[58]

 刑事たちはフォンタンカ運河沿いのレストラン・トルストイの前に立ち、呼び鈴を鳴らしていた。火炎瓶が投げ込まれた時に割れた窓に、新しいガラスがはめられていた。

 刑事たちの姿を見て、モロゾフはげんなりした顔をした。

「今度はなんです?」泣きそうな声を出す。「この1週間ずっと、あなた方の質問に答え続けてきたんですよ。そろそろ解放してくれませんか?」

 応援で大屋敷から駆けつけたスヴェトラーノフが大きな手でモロゾフの胸を押し、道を空けさせる。

「営業妨害ですよ。あんまりだ。市議会にこのことを訴えます」

「そうしてくれ、同志」

 ギレリスはそう言って、店内を突っ切り、調理場へ入っていった。ちょろちょろとゴキブリが1匹、行く手を横切る。

 料理長はリュトヴィッツと変わらない程の大男で、コサック風の口髭を生やし、血の染みがついた汚いエプロンをしていた。肉切り包丁でせっせと胡瓜を切っていたが、刑事たちの姿を見ると、その手を止め、威嚇するように睨みつける。

「おい、どこへ行こうってんだ?」大きな包丁をギレリスの胸に向けて言った。

「民警だ、トポルコフ」モロゾフが言った。「いいから、包丁を降ろせ。揉め事は困る」

「そう、言われた通りにした方がいいぞ」スヴェトラーノフが言った。

「俺の調理場に、俺の許可なしに入れる奴はいねぇ」喧嘩腰のがなり声だった。「民警だろうが、何だろうとな」

 リュトヴィッツは胡瓜のボウルの傍に、蓋の開いたウォッカの瓶が立っているのに気づいた。トポルコフぐらいの体格の男が相当量の酒を飲んでいる時には、扱いに気をつけなくてはならない。こちらも、度胸付けのアルコールが欲しいところだった。

「この前来た時には、アンタの姿を見かけなかったような気がするな」

「おれがいなくて、幸いだったぜ。もしいたら、お前の両耳をちょんぎって、煮込んでたとこだろうからな」ウォッカの瓶を取り、ぐいっと喉に流し込む。

 リュトヴィッツはすばやくトポルコフの肘を掴むなり、包丁を持った手を捻って肩に押しつけた。激烈な痛みに、トポルコフは大きな悲鳴を上げて、包丁と瓶の両方を床に落とした。すかさずスヴェトラーノフが前に躍り出て、手錠をかける。

「そこに座って、大人しくしてろ」ギレリスが言った。

 トポルコフはロシア産シャンパンのケースに座り、がっくりとうなだれた。モロゾフが宥めるように、料理長の広い肩に手を置く。

「大丈夫だ。気にするな」

 リュトヴィッツが冷凍室の扉を開け、まるで好きな絵画を鑑賞するように、中の様子をじっくりと観察した。

「申し上げたでしょう」モロゾフが言った。「うちの肉はみんな、ちゃんとしたところから仕入れてるんです」

 ギレリスが中に入り、ラジオメーターのスイッチを入れた。器具を肉のカートンに向けると、針が端までいっぱいに振れる。

「何のマネです?お願いですから、出て来ていただけませんか。たいへん不衛生ですし」

「まさしくそうだ。この肉が放射能を帯びてるのを、知ってたか?」

「放射能?」モロゾフは笑った。「分かりましたよ。そうやって、火炎瓶を持ち込んだ犯人たちについての証言を、引っ張り出そうというんですね。警察も犯人も、タチの悪さじゃどっこいどっこいだ。その手には乗りませんよ」

「ご明察と言いたいところだが、これを見ろ」ギレリスはラジオメーターのダイヤルの震えている針を指差した。「ラジオメーターだ。ガイガー・カウンターと似たような物だが、こっちの方が感度は良い。この機械によると、ここにある肉だけで、小さな町ひとつ分ぐらいの電気が起こせるぞ、モロゾフ。ということは、この店は当分、閉鎖だな」

「そんなこと、出来るはずがない」

「ああ、私にはその権限が無い。だが、保健局と放射線管理委員会のお役人が来たら、即刻閉鎖を命じるだろう。そのあと営業再開できるかどうかは、肉の仕入れ先に関する君の証言しだいだ」 

 モロゾフが首を振る。

「わたしが藁の舟で川を下ってきたとお考えのようですね」せせら笑うように言った。

 ギレリスは肩をすくめ、腕時計を見た。オレンジ色の錠剤が入った瓶を取り出し、リュトヴィッツとスヴェトラーノフに1錠ずつ与える。

「ほら、ヨード・カリを飲む時間だぞ」そう言って、自分も一錠飲んだ。

「何の薬です?」モロゾフが怪訝な顔で聞く。

「ヨード・カリか?放射性ヨード131が甲状腺に蓄積するのを防ぐのさ。甲状腺は、人間の器官の中でも放射線にいちばん敏感だからな。この肉のそばに立ってるだけでも、かなりの影響を受けてる」

 モロゾフは顔を曇らせ、手で喉のあたりを触った。

「これを食べたりしたら、どんな害があるか、分かったもんじゃありませんね」スヴェトラーノフが追討ちをかける。

 モロゾフの手が鳩尾まで下りた。腹を擦って、おくびを漏らす。

「なんだか気分が悪くなってきた」積まれた肉のカートンに疑いの眼を向けながら言う。「そろそろここを出なくては・・・」

 その行く手に、リュトヴィッツが立ちはだかった。

「まだ早すぎるぞ」

 ギレリスがニヤッとして、ラジオメーターを思わせぶりにモロゾフの喉に向ける。ダイヤルを見て、険しい表情で首を振った。

「どうしたんです?」モロゾフが言った。「なんと出てるんです?ねぇ、わたしにもその薬を下さいよ」

 ギレリスはオレンジ色の錠剤の瓶をモロゾフの眼の前にかざした。

「これか?これはとても高いんだ。そもそも、君の分まであるかどうか・・・」

 薬の瓶を掴み取ろうとしたモロゾフの手を、スヴェトラーノフががっちりと抑える。

「分けてやってもいいが」ギレリスは言った。「その前に、この肉の仕入れ先を聞かせてもらわんとな」

「分かりました、分かりましたよ」モロゾフは疲れ果てたようにため息をつく。「ヤーコフ・スヴォリノフという男です。週に一度やって来て、欲しいだけの量の肉を売ってくれるんです。羊や豚もありますが、牛肉が主ですね。1キロ100ルーブル。どれも、品質は最高級・・・いえ、今までは、少なくともそう思ってました」ギレリスに向かって、眼を剥いてみせた。「もう薬をいただけるでしょうか?」

「スヴォリノフは、どこから肉を仕入れてくるんだ?」

「白ロシアの南部から、月に2回、荷が入ると言ってました。スヴォリノフはウクライナ・マフィアの人間なんですよ。3か月ほど前に、キエフでECからの援助食糧を丸ごと強奪したらしくて、それをペテルとモスクワで売り捌いてるんです」

 ギレリスは思わずリュトヴィッツと眼を合わせた。

「連中がどうやって肉をペテルに運んでくるか、ぞっとするような絵が浮かんできたぞ」

「その錠剤を下さいよ」モロゾフがうめくような声を出す。「お願いです」

「大屋敷でちゃんと供述をすませてからだ」ギレリスは薬の瓶をリュトヴィッツに渡した。「ついでに、グルジア人たちの放火未遂も供述しろ」スヴェトラーノフが言った。「これでようやく、カタがつく」

 リュトヴィッツは瓶を見て、ポケットに入れた後、ギレリスの方へ上体を傾けた。「何の薬です?」と、耳元でささやく。

「健胃剤さ」ギレリスはにんまりと笑い、スヴェトラーノフに言った。「モロゾフをよろしく頼むぞ」

「大佐はどちらへ?」スヴェトラーノフが聞いた。

「サーシャともう一度、アングロ・ソユートザム運輸に行ってみる」

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