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 デミトヴァは悲鳴を上げ、包みを手から落とした。リノリウムの床に石をぶつけたような音がする。平静を取り戻すと、デミトヴァは敵意に満ちた眼で刑事たちを睨んだ。

「人をつけ回したりして、どういうおつもりですか?」

「事態をこれ以上、悪化させるのはやめましょう」

 ギレリスはそう言って、冷たい包みを拾い上げる。

 デミトヴァはため息をつき、備え付きのスツールにどっかり腰を下ろした。タバコに火を付けて、気持ちを静めようとする。

「それは何です?」たまりかねたように、リュトヴィッツは聞いた。

 ギレリスは包みの臭いをかぐと、それを作業台の上に置いた。

「肉だよ」そう言って、流し台へ行き、丁寧に手を洗い始める。「ドミトリ・ヴィシネフスキーがデミトヴァ博士に分析してもらいたかったサンプルさ」

 リュトヴィッツは作業台の方に進み出て、包みを手に取り、顔を近づけた。

「よせ、触るんじゃない」ギレリスが言った。手を振って水を切り、流し台の横に掛けてあったタオルで拭いた。

「放射能はどれぐらいですか、博士?」

 デミトヴァは紫煙を天井に向かって吹き上げ、それからハンカチを捜した。眼の周りを拭いながら言う。「通常のサンプルに比べ、この組織は約1000倍の放射能を持つプルトニウムで汚染されてます」

 ギレリスはタバコに火を付け、マッチを冷凍肉の方へ振ってみせる。

「じゃあ、私がこの肉を食べたとすると・・・」

「あなたがもし、この肉を毎日50グラムずつ1か月摂取できたとすると・・・想像して下さい、今のロシアで1か月、毎日肉が食べられるなんて・・・」仮定そのものが滑稽千万だというように、デミトヴァは笑った。

「計算上の数値をうかがっているのです。学者として、お答えください」

「年間最大許容量の倍に当たる放射能をひと月で吸収することになります。通常の自然放射線の摂取量をこれに加えると、かなり深刻な問題になることは確かね」

「ヴィシネフスキーは、どこでこれを手に入れたんでしょう?」

「それは分かりません。彼は言いませんでしたし、わたしも尋ねませんでした。分析が完了したときは、彼は亡くなってました」

「なぜ、警察に訴え出てこなかったんですか?それに、なぜ今になって嘘をつくのです?」

 デミトヴァは口をとがらせ、悲しげに首を振った。

「巻き込まれたくなかったんでしょうね。テレビでは盛んに、ヴィシネフスキーの死は恐らくマフィアが絡んでいると言ってました。敵対するような行動を取ったから、殺されたんだと。わたし、怖かったんです。それで、しばらく身を隠すことにしました。そこにあなた方が現れて、他に死者が出たとおっしゃったので、わたしは多分パニックに陥ったんです。この肉を処分した方がいいと考えました。持っていることを誰かに知られないうちに。自分まで殺されてしまわないうちに」

「これを、どうするつもりだったんです?」

「病院の焼却炉に入れようと思ってました。人体の標本と一緒に」タバコを一服、ゆっくりと燻らし、肩をすくめる。「ごめんなさい。浅はかな考えでした。どうして、そういう方向に気持ちが動いてしまったのか・・・わたし、刑務所に入れられるんでしょうか?」

「それは全て、捜査に協力して下さるかどうかにかかってます。まず、この肉がどうして放射能を帯びるに至ったか、説明してもらえますか?」

「それは、わたしもずっと疑問に思ってました。わたしなりの結論は、ソスノヴィ原発の原子炉に何か事故が起こったのではないかということです」

「前例もありますしね。つい2週間前、放射性のヨード・ガスが漏れたばかりですから」

 デミトヴァは首を横に振った。

「食物連鎖のあの段階まで達するには、放射能漏れはもっと以前でなくてはなりません。少なくとも、半年前」

「ありえますか?」リュトヴィッツは言った。「そんな事故があったなんて、誰も知らされてないのに」

「ソスノヴィ原発では70年代半ばに、大事故が2回発生してます。それが一般に知らされたのは、ずっと後のことでした」

「何らかの隠蔽が行われたということですか?」ギレリスが聞いた。「チェルノブイリの時みたいに?」ゆっくりと首を振る。「それは無いでしょう。共産党が消滅して、世の中は変わってしまったんですから。おまけに、我が国は原子炉の管理を厳しくしようとしています。ここでまた隠蔽工作が発覚したら、西側のエネルギー機関からの援助が打ち切られてしまうじゃないですか」

「こういう問題については、わたしより良くご存じのようですね」

「その上、マフィアが絡んでる可能性となると、どの程度のものでしょう?」

 ギレリスの言葉に、デミトヴァは肩をすくめただけだった。

「肉ですよ・・・」リュトヴィッツは思い出したように言った。「マフィアが絡んでくるとすれば、肉の売買・・・辻褄が合います」

「何の辻褄が?」

「グルジア・マフィアが、フォンタンカ運河沿いのレストラン・トルストイに火炎瓶を投げつけた事件は話しましたよね?」

 ギレリスはうなづいた。

「この前、オーナーのモロゾフを再聴取した際、このご時世にも関わらず、調理場の冷凍庫に肉のカートンが山ほど積まれていたのを見つけたんです。怪しいと思い、入手元を問い詰めましたが、シラを切りまして。どこかのマフィアが放射能に汚染された肉を安く売り捌いてる可能性があります」

 ギレリスは驚きの表情を浮かべると、デミトヴァに向き直った。

「博士、ここにガイガー・カウンターはありますか?」

「ラジオメーターがあります」戸棚の鍵を開け、カメラマンの露出計に似た器具を取り出した。「ガイガー・カウンターより感度が高いですよ」

 冷凍肉の上にその器具を持っていき、ダイヤルにギレリスの注意が引き寄せる。

「最高領域のセッティングでは、針はほとんど動きません」セッティングのつまみを180度回した。「しかし、最低領域だと、このサンプルがかなりの量の放射線を発していることが分かります。毎時約500ミリレントゲンですね」

 ギレリスはラジオメーターを受け取り、自分でも測定してみた。それから、器具の下の方に眼をやり、製造業者の名前を読み上げた。

「アストロンか。ちょっとした驚きだな。ソ連製なのに、まともに動いてる」

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