[64]
リュトヴィッツは夜勤支配人のフィリポフからジグリを借りた。カテリーナをアパートまで送った後、早朝の市街をスモリヌイ聖堂の北に広がる森の中に建つセミョーノフの作業所まで飛ばした。
作業所の前で、セミョーノフに使われている学士がモップで石畳を拭いていた。ジグリから降りると、リュトヴィッツは学士に聞いた。
「セミョーノフ師はいるかい?」
「いらっしゃいます」学士はドアの方へ顎をしゃくった。「でも、とても忙しいです」
「救世主の話を書いてるのか」
リュトヴィッツは作業所の引き戸を開けた。セミョーノフが大きな地図が広げられた卓上から顔を上げ、横柄に唸りながらうなづいた。まるでリュトヴィッツが約束の時間に遅れてきたかのようだった。
「朝食の時間はおわりだ」
「朝食だなんて。このテーブルのゴタゴタを整頓するだけで何年もかかる。コンテナが1ついるよ」
セミョーノフは電気ポットのところへ行き、グラスを2つ出した。
「ペテルの地下に、トンネル網があるって話は聞いたことはあるか?万が一、ドイツ軍に街を占領された時にゲリラ戦を行えるように、スターリンが造らせたものだ」
「そう言えば、なんとなく聞いたことがあるような気もするな」
「そのトンネル網の地図は持ってないか?」
セミョーノフはまだこちらに背中を向けたまま、ティーバッグの入った袋を開けた。
「持ってなきゃ、地質学の先生っていうのは嘘か」
セミョーノフは湯が沸騰する前にプラグを抜き、ティーバッグを入れたグラスに湯を注いだ。そして、トレイにグラスとジャムの瓶と小さなスプーンを載せてテーブルの隅に置く。2人はテーブルの周りに座った。ティーバッグがぬるい湯に色をつけ始めた。リュトヴィッツはタバコを勧めて火を付けてやった。
「ヴァレリー・サカシュヴィリが殺された日の夜、ホテル・プーシキンに来ただろ?」
「あんなボロいホテル、義理の母親のチワワを泊めさせるのも嫌だよ」
「あのトランクの中身を見せろ」
リュトヴィッツはセミョーノフの顔をまっすぐ見つめながら言った。
「こんなご時世だ。ヴァレリーは国を出たかったんじゃないか。パルサダニヤンから命を狙われてたかもしれない。だから、アンタに頼った。アンタは救世主のポン引きを装って、街をふらついて金をかき集めた。そして、あの日、ヴァレリーに金を渡そうとしてホテル・プーシキンに来た」
セミョーノフは鼻から紫煙を吐き出した。
「それが、わしに何の関係があるんだ?」
「後頭部に、黒い穴がひとつ。ヴァレリーは即死だった。オートマチックじゃない。38口径のリボルバーだ。エミール・リヒテルが自殺に使った銃と似たようなやつだ」
セミョーノフは黙って、タバコを床に落として踏み潰した。しばらくして、血色の悪い頬を涙が流れ始めた。リュトヴィッツがテーブルにあったティッシュ箱から1枚を取って渡すと、セミョーノフは鼻の角笛を鳴らした。
「わしはあの子にもう一度、会いたい。そのことは認めるよ」
リュトヴィッツは質問を変えた。
「ヴァレリーのチェス相手のことだ」
「うん?」
「ヴァレリーは母親に相手のことを《カイーサ》と呼んでた。心当たりは無いか?」
セミョーノフは瞬きをし、鼻梁をつまみながら、思案顔になった。
「10年くらい前のことだ」セミョーノフは結論を下した。「ヴァレリーが男とゲームしてるところをユスポフで見たことがある。後ろ姿で顔は分からなかった。男が時どき髪に櫛を通すんだ。その櫛が明かりで反射して光るんだ。金属製の物だったんだろう」
「男を見たのは、その時だけか?」
セミョーノフは力なくうなづき、リュトヴィッツはテーブルから立ち上がった。
「犯人は必ず捕まえる」
リュトヴィッツはジグリを飛ばした。自動車電話から大屋敷に掛け、ペトロフを呼びつけた。ホテル・プーシキンに駆けつけると、ホテルの前にはパトカーが1台停まり、ペトロフが降りてくるところだった。
地下室につづく階段の上に立つと、ひんやりとした埃と黴の匂いがした。リュトヴィッツは紐を引いて裸電球を付け、ペトロフが先に階段を下りた。
狭い空間に入るドアを見ると、掛け金の代わりのロープがだらりと垂れていた。リュトヴィッツはこのホテルで殺しがあった夜にここから情けない退却をした時、ロープを掛け釘にかけてきたかどうか思い出そうとした。しばらく記憶を探ったが、まもなく諦めた。
「行きますよ」
ペトロフが膝を付き、「這ってしか入れない空間」に潜り込んだ。リュトヴィッツは尻込みした。脈が速くなり、舌が乾いてくる。間もなくペトロフの全身が闇の中に消え入り、リュトヴィッツは淋しく取り残された。《さぁ、後に続け》と呟いて自分を説得し、けしかけている内に「同志大尉?」とペトロフに呼ばれた。
ペトロフが丸いベニヤ板を回してから持ち上げ、リュトヴィッツに渡した。アルミ製の管の内側にある突起を足がかりに、ペトロフは下へ降りていった。リュトヴィッツも続いた。ペトロフは小さく唸って飛び降り、次いでリュトヴィッツも闇の中に落ちる。ペトロフが支えてくれて、何とか倒れずに済んだ。
今降りてきたアルミ製の管と直角に、別のアルミ製の管が出ていた。リュトヴィッツがまっすぐ立つと、頭が湾曲した天井をこする。先はまっすぐ伸びてサドーヴァヤ通りの下をくぐっている。空気は冷たくて土と鉄の匂いがした。足元はベニヤ板が敷いてあり、その上を歩いていくと複数の足跡が光の先に浮かび上がった。
「何ですか、これは・・・」ペトロフが呆然とした顔で言った。
サドーヴァヤ通りを半分ほど進んだと思われるところで、南北に走る管と交差した。ベニヤ板の上をさらに歩いていくと、別のアルミ製の管が上に向かって伸びていた。内側には、やはり足がかりの突起がついている。
ペトロフが一番低い突起に脚を掛けて、上まで登った。頂上を覆う蓋の裂け目か穴に、光がちらちら見えている。ペトロフが上に出て、リュトヴィッツに手を伸ばしてくる。冷たく硬いものが手に触れた。アルミ製の管から這い出ると、床はタイル張りで便器が並んでいた。
「トイレに出たようです。有難いことに男性用です」
そのとき、トイレのドアがきしりながら開き、1人の男が入ってきた。
「刑事さんがなんで、ここにいるんですか」
アルヴィド・ヤンソンスの息子、ロージャだった。
「奇遇だな」リュトヴィッツは言った。「なら、ここはユスポフのチェスクラブか」
ロージャが訝しげな表情を浮かべながらうなづいた。
その後、リュトヴィッツとペトロフはトイレを捜索した。ペトロフが洗面台の下にある物入れを開けると、何か光る物を見つけた。
「金色の櫛がありますよ」
「見せてくれないか」
リュトヴィッツは櫛を手に取った。見覚えのある物だった。柄の部分に彫金文字で書かれている。
『GからFへ 愛のたけを込めて』
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