第4話出会い 三
「ああ、着いたか。疲れただろう?」
私は本当に驚いた。
確かにこちらを向いている。優しい声をしている。脚も二本ある。
けれど、この男には、両腕だけがない。
両肩から垂れ下がった二本の十分丈の袖が、男の特徴を協調している。
ーーどうして? 人間なのに。
驚きのあまり私は声も出ず、その場でただ立ち尽くすばかりだった。
「
女は少しだけ首を傾げ、猫撫で声で言った。私への説明などなかった。
うさぎの富美子はトレーに湯呑みを五つ乗せ急須を持つ右手をポットの注ぎ口に近付けた。
これまでにない唐突な世界に眩暈を《めまい》を感じた。けれどそれは一瞬のことで、さきほどの優しい声が視界の揺れを止めてくれた。
「まことちゃん、だね? おじさんは
「あら、娘にオジサンはないでしょう? やぁね、秀さんってばぁ」
女が男の隣に座り、媚びるように笑った。
今日から父と呼ぶべきその人は、なぜか私と目が合ったときの方が何倍も嬉しそうだった。
その笑顔には女のような下心がなく、幼児のように純粋に感じるのに、両方の目尻には跳ね上がるような皺が何本もあった。
あるはずのない二本の腕が赤ん坊のように上下に振っているようにすら思えた。
五十は過ぎていそうなのに。あまりにも可笑しくて、つい私の口角が上がってしまった。
「お待たせ」
その声が聞こえた瞬間、その人の目尻から皺が一本残らず消えてしまった。
うさぎの富美子が五つの湯呑みを持っていたが、一つ目がその人、この世界の主の前を通り過ぎた。
その湯呑みが辿り着いた先には、男がもう一人座っていた。
どことなく似た顔が並んでいるように思えたけれど、よく見ると隣の人、秀丸とは別人だった。
両腕があっても、その表情からは温かさを感じない。人を見下すような視線は、なぜか見覚えがある。
二つ目の湯呑みがテーブルに置かれるよりも先に、男は目の前の湯呑みを掴み、お茶を半分ほど喉に流し込んだ。
ふう、と男が息をつくと、うさぎの富美子は残りの湯呑みをすべてテーブルに並べていた。
二つ目の湯呑みは女の前に置かれた。三つ目は私のものになったけれど、その三秒前には自分のものにしようか、と迷うように手が止まっていた。そして四つ目湯呑みはうさぎの富美子のものになった。
父となった人ーーなぜかそう思ったーーの顔に湯気が触れたのは、最後だった。
五つ目の湯呑みだけ、一目で持ち主が分かるものだった。女の手に近い大きさで、太めのストローが差してあった。
父には両腕がなく、私が手に持っているような小さめでずんぐりとした湯呑みではストローを上手に扱えないからだろう。
私はそれを気遣いではなく、差別だと感じた。うさぎの富美子が当然のように父の湯呑みを最後に出したからなのかもしれない。
この世界の人間関係は一体どうなっているのだろう?
私は差し出された湯呑みに触れず、四人の大人を眺めた。
父は唇でストローに触れようとしない。もう一人の男は
女は派手な爪十枚で湯呑みを覆い、ゆっくりとお茶を飲む。
うさぎの富美子がお茶を飲み干すと、目が合った。
「あら、まことちゃん、あんたも猫舌だったの? 氷なら、そこの冷凍庫にあるから」
そう言って、うさぎの富美子は腰を上げることなく自分の背後を指差した。
「あ、いえ……」
別に猫舌ではないのだけれど。私は視線を落とし言葉を止め、目の前の湯呑みにそっと触れた。
すると正面から、小さく喉を鳴らす音が聞こえてきた。
顔を上げると、父が片目を引きつらせストローを吸っていた。お茶を二回飲み込むとストローを唇から離し、私に向かって微笑んだ。
「緊張したね、まことちゃん。でも、遠慮はしなくていいよ。それよりもお腹空いていないかい?」
「は、はい……」
私は父から目を逸らすことができなかった。唇からはみ出た舌が、父こそ猫舌なのだと語っていた。
私が初対面の大人に気を遣っていると思い、父は自分が猫舌であることを隠していた。
子どもである私より先にお茶を飲むことで、私の張った神経を解そうとしてくれたのだ。
私はどう反応したら良いか分からず戸惑った。けれど今までにない心遣いが嬉しかった。
ゆっくりと動く手を静かに眺め、父は私がお茶を飲むのを待った。こくん、こくん、と喉が二回鳴ったところで、父はもう一度、私の名前を呼んだ。
「おじ……お父さんの隣に座っているこの人の名前、まだ聞いていないよね?」
「ん、あぁ、そうだったのか? てっきり女房がとっくに言っていたと思っていたのだが。まぁ、いいか……俺は
父の視線を感じ、英男は湯呑みを片手に持ったまま、私を見た。面倒臭そうで締まりのない口調に、私は嫌悪を感じた。
日ごろ抱いている女に対するそれが「呆れ」というものであれば、英男の場合は不快感そのものだった。
人を見下した英男の言葉が事実だとすれば、この世界の主は父、田川秀丸のはずだ。
けれど英男は当然のように最初に湯呑みを受け取り、従弟がお茶を飲むのを待つことはなかった。
さらに、英男の妻であるうさぎの富美子は湯呑みを冷ましていなかった。
私にとっては、出されたお茶は特に高温ではなかったけれど、猫舌の人は熱に過敏だと聞いたことがある。
それをストローで吸えばまるで細いホースで撃たれたようで、父にとっては辛かっただろう。
そんな父を見ても、うさぎの富美子は父の手に代わりになるどころか、「あんたも」と言い氷がある場所を私に示した。立ち上がる素振りすらなかった。
もし私がこの場にいなければ、父は無理をせずお茶が冷めるのを待っていたのかもしれない。
従兄夫婦にため息をつく父。諦めているような視線で、これが長い歳月の中で確立した日常だと訴えていた。
私は先ほどこの世界の入り口に立っていたときのことを思い出した。嫁と義理の親戚、二人の女はあまりにも砕けた態度だった。
私は確信した。
この再婚、絶対に裏があるーー!
これ以上、うさぎの富美子が淹れたお茶は飲む気になれなかった。
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