[63]

 リュトヴィッツは左肩に手を回した。ボリスが放った銃弾は間一髪で通り過ぎ、背広を引き裂いていた。冷凍倉庫まで戻る途中で、スヴェトラーノフに会った。

「ラザレフは?」

 スヴェトラーノフが首を横に振る。

 リュトヴィッツが倉庫の中に戻ると、OMON部隊員がマフィア全員を壁に向かって立たせ、隠し持った武器が無いか身体検査をしていた。ポポフが検査を終えたマフィアの顔写真を撮っていく。

 ラザレフは口から血を流していた。クリコフがその傍に膝を付き、ラザレフが自分の血で窒息しないように、体をうつぶせにしてやろうとする。ラザレフは身体を縮め、クリコフの腕を掴んだ。

「言ったろう・・・この防弾チョッキは・・・あまり質が良くないって」

 まるで感電したようにびくんと身をひきつらせると、ラザレフは息絶えた。

 ギレリスは赤い旗のように広がっていく死人の血が革靴を浸すのも構わず、ラザレフの傍に立った。リュトヴィッツは何か慰めになる台詞が浮かんでくることを祈りながら近づいて行ったが、あまりの虚しさに言葉を失った。ギレリスは感情のこもった口調で、プーシキンの叙事詩「エフゲニー・オネーギン」の中の詩句を暗唱してみせた。

「『嵐は止み、空は白み、大枝の花はしおれて、祭壇の火もついに消えぬ』」

「さあ、大佐。うちへ帰りましょう。幕は下りたんです」

 スヴェトラーノフが言うと、ギレリスは恨みがましい眼つきで睨んだ。

「少なくとも、次の幕が上がるまでは」

 リュトヴィッツが付け加えると、ギレリスは「その通りだ」と言ってうなづいた。

 ハッと眼が覚めて、リュトヴィッツはベッドから半身を起こした。見慣れたピンク色の天井。隣では、カテリーナが寝息を立てて片腕をリュトヴィッツの胸にかけている。冷凍倉庫から犯人たちの移送を済ませた後、リュトヴィッツは大屋敷を出て、近くの公衆電話からカテリーナに電話をかけた。カテリーナをホテル・プーシキンの505号室に誘い、2人で裸になってベッドに入ったものの、ヴィシネフスキー事件の顛末をしているうちに眠りに落ちてしまったようだった。

 もう一度ベッドにもぐり、リュトヴィッツはカテリーナの柔らかで濃密な髪に鼻をうずめて深く息を吸い込んだ。カテリーナが眼を覚ましたのか、身じろぎをする。

「どんな匂いがするの?」

「赤い匂いだ」

「何それ」

「俺はじじいになったよ」

「私も歳を取ったわ」

 カテリーナの腕とシーツの匂いは心地よく、リュトヴィッツは久しぶりに安全だと感じた。眠く満ち足りた気分。もう一生、黙っていてもよかった。しかし、リュトヴィッツは再びベッドから起き出した。突如、自己嫌悪と気おくれを覚え、かつてないほど、自分は今まで抱き合っていたカテリーナにふさわしくないと感じた。

 リュトヴィッツはベッドから降りた。鬱屈した不満が、小卓の上に広げた携帯用のチェス・セットの周りに浮遊していた。大屋敷からホテルに帰る途中、まだ開いていた本屋で購入した安物で、206号室に残された棋譜を再現してあった。

 白側の椅子に腰かけ、ニコライと仲良くゲームを愉しむ恰好で、リュトヴィッツは本格的にゲームに取り組み始めた。ヴァレリー・サカシュヴィリを殺した奴が、まだいる。そいつを捕まえないと、自分の気が済まないらしい。

 電気スタンドのスイッチをひねる。チェス盤をじっと見つめる内に、リュトヴィッツはいい気分になってきた。こんなことは初めてだった。想像で駒を動かしていると、b8に達した白のポーンが気になった。プロモーションできる位置にある。ビショップ、ルーク、クイーン、ナイト。そのどれに成るのがいいか。

 ナイトだと判断した。すると、黒はd7のポーンを逃がさなければならない。

《どこへ?》

 突然、リュトヴィッツはぱっと立ち上がり、片手で椅子を持ち上げる。毛足の短いカーペットには四つの脚の跡が、浅くだがハッキリと付いている。

 リュトヴィッツは今まで、ニコライが部屋に客を迎えたことは一度も無かったと思っていた。ホテルのフロント係が全員そう証言したからだ。だから、チェス盤に残されていたゲームは何かの対戦の再現、もしくは自分自身との対戦といったものだと思い込んでいた。だが、もし実際には訪問者がいて、チェス盤をはさんでニコライと対座したとしたら。訪問者が坐った椅子は、カーペットに跡を残したに違いない。もちろん、今ではもう消えているだろう。だが、ポポフが撮った写真には写っているはずだ。その写真は、科学技術部の倉庫のどこかに保管されている。

 ズボンに脚を通し、シャツのボタンを留め、ネクタイを締めた。靴を履き、ベッドの上掛けをカテリーナの顎まで引き上げてやった。背をかがめて電気スタンドを消して部屋を出ようとした時、ドアの下に四角い紙が落ちていることに気づいた。手に取ると、新しく出来たスポーツクラブからの勧誘ハガキだった。添付されたモデルの写真を見る。

 利用前(ビフォー)と利用後(アフター)。肥満と痩身。出発点と到達点。

 その時、リュトヴィッツは感じた。身体に手をかけられたような感触。ビフォーとアフター。ニコライの手の電撃を伝えるような感触が、リュトヴィッツに奇妙な祝福を送ってきた。そして、それは消えて、ホテル・プーシキンの部屋だけが残った。

 カテリーナはベッドで身体を起こして片肘をつき、リュトヴィッツを見ていた。

「どうしたの、サーシャ?」

 リュトヴィッツはベッドの端に腰かけた。

「あれは対戦じゃなかったんだ・・・」

「どういうこと?」

「206号室のチェス盤に残っていたのは、チェス・プロブレムなんだ。駒の配置が普通じゃない。あの夜、誰かがあの部屋を訪ねてきた。ニコライはその人間にプロブレムの課題を出した。かなり手の込んだやつだった」

 リュトヴィッツはしっかりした手つきで盤の上に駒を並べた。

「白が、ポーンを他の駒に昇格できる状態にあった。白はそれをナイトにした。普通は一番強いクイーンにするんだが、アンダープロモーションと言って、それ以外の駒にすることもある。この場合、ナイトだと3通りの王手のかけ方があると考えたからだろう。ところが、それはミスなんだ。黒、つまりニコライが引き分けに持ち込める。白は、ビショップをc2へ動かすという頭の悪そうな指し方を選ぶべきだ。この段階ではその秀逸さが分からないが、これ以降、黒はひたすら自滅するほかない」

「好手が無くなるわけね」

「こういうのを、ツークツヴァンクという。ドイツ語で《動きの強制》を意味する。黒としてはパスしたいんだが、とにかくどれか動かなくてはならない」

「チェックメイトになると分かっていても」

 リュトヴィッツは、カテリーナが理解し始めているのを見て取った。

「どうしてわかったの?」

「俺は決め手になる手がかりをこの眼で見た」リュトヴィッツは言った。「でも、最初はそのことに気づかなかった。206号室で撮られたチェス盤の写真は《アフター》の写真で、それは間違ってるんだ。大事なのは《ビフォー》。つまり、白のナイトが3つになったチェス盤だ」

「でも、チェスのセットには白のナイトは2つしかないわ」

「他のもので代用するしかない」

「どうやって?」

「ライターとか、コインとか・・・錠剤のビンでもいい」

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