろ見飽きたところよ……!」
「ちょ、ちょっと待っ――」
斧が二振り、今にもわたしを切り刻もうと飛んでくる。やばい……! 魔法の靴なんだったら、もうちょっとなにかできないの!? 踊瀬みたいに空を飛ぶとか、キック力が強くなるとか……!
「――うわっ!?」
そう思った瞬間、また足が勝手に動く。今まで上げたことないくらい足が高く上がって――スカートめくれてるんだけど!?――飛んできた斧の峰の部分を蹴る。そんなの無理、絶対こっちの足が折れる、と思ったけど、足は全然痛くないどころか、蹴った斧はもう一つの斧もろとも弾き飛ばされ、踊瀬のいる方向へと飛んで行った。
「っ!」
踊瀬も予想外だったようで、慌てて近くにいた望者を盾にした。盾にされた望者たちは飛んできた斧と一緒に消えていく。わたしは自分でもなにがなんだかわからず、靴と踊瀬を見比べた。
「……そう。そういうこと」
やがて踊瀬が口を開いた。
「こんな土壇場で魔女の道具を手に入れるなんて、ずいぶん運が良いのね。でも、だったら、あなたはここで消えてもらわなくちゃならないわ……」
踊瀬の履いている赤い靴がより一層光った。もう手下は使わず、自分でなにかするつもりらしい。
「ここまで楽しませてくれたお礼よ。あなたは原型を留めないほど粉々にして、わたしのドレスのスパンコールにしてあげる……!」
――考えよう。
この靴は魔法の靴だ。使い方はよくわからないけど、上手くすれば踊瀬にも対抗できるかもしれない。でも……どうやって戦う? 踊瀬はわたしなんかよりずっと魔法の使い方を理解してるはず。さっきの斧みたいなラッキーパンチはもう当たらないだろう
さっき足が勝手に動いたときはなんて考えてたんだっけ? なにかのアニメみたいに、キック力が上がらないか、とか思ってたら、足が勝手に斧を蹴ったんだ。全部ではないけど、わたしの考えたことが反映されてる? だったら、今度は別のことを願ってみよう。
わたしはポケットの中の心臓をぎゅっと握った。生き残らなくちゃ。もう一人で踊瀬と戦おうだなんて思わない。これがここにあるってことは、ここは学校だけどトロイメライでもあるってことだ。なら……ここからでもきっと行ける。猫さんのところや、あるいはどこかにいるはずのプリンス先輩のところへ。行くんだ。絶対に。
「――ああああああああああッ!」
わたしはみっともない叫び声を上げながら窓の方へ身体を動かした。行ける――足が思いのままに動く! だったら……! わたしはもう一度足を振り上げ、窓ガラスを思いきり蹴った。
ぱん、となにかが弾ける音の直後、靴の先がガラスにぶつかり――窓ガラスが粉々に砕けた。蹴った衝撃の反動で、ガラスの破片がこちらにまで飛んでくる。当たったらどうしよう、なんて考える暇もなかった。わたしはそのまま窓枠に足をかけ、割れた部分から外へ飛び出す。
「――逃げられると思ってるの!」
当然、踊瀬もわたしのあとを追おうとする。わたしは急いで立ち上がり、割れていないほうの窓ガラスを蹴る。割れた破片がちょうど、踊瀬のほうへ飛んでいく角度で――!
「……ッ!」
「ガラスのスパンコールでも飾ってなっての!」
踊瀬がひるんだ隙に踵を返す。校舎の外――学校のはずなのに、周囲はトロイメライでいつも見るみたいな霧がかかっていた。……行ける。わたしは直感に任せて足を動かし、走りだす。靴の力なのか、さっきまでずっと走っていたはずなのにまるで疲れを感じず、軽やかに走ることができた。
行こう、このまま。猫さん、あるいはプリンス先輩のいるところまで。
◆
「ご無事ですか」
トロイメライの旋律を奏でていた笛の音が止み、被服室で立ち竦んでいた踊瀬花蓮の元へ足音が近づいてきた。
「ガラスを頭から浴びせられた女の子が無事だと思うの?」
「貴女なら無事なはずです。貴女には靴の力の加護がある」
踊瀬の冷たい嫌味がこもった言葉にも、その声はまるで平然と無感動に言い返す。踊瀬ははあ、と溜め息をついて髪をそよがせる。彼女の身体はおろか、服のどこにもガラス片による傷はない。踊瀬の体に当たる直前に見えない壁に弾かれたように、彼女の周囲にガラス片が散らばっている。
「追わなくてよろしいのですか」
「そうしたいところだけど、今日はもう疲れたわ。疲労はあらゆる失敗の元よ、こんなコンディションじゃまともにステップも刻めないわ。……あんな女、あとでどうとでもできるわけだし」
踊瀬の履いていた赤い靴の輝きが褪せ、少しずつ消えていっていることに気づいた声の主は「車椅子を取ってきます」と元来た道を戻ろうとする。
「いいわ。少し歩くぐらいなら持つでしょう。靴を履いているときぐらい自分で歩かせて頂戴」
「大丈夫ですか」
「あなただって疲れているんじゃないの。何十分もぶっ通しで演奏し続けるなんて相当に無茶でしょうに。わたしから頼んでおいてなんだけど、どうして断らなかったのか不思議で仕方ないわ」
声の主――笛吹歩はフルートを持ったまま、黒々とした目を踊瀬に向けた。相変わらず、なにを考えているのか全然わからない眼差しだ、と踊瀬は内心思う。
「……頼まれたことですから。それが正当な仕事であるのなら、私は断りません」
「そう。ならいいわ。お疲れ様、ありがとう。良い演奏だったわ」
「恐れ入ります」
ぺこりと一礼した笛吹の腕を借りながら、踊瀬は生徒会室へと歩く。トロイメライの演奏が終わった以上、じきに校舎内も元通りになるだろう。魔法によって動いている踊瀬の足と一緒に。踊瀬は知らず知らずのうちに顔をしかめていた。
「ねえ、あの子」
「灰庭さんのことですか」
「そんな名前だったかしら。あの子がまた来たら、そのときも協力して頂戴ね。……今度は絶対に、ぐちゃぐちゃに潰してやりたいから」
「かしこまりました」
笛吹はなんの感情もこもらない声で頷き、少しずつ力を失っていく踊瀬の身体を支えながら歩き続けた。
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