[46]

 一行が大屋敷に帰りついた時には、午前2時を回っていた。地下にある古い取調室で、リュトヴィッツが手錠を外してやり、ギレリスと向かい合う椅子に座らせる。

「あと何秒かで、あの俳優に刺されるところだったぞ」ギレリスは相手のタバコに火を付けてやり、それから自分のタバコをライターに近づけた。

「おれはツイてたってわけだな」

「そういうことだ。なぜ狙われたか、お前にはどうせ見当もつかんのだろうが」

 セルギエンコは椅子の前脚を浮かせ、ふでぶてしく椅子を揺らし始める。

「なぜ、あのとき、逃げようとした?」リュトヴィッツが低い声を出した。

「そりゃあ、アンタたちが奴の仲間だと思ったからさ」

 椅子の前脚を床につけ、机の上に置かれた缶のふたに、セルギエンコはタバコの灰を落とした。その右腕をギレリスがつかみ、大きく口笛を吹いた。

「ずいぶん上等な腕時計じゃないか。どう思う、サーシャ」

「高そうですね」

 ギレリスは眼を近づけ、文字盤に記されたブランド名を読んだ。

「ロレックス。本物か、これは?」

「そんなわきゃないよ。香港製のまがい物さ。本物がどうやって、おれの手に入る?」

「全くだ」ギレリスが金とステンレスのバンドの留め具を外した。「もっとよく拝ませてもらうぞ」

 セルギエンコはあいまいに肩をすくめて、腕時計からおずおずと手を抜く。ギレリスは腕時計をひっくり返し、文字盤の裏面をじっと見た。

「こいつはすごい。専門家しか、見分けはつかんだろう」うんうんと頷く。「今、ふと思ったんだがな。あの俳優はこれが欲しくて、お前を刺そうとしたんじゃないのか?こういう光り物は金になるからな」

「まさか」

「お前の考えはどうだ、サーシャ」ギレリスはリュトヴィッツに腕時計を投げた。

「おい」セルギエンコが抗議する「落としたら、どうするんだ?」

「すまん、すまん」ギレリスは笑った。「だが、どうせ偽物だろう」

「偽物だろうが、金はかかってるんだ」

「実によくできてる」リュトヴィッツが言った。「とても作ったとは思えない」

「刑事さんは、いつから時計職人になったんだ?」

「そうではないが、お前に保証書を発行してくれるぞ」ギレリスが言った。

「へぇ、何を保証してくれるってんだ?」

「オレグ・サカシュヴィリを呼び出したのは、お前だということだ」

「オレグ、何だって?何の話をしてる?」

 リュトヴィッツが腕時計をギレリスに投げ返し、口を開いた。

「お前はオレグに電話をした。この腕時計を売りたいと言ってな」

「刑事さん、何か勘違いしてるぜ」

「お前はサカシュヴィリに、この時計を外国人観光客から奪い取ったと言ったんだろ?」

「そんな奴、名前も聞いたことない。それに、その腕時計は盗んだんじゃないって」

「お前が俳優に殺されそうになったのは、そのためだ」ギレリスが宣告するように言った。「お前がオレグを呼び出して、殺させた」

 セルギエンコはひょろ長い首を横に振り続けた。

「ドミトリ・ヴィシネフスキーの部屋を荒らすのを助けたようにな」リュトヴィッツが付け加える。

「2人を撃ち殺す手助けもしたかもしれんな」ギレリスが言った。「いずれにしろ、最高15年の懲役は覚悟しとけ。シベリアのラーゲリで伐採作業に明け暮れる日々・・・」

「凍える冬、焼けつく夏」リュトヴィッツが引き継いだ。「数十キロ四方に、人の住む家は無い。この世の果てだ。全国から囚人が集まってくる。だだっ広くて、何もない。モスクワの刑務所よりも酷い場所だ」

「脅かしっこは無しだぜ」

「お前みたいな色男が行けば、胸をときめかせる囚人も多いはずだ」ギレリスは口角を緩めた。「その前に、事故や病気で命を落としたりしなければの話だが」

「くそったれめ」セルギエンコは吠えた。

「もちろん、ラーゲリまでたどり着けない可能性もある。グルジアの連中が、眼の色を変えてお前を追ってるわけだからな。どこにいたって、誰かに脇腹をくすぐられることになるぞ。違うか、サーシャ」

「連中にとって、これほど容易いことはないですよ。シベリアのどのラーゲリにも、グルジア・マフィアの息がかかった囚人がいます。収監中の人間をひとり殺すと、報酬はマリファナ二袋なんて黒い噂もあるしな」

 セルギエンコの青白い顔に、汗が伝い始める。片手で汗を拭って、震える口許からタバコを抜き取った。灰がぱらぱらとズボンに落ちる。

「誰に頼まれたんだ?」ギレリスの声に苛立ちが混じった。

「誰にも・・・」

「ヴィシネフスキーのアパートに一緒に行った2人の男は何者だ?」

「な、何の話をしてるんだか」

「なぜ、ヴィシネフスキーを殺した?」

「おれは誰も殺してないって」

 ギレリスは疲れた息を吐き、背中を椅子に預けた。タバコを灰皿で揉み消す。

「正直にしゃべらん限り、貴様の命には5コペイカの価値もないんだぞ」

 セルギエンコは不安と嫌味の入りまじった笑みを浮かべた。

「もししゃべったら、いくらの値打ちになるってんだ?」

 ギレリスは肩をすくめ、ロレックスに眼をやって、それを机の引出しにしまった。

「おい、返してくれよ」

 立ち上がろうとしたセルギエンコを、リュトヴィッツは両手で椅子に押し戻した。

「おとなしく座ってろ。腕時計は返してやる。ただし、お前が良い子になってからだ」

 セルギエンコが激しく首を振った。

「アンタたちのお遊びに付き合ってる暇はないんだ」

 リュトヴィッツはしゃがれた声で笑った。

「今のお前にあるのは、暇だけだ」

 取調室を出ると、ギレリスはリュトヴィッツの方へ向き直り、こう告げた。

「明日の昼までに、奴さんを河向こうのクレスチへ移せ。違う場所に放り込めば、考えが変わるかもしれん。手配してくれるか、サーシャ。だが、必ず誰かを見張りにつかせろ。奴の身にもしものことが起こらないようにな。それから、グルジア人どもを起訴に追い込めたとしたら、別の場所に拘置した方がいいだろう。シパレルヌィでも、ニジエゴロドスキでも、とにかくクレスチ以外の場所だ」

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