[54]

 一般に、ロシア人は熱波に弱いということになっている。ほこりに覆われた窓を通してさえ、日差しは炭火のように感じられる。スヴェトラーノフが自分の車のラジエーターが耐えられるか心配していた。

 その日の朝一番に、リュトヴィッツの机の電話が鳴った。相手はグルジア・マフィアお抱えの弁護士を務めるルージンからだった。

「起訴がなされないのなら、依頼人たちは今日の午後に釈放されるはずですが」

 リュトヴィッツはもう少し待つように言って電話を切ったが、書類をざっと眺めただけでも、ささやかな外貨取扱法違反の他に、グルジア人たちを起訴に持ち込めるような材料は無かった。

 困り果てた体で国家検察局のフェデュニンスキーに電話をかけ、リュトヴィッツは証拠集めのための時間がもっと欲しいと訴えた。

「放火未遂に関しては、証人がいます。出廷にはやや消極的なんですが」現実には、《やや消極的》というレベルをはるかに下回っている。「レストランの経営者です。証言するのを怖がってまして」

「分かった。24時間の拘留延長を、カリーニン地方裁判所に申請しよう。その間に、しっかりとした証拠を集めるんだ」

「ありがとう、伯父さん」

 いつものウーステッドの黒い背広を着て、ギレリスが大屋敷の刑事部屋に現れた。たった今、サウナから出て来たばかりのように汗をかいていた。

「くそ暑いな」喘ぎ声で言いながら、胸に汗で貼りついたシャツを引っ張り、汗まみれの顔に飛んできた蚊を追い払う。「まさにチュルキの夏だ、これは」

 リュトヴィッツは、グルジア人たちへの措置と検察局とのやり取りについて説明した。

「たぶん、何か出てくるだろう」ギレリスの答えは楽観的だった。「出てくることを神に祈ろう。あのゴロツキどもをお咎めなしで釈放しましたなどと、刑事部長に報告するのは嫌だからな。ベルマンにテレビで何と言われるか、分かったもんじゃない」

 スヴェトラーノフとクリコフが話を聞いてもらいたそうに、そばをうろついていた。ギレリスはスヴェトラーノフに顔を向けた。

「セルギエンコは、どうだった?」

「顔をひとつ、拾い上げました」スヴェトラーノフが写真を2枚差し出す。「アラム・ウルマーノフ。通称、《レスラー》です。もう一人は、多分こいつだろうということで・・・マカル・ナズドラチェンコ。通称、《小人(ドワーフ)》」

「そいつらの行方は、追ってるんだろうな?」

「ラザレフが、情報屋に話を聞きに行きました。何かネタを掴んでくると思います」

「クリコフ、お前は?」

「デミトヴァ博士のことです。滞在している別荘の場所が分かりました。ラマノーソフの近くです」住所を書き留めた紙を、ギレリスに渡した。

「サーシャ、田舎へちょっとドライブとしゃれ込まんか?」

「絶好の日和ですね。有難くて涙が出ます」

 リュトヴィッツは椅子の背から上着を取って、ギレリスと廊下を歩き出したが、五歩も行かないうちに立ち止まる。

「誰か、ガソリンが手に入る場所は知らんか?」

 リュトヴィッツがジグリのハンドルを握ると、ギレリスからラマノーソフの別荘地に向かう前に、グリボイェードフのアパートに向かうよう言った。ヴィシネフスキー夫妻とフラットを共にするコズロフ夫人に話を聞くためだった。

 刑事たちはコズロフ夫人がネフスキー大通りのパン屋に行こうとするところをつかまえた。アデリナは部屋に上がってもらいたがったが、ギレリスは歩きながら質問に答えてくれればいいと説き伏せた。

「お役に立つようなことがお話しできるとは思いませんよ」アデリナはしおらしい口調で言う。「主人が申し上げた通り、あたしたちは物事に敏感じゃありません。先日もね、テレビのニュースで、誰かがそこの角に赤ちゃんを捨てたって報道されてましたけど、あたしはきっと現場を何度も通りかかってるんですよ。赤ちゃんを捨てるなんて恐ろしいこと、想像できます?この国は一体どうなるんでしょう?それに、あたしはその赤ちゃんに気付かなかったわけですから」

「母親が赤ん坊を捨てるというのは、ロシアでは、あなたや私が生まれる前からよくあったことです。そこに、キリスト教の信仰が入ってきたわけでしょう」

「ええ。それが今や、どうなってしまったのか」

 3人は角を曲がってネフスキー大通りに出ると、パン屋の行列に加わった。いつもながら辛抱強く順番を待つ主婦たちの話題は、食べ物の値段の高騰ぶりについてだった。酒を買う以外に行列にめったに並んだことのないリュトヴィッツは、ひと塊のパンが5ルーブルもするのを知って驚いた。

「ドミトリ・ヴィシネフスキーが殺されたとお知らせした時のことを覚えてますか?」ギレリスは言った。「ヴィシネフスキー氏がおたくの冷蔵庫から食べ物を盗んだというようなことをおっしゃってましたな」

 アデリナが困ったような顔をする。

「お願いですから、忘れて下さいな」青いサテンのスカーフの下で、頬を少し赤らめながら言った。「あたし、どうかしてたんですよ。ヴィシネフスキーさんは、全然悪い人じゃありませんでした。バカなことを言ってしまって」

「いえ、バカなことだとは思いませんよ。何が盗まれたか、覚えてますか?」

「覚えてるかって?」勢い込んでうなづく。「頭から離れたことはありません。牛肉です。ほんの小さな塊ですけど。百ルーブル以上もしたんですから」

「牛肉?」リュトヴィッツが言った。

「あたしらがそんなものを買えるなんて、驚くでしょ?コツコツお金を貯めて、ようやくあの小さな塊を手に入れたんですよ。40回目の結婚記念日をお祝いするために」

 ギレリスは困惑して、首を振った。

「いや、もっと違うものを予想してたんですがね。何か、もっと大事なものを・・・」

「あの牛肉よりも大事なものがあるんですか?」

「そういう意味ではなくて」ギレリスは苦笑いを浮かべる。「箱とかケースとかに入ってるもののことを思い浮かべてたんです。つまり、別の品物の容器に使えるような・・・他に盗られたものはありませんでしたか?」

「牛肉だけですよ」アデリナはため息をついた。ギレリスのがっかりした表情を見て、付け加える「すみませんね。お役に立てなくて」

「とんでもない、助かりましたよ」

 丁重に頭を下げて、ギレリスとリュトヴィッツは行列から抜け出そうとした。

「どうしたのさ?」すぐ後ろに並んでいた老婦人ががなり声を上げる。「まだ気持ちが決まらないのかい?」

「違うよ」別の婦人が嘲笑交じりに言った。「よくいるだろ、こんな手合い。気まぐれで並んでみたけど、バカバカしくなって、やっぱり奥さんを呼びに行こうかってのさ」

「その奥さんは、運がいいよ」3人目の婦人が言った。「聞こえなかった?パンは売り切れだって」

 刑事たちはそそくさとその場を立ち去った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る