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「十字の館」とも呼ばれるクレスチの再拘置施設IZ45/1は、ネヴァ河をはさんで大屋敷の真向かいにあり、有名な巡洋艦オーロラからも石を投げれば届く距離だった。

 エカテリーナⅡ世の頃に建てられた「十字の館」は、円形に造られた刑務所の前面を飾る赤煉瓦のビザンチン風十字架からその名を取っている。かつてはロシアの刑務所の規範とされ、現在は7000人がここに収容されている。

 リュトヴィッツとギレリスは正面玄関で番号票を受け取り、砲丸投げのオリンピック選手並みの体格をした女看守の先導で、鍵の掛かった監房の列の前を過ぎ、いくつかの回転ゲートを通って、取調室へたどり着いた。女看守は太い革のベルトに差した鍵束の中から1本の鍵を選び出し、隔離房の重く頑丈な鋼鉄の扉を開けて、中に座っている男に大声で命令を発した。

 ヴァシリー・セルギエンコはふらふらと立ち上がり、刑事たちの後について、サウナ風呂よりやや広い取調室へ入って来た。

 女看守が去って、リュトヴィッツとギレリスは床にしっかりと固定されたテーブルに、セルギエンコと向かい合わせに座った。ギレリスがタバコの箱をセルギエンコの方へ投げてやり、それから怪訝な表情で鼻をひくつかせる。

「何だ、この臭いは?」

 セルギエンコは顔をしかめた。「同じ房にいた奴の1人さ」情けない声を出す。「そいつの飼い猫が、おれに小便をひっかけやがった」

「それで、しゃべる気になったわけか?」リュトヴィッツは笑った。

「ふざけんなよ」噛みつかんばかりに言って、セルギエンコがタバコに火を付ける。「あんたたち、知ってたんだろ?連中がここでおれの命を狙うってこと」

「誰かに狙われたのか?」

「そこまで行かなかった」セルギエンコの声は震えていた。「おれが監房に入った時、プラトーノフって奴がいてよ。仲間からは《葬儀屋》って呼ばれてた。そいつがおれの名前を知ってるんだ。まるで待ってたみたいにさ。それで、ピンと来た。誰かが、おれをこの房に入るよう仕向けて、プラトーノフにおれを殺させようとしてるんだってな。おれは何にも喋らなかったのに、それでも口をふさごうとしてるんだ」

「連中の組織網は、思った以上にしっかりしてるようだな」ギレリスは言った。「さっそく手を打って来たか。あのグルジア人たちは、余程お前を消したがってるんだ。民警の見張りをつけておいたのが、お前には幸いしたな」

 セルギエンコがぽかんとした顔をする。「誰がグルジア人だなんて言った?」不安を紛らわすように、深々とタバコを吸った。

「この前の晩のことを、忘れてるんじゃないだろうな」リュトヴィッツは言った。

「グルジア人は関係ないぜ。今度のことにはよ」

「じゃあ、誰なんだ?チェチェン人か?」

 セルギエンコは軽蔑に鼻を鳴らした。

「あんたたち、大してものを知らないんだな」哀れむように首を振る。「なぁ、大佐。取り引きしようぜ」

「無担保の人間に金を貸すバカはいない」ギレリスの態度に苛立ちが見え始めた。握り締めた拳に力がこもって、指から血の気が引き、口が怒りの形にすぼまる。

「突っ張るなよ、大佐。おれにゃ、それだけの値打ちがあるぜ」

「死んでしまったら、お前など塀のつっかえ棒にもならん」

 セルギエンコはため息をつき、新しいタバコに火を付けた。

「おれはタレ込み屋じゃない。けど、チクッたことがバレたら、どんな目にあうか」

 リュトヴィッツはすばやく、セルギエンコの襟首を掴んだ。それをぎゅっと捻ったかと思うと、相手の頭を鋼鉄製のテーブルに2回、ガツンと叩きつけた。

「どんなに強がったって、お前はただのチンピラなんだ。母親の性生活について作文を書けと言われたら、お前は大人しく書けばいい。小賢しく立ち回ろうとしたら、すぐさま監房に戻してやるぞ。分かったか?」

「分かったよ、分かったよ」セルギエンコはシャツの襟からリュトヴィッツの手をもぎ離し、しょげた様子で額をさすった。「乱暴は止めてくれ、な?」

「捜査に役立つことがあったら」ギレリスは言った。「取り引きできるかもしれん。まぁ、私の言葉を信じてもらうしかないな。私が約束を守る人間だということは、ここにいる囚人の大半が保証してくれるだろう。いいか?」

 セルギエンコはふくれっ面でうなづき、床に落ちたタバコを拾い上げた。

「まず、盗みの件だ。誰に話を持ちかけられた?」

「ウクライナ人だよ」

 ギレリスとリュトヴィッツは顔を見合わせた。

「名前は知らない。けど、ムショに何年か入ってたようなことを言ってた。写真を見せてもらえば、分かるかもしれない・・・」

「それはまだいい。アルバム鑑賞の前に、もう少し話を聞いておく必要がある」

「レニングラードスカヤ・ホテルのバーで飲んでたら、2人の男がそばに来て、話し始めた。ウォッカをおごってくれて、ちょっとした仕事をやってもらいたいって言うのさ。おれの役目はある男のポケットから鍵を掏って、それから連中が家捜しをする間、見張りに立つだけ。それで、前金で500。仕事が終わったら、500くれるって言うんだ。次の日、グリボイェードフのあのアパートの前に行って、連中の車の中で待った」

「車の種類は?」

「古いシーガルだよ。ほら、ビュイックをまねたやつ」

 ギレリスはうなづいた。推理の穴がひとつずつ埋まっていくのを愉しんでいる。

「続けろ」

「最初、同じ階に住んでる年寄りの夫婦の姿が見えて、すぐにお目当ての若い方の夫婦が出て来た。2人でしばらく喋って、それから別々の方向に歩き出した。おれは男の方を少し歩かせといて、後ろからぶつかった。偶然を装ってな。で、男に手を貸して立たせてやりながら、ポケットに手を入れた。ちょろいもんさ」

 セルギエンコは口元をかすかに緩ませた。

「向こうは鍵が無くなったことにも気づかなかった」

「それから、どうなった?」

「その男の住んでる階まで上って、連中は予定通り家捜しを始めたよ。けど、部屋を荒らしたりはしなかった。捜す物がはっきり分かってたみたいだった。書類だって言ってた。どうも大事な書類らしくてさ。ドアからひょいと頭を突っ込んでみたら、あの2人、冷蔵庫の中まで調べてた」肩をすくめる。「冷蔵庫に入れとくなんて、どんな書類だ?きっと、人に見られちゃ困るようなもんだよな」

「どのくらいの時間、連中は捜してたんだ?」

「20分くらいかな。目当ての物は、ちゃんと見つかったみたいだった。その後、おれたちは別れた」

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