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 この日の夜、リュトヴィッツとギレリスはアレクサンドル・ネフスキー修道院を見下ろすホテル・モスクワに向かった。ホテルを巡回中の警官がロビーで、セルギエンコを見かけたという情報を知らせてきたからであった。

 玄関付近やロビーにうろつく娼婦の群れをすり抜けて、リュトヴィッツは通報してきた警官を見つけた。敬礼しながら、大理石の床を近づいてくる巡査部長の姿が眼に留める。巡査部長が敬礼し、報告をした。

「お尋ねの人物は私が電話した時、レストランにおりました。現在はカジノ場に移動しました。部下の1人が監視しております。逮捕することも考えたのですが、まずお知らせしてからと思いまして」

 3人で広い階段に向かって歩いた。そこをのぼると、大きな食堂があり、その先がラスヴェガス式のカジノ場だった。カジノ場は満員で、大半をロシア人が占め、誰もが取り憑かれたようにスロットマシンにコインを飲み込ませていた。

 ギレリスとリュトヴィッツを案内してきた民警の巡査部長が、監視に立たせた部下に合図を送る。その視線をリュトヴィッツがたどると、監視に立っていた警官はペトロフだった。ペトロフがマシンの列のひとつをのぞきこむよう、視線を送った。

 ギレリスが、膝に乗せた紙コップからコインを次々とスロットマシンに放り込んでいる男に注意を向けた。ジーンズを履き、青いトラックスーツの上着。タバコを下唇にぶら下げている。

「ヴァシリー・セルギエンコ。間違いありません」リュトヴィッツがささやいた。

 ギレリスがセルギエンコの方へ足を踏み出した時、リュトヴィッツは何かが照明の光を反射したのを眼の端に留めた。ブロンドの髪に、俳優に通用しそうな整った顔立ちの男。腿の近くでナイフを握ったまま、セルギエンコの背中に近づいていき、ナイフが振り上げられようとしたそのとき、リュトヴィッツはマカロフを抜いた。

「ナイフを捨てろ」

 ナイフを持った男がこちらを向き、リュトヴィッツのマカロフの銃口にすくむ。セルギエンコが座ったまま体を回して、刺客の姿を眼にすると同時に、スロットマシンがジャックポットの絵柄に揃った。コインが吐き出されるけたたましい音に、セルギエンコは刺客を突き飛ばして、レストランの方へ逃げ出した。

 払い出しコインのシャワーに、他のギャンブラーたちが殺到する。その混乱に乗じて、刺客も裏口へと走り出す。ギレリスとペトロフがすでにセルギエンコの後を追っていたので、リュトヴィッツはギャンブラーの群れをかき分けて、裏口へ消えた男を追った。

 外に出ると、ネヴァ河に沿って北の方へ視線を向け、それからアレクサンドル・ネフスキー橋の上を見る。ギターケースに投げ込まれた紙幣や硬貨をかき集めている大道芸人がいた。マカロフを背広の懐におさめ、リュトヴィッツは小走りに男に近づいた。

「たった今、走っていく男を見かけなかったか?」

 男がさっと振り向くと、カチンという大きな音が響き、ナイフが街灯に閃いた。すぐさま、男がリュトヴィッツの方へ足を踏み出した。街灯を受けて、男の風貌が浮かび上がる。セルギエンコを刺そうとしたブロンドの刺客。

「ボリス!」リュトヴィッツは叫んだ。

 一瞬のうちに、リュトヴィッツの脳裏にある光景がよみがえった。アブヴォードヌィ運河に近い鉄道の操車場に転がったババジャニヤンの遺体。監察医のコルサコフが「楽しみながら、切ったって感じだな」と言った。リュトヴィッツがとっさに身体を捻ると、ボリスのナイフがわずかに頬を掠めた。

 リュトヴィッツの動きに対応できず、ボリスはバランスを失った。リュトヴィッツはすかさず反撃し、ボリスの脾腹に左の拳を叩き込むと、右の拳で顎を下から打ち抜いた。ボリスは呻きを洩らしてよろめき、橋の欄干に寄りかかった。よろめきはしたものの、ナイフはまだその手に握られていた。リュトヴィッツはそのナイフをもぎ取りにかかった。ボリスはさっと逆手にナイフを持ち替え、今度はナイフがリュトヴィッツの右肘のすぐ上を捉え、背広のその下のシャツを切り裂いて血を滴らせた。

「かすり傷だ!」

 リュトヴィッツは相手に向かって怒鳴り、後ずさった。たしかに傷は負っていたが、深さは大したことはなかった。ボリスはナイフを右手に持ち替え、じりじりと前進した。

 ほんのわずかな一瞬、ボリスがぐらついた。リュトヴィッツはボリスに飛びかかって右手を払いのけ、欄干に叩きつけた。その顔に右の拳を叩き込もうとすると、ボリスは首を横に傾げ、簡単に拳をかわした。リュトヴィッツは繰り出した手でボリスの首を引き寄せ、一瞬にらみ合った後で、額に渾身の力を振り絞って頭突きを喰らわせた。

 凄まじい音が響いてボリスが後ろへよろめき、頭から血を流しながら橋の欄干にもたれかかった。もう一撃を食らわそうとしたとき、ボリスがコンクリートの欄干に登った。

「やめろ!」

 リュトヴィッツが叫んだと同時に、ボリスは欄干の上で身体を傾け、9メートル下のちらちらと輝く川へと落ちていった。水面を破ったとき、水晶のように水柱が立ち、強い流れがあっと言う間に鏡のような川面を取り戻した時には、ボリスの黒い影は消えていた。

 ホテルの正面玄関まで戻ると、ギレリスの周りに小さな人だかりができていた。

「逃がしたのか?」

 リュトヴィッツがうなづくと、ギレリスが盛大な舌打ちをした。

「ボリスは河に墜ちました」

「川に落ちたからといって、人間、死にはしない」民警の巡査部長に向かって言う。「船を出して、両岸を捜索させろ。どこか流れ着きそうな場所を徹底的に当たるんだ」

「セルギエンコは?」

 ギレリスが救急車を指差す。後部にセルギエンコが鼻と口から流れ出る血を必死に止めようと両腕で顔を覆って座っており、救急隊員が治療していた。リュトヴィッツも右腕を負傷した旨を告げ、包帯を巻いてもらった。その最中に、リュトヴィッツは気遣わしげに、ペトロフに聞いた。

「奴さん、大丈夫なのか?」

「大丈夫ですよ。ちょっと張り飛ばしてやっただけです」

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