第20話最期を告げる風 二

 搬送先の病院で、医師より、舌切り自殺だと告げられた。つまり、父は自分の命を捨て、私を一人ぼっちにしたのだ。

 待合室のソファに座り呆然としていると、聞き慣れた静かな声が、真っ暗で何もない世界を切り裂いた。

 「あなたは一人ではありません」

 襟に菊が際立つ黒いスーツで背筋を伸ばした吉田さんだった。

 黒縁のメガネを中指で支える凛々しく厳格な姿は、変わり果てた父を発見したときとは正反対だ。

 「先ほどは僕も取り乱してしまいましたが、まことさんに話さなければならないことがあります。良く聞いてくださいね」

 私は眉間が皺で圧迫され、固唾を飲んだ。もしかしてうさぎの富美子と英男に引き取られるのかと思い、その予想を拒みたかったのだ。

 けれど吉田さんは二人の名前を一切出さなかった。

 「あなたには、今すぐに選んでいただきます。実母の町田まちだ涼子さんの元へ戻るか、あるいは田川家の娘として児童養護施設に行くか。私個人の意見としては、さまざまな事情を抱えた子どもがたくさんいる環境のほうが好ましいとは思いますが」

 私は父の自殺を認めたくない一方、血縁がなければ供養もできないのかと、吉田さんに無言で訴えた。それに対して首を横に振り答えられたことで、少なくとも敵ではないことを知った。

 「ここ最近、僕があなたのお父さんに呼ばれていたのは、まことさんのためです」

 「え……? どういうことですか?」

 吉田さんは私と同じソファに座らず、互いに向き合う形で床に両膝を降ろす。

 「あの方は、すでにご存じでした。ご自分の変化も、いずれあなたをお一人にしてしまう運命も。だから町田さんが出て行かれた後、僕は頼まれて、まことさんを秀丸さんの養女として、正式に戸籍の手続きを行いました。小学生のあなたにはまだ難しいでしょうが、日本の法律上、再婚された時点で、町田さんには実子をご自分の養子縁組にする必要があるのです」

 吉田さんが言う「マチダサン」は、あの女のことだ。そして、私の前の苗字は「町田」だった。

 認めたくはないが、実子の私があの女の養女にならなければならないのか、と疑問に思った。日本の法律には差別が多いと呟くだけで、吉田さんはそれ以上法律のことを教えてくれなかった。

 「話が長くなると余計に疲れるでしょうし、必要なことだけお伝えします。秀丸さんのご遺言により、まことさんが唯一の遺産相続人になります。けれどあなたはまだ未成年。そのため僕があなたの保護監督者として、成人までに約八年間、遺産の凍結を任されました。凍結により、あなたの権利を奪うことができません」

 誰が、とは言わなかった。私は三人の顔が浮かんだが、吉田さんも同じ人を思ったのかは分からない。そこで私は尋ねた。

 「遺言って、死ぬつもりで準備する手紙のことですよね。そんな……それをどうやって? 父には両腕がないのに」

 「これです」

 あり得ないと思った。吉田さんはそれを裏切り、スーツの裏ポケットから小さなボイスレコーダーを取り出した。

 「……ずるい。私には何も言わないで、父はあなたに……」

 「今のまことさんにお聞かせするのは酷でしょう。僕は弁護士として大切に保管し、代理でさまざまな手続きを行います。施設の方にはすでに話をつけていますが、どうされますか?」

 私の声は震え、両目から溢れ止まらない涙で視界がぼやける。私の正面で屈んでいるのは別の人だが、今朝私を見送った父の笑顔に映った。

 けれどそれも一瞬のことで、吉田さんは自分のハンカチで記憶を吸い取ってしまった。

 ボイスレコーダーを渡してくれることはなく、最初の二つの選択肢を決めることを求めた。町田まことになるか、児童養護施設に行くか。

 私は迷った。どちらにも都合の良い点もあれば、悪い点もあるからだ。

 あの女と一緒にいれば、将来復讐するための居場所を把握できる。けれど父が遺してくれたものを凍結されたまま奪われるかもしれない。それに、次々と変わる男の存在に脅かされるだろう。

 一方、児童養護施設に行けば、吉田さんの言う通り、内部での私への偏見は軽くなるかもしれない。それに田川家以外の「箱」でのような思いをしなくて済む。けれど、施設で成長して巣立つとき、はたしてあの女の行方を掴むことはできるのだろうか。父のために復讐しなければならないというのに。

 どちらの環境を選んだとしても、私が田川秀丸の娘という事実だけは変わらない。

 渦巻く思考が、突然ピタリと止まった。潮の流れが穏やかに安定したように。

 そこで、思い切って確認してみた。

 「吉田さんが父の遺したものを凍結して、私の保護監督者になるということは、今後もあなたと会うことができるのですか? ……私が大人になるまで」

 「もちろんです、この町では無理ですが。あなたのお父さんに頼まれましたので」

 吉田さんの返事は、嘘ではないようだ。けれど両目が見開き、黒縁のメガネが鼻から滑った様子から、私の態度に驚いたのだろう。


 たった今、父親を失ったばかりだというのに。

 なぜ、急に冷静になったのか、と。


 事実、私の心臓は一定の間隔で秒を刻んでいる。周りはもう、廃墟の世界ではない。

 私は、迷いなく答えた。

 「行きます。児童養護施設に」

 田んぼに囲まれた土を踏みしめたのは、この日の晩が最後だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る