[55]
ラマノーソフは、サンクトペテルブルクの西40キロほどの所にある小さな町だった。隣接するペトロドヴォレツと同じく、帝政時代に夏の宮殿が置かれた地でもある。
刑事たちは目的地を捜し当てるのに、だいぶ手間取ってしまった。別荘地には所番地のようなものがなく、区画番号があるだけだったからである。
目当ての建物は大半の別荘と同様、木造の小屋に毛が生えた程度の造りで、だだっ広い区画整理地に、似たような安普請の家々と並んで建っていた。青く塗られた二階建てで、なまこ板の高い屋根に小さな杭垣が周囲を囲んでいた。入口の外に、旧型の白いジグリが停めてあった。
玄関のドアをノックしてから、リュトヴィッツは不快そうに鼻をひくつかせる。
「汚水処理タンクが臭ってますね」
「この暑さのせいだろう」ギレリスが言ったとき、ドアが開いた。
年齢は40歳前後。痩せ型できつい感じの女性だった。眼は淡い青。アルコールとは無縁ではない顔つきに、リュトヴィッツは親近感を覚える。
「レナータ・デミトヴァ博士?」
「そうですが」
ギレリスが身分証を見せた。
「いくつか質問に答えてもらえませんでしょうか?」
「何のことで?」
「ドミトリ・ヴィシネフスキーのことです。お時間は取らせません」
デミトヴァは肩をすくめ、ドアの脇へ退いた。
木の床に大きな鋳鉄製のストーブが置かれ、家具はあまり無かった。壁は本に覆われ、ウォッカの瓶の横にある灰皿でタバコが1本、紫煙をたなびかせていた。その傍に口の開いたブリーフケースが置いてある。ドアを閉めながら、デミトヴァが言った。
「申し上げる程のことがあるとは思えませんけど」
「実に多くの証人が、はじめにそういう台詞を吐いて、結局は捜査に役立つ情報を提供してくれるのです」ギレリスが言った。
デミトヴァは吸いかけのタバコを取り、再び吹かし始めた。
「たいへん快適な別荘ですな。休暇中ですか?」
「仕事を抱えての休暇です。たまっていた書き物を片づけてるところで」
ギレリスはウォッカの瓶に、それからブリーフケースに眼をやった。
「なるほど。うってつけの週を選んだものですな」シャツの襟を緩める。「市内は、まるで溶鉱炉ですよ。水を1杯いただけませんか?長いドライブだったもので」
「いいですよ」気乗りしない声。「よろしければ、レモネードがありますけど」リュトヴィッツに向かって、片方の眉をつり上げる。
「たいへんありがたいですね」リュトヴィッツは答えた。
デミトヴァがレモネードを取りに、小さな台所へ行く。ギレリスは本棚から1冊取り出して、パラパラとページをめくり始めた。
「市長と何か関係がおありですか?」台所に向かって聞く。
「いいえ」2個のグラスを持って戻ってきたデミトヴァは、2人の刑事がおいしそうにレモネードを飲み干すのを見守った。
「ドミトリ・ヴィシネフスキーのことだとおっしゃいましたけど」
「ええ、そうです。彼が殺された事件を捜査してるんです。彼の住所録に、あなたの名前が載っていました」
ギレリスはグラスを返して、また本の渉猟を始めた。
「まぁ、載ってるでしょうね。あの方が記事をお書きになるのに、いくつかの論文やデータを提供したことがありますから」
「いつの話です?」
デミトヴァは肩をすくめる。
「2年ほど前」
「それはつまり・・・」ギレリスは手にした本をかざしてみせた。「放射線生物学上の論文とデータということですね」
「ええ、その通りです」
「ヴィシネフスキーを知っていた全ての方に、詳しく話を聞かなくてはならないという事情をどうか汲んでいただきたいのですが、その記事のテーマというのは何についてのものだったか、覚えておいでですか?」
「チェルノブイリに関連したものだったと思います」
「単なる偶然かもしれませんが、ヴィシネフスキーの住所録にもう一つ、原子力産業に関わる人間の名前がありました。アナトリー・ロマネンコ。お心当たりはないですか、デミトヴァ博士?」
「いいえ、聞いた覚えはありません」
「その男も、殺されたのです」ギレリスの口調は、投げ捨てるように素気なかった。
デミトヴァの青い眼が心もち大きく見開かれる。デミトヴァは深く息を吸った。
「なんということでしょう。ですが、わたしを原子力産業に関わる人間に含めるのは、無理があるかもしれませんよ。厳密に言えば、わたしは生物学者です。第一医科大学のね。わたしの仕事は、放射性トレーサーを使って代謝のプロセスを調べることなのです」
「ヴィシネフスキーと最後にお話ししたのは、いつのことですか?」
「2年前。先ほど、そう申し上げたはずですけれど」
「そうでした、そうでした」ギレリスは本を棚に戻した。「すると、あなたは彼が原子力産業をテーマに新しく記事を書いたり、ドキュメンタリーを作ったりする計画を持っていたかどうか、ご存じないわけですね?実は、サンクトペテルブルク周辺の大気中に存在する可能性のあるベータ放出体、つまりプルトニウムやポロニウム、アメリシウムなどに関するメモが彼の自宅から発見されまして」
「いいえ」デミトヴァの声が苛立ちの響きを増してくる。「何度も申し上げますけれど、あの方が何をしてらしたのか、わたしは全く存じません」
ギレリスは窓辺に歩いて行き、パッチワークのように並ぶ色とりどりの別荘を眺め渡した。大きく息を吸い込み、得心したようにうなづく。
「本当に快適な住まいだ。あなたの持ち物ですか?」
「いいえ、友人から借りているんです」そう言って、しばらく黙り込んだ。「もうご質問がないようでしたら、来客の予定があるものですから・・・」
「ああ、これは申し訳ない。おいとまいたします」
2人の刑事は、車を停めた場所まで道を戻った。
「収穫なしでしたね」リュトヴィッツが言った。
「まだ分からんぞ」
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