[24]

 レストラン・チェーホフは24時間営業の薄暗く、狭苦しく、表のサドーヴァヤ通りから見えない店だった。バーやカフェがはねた後、邪悪で脛に傷持つ連中がボロボロに欠けたフォーマイカ張りのカウンターに陣取り、犯罪者、警官、マフィア、売春婦の誰彼について噂話をする。料理人の圧力鍋がぐらぐらと煮えたぎり、換気扇が歓声をあげる中、大型CDラジカセが大音量でベートーヴェンを流す店内は、秘密を心おきなく打ち明けることができる。

「いつものやつをくれ、ボルホフ師」

 当直勤務明けのリュトヴィッツは路地から店に入り、オーナーのボルホフに言った。

 店内にはヴァイオリンやチェロのケースの脇に置いた音楽家が松脂でてかっているカウンターに寄りかかってボルシチを染み込ませた黒パンを食べながら、次にどんな演奏をしようかと考えるような顔をしていた。

 シンフォニー・ホールはサドーヴァヤ通りからだいぶ離れたところにあったが、レストラン・チェーホフが出すボルシチは絶品の味で有名だった。この店のボルシチに惚れた者は夜だろうが、店が遠かろうが、フィンランド湾から冷たい強風が吹いていようがめげずにやってくる。

「黒パンは1つでいいんかね」ボルホフが聞いた。「2つか3つ、食べたほうがよさそうな顔だが」

 ボルホフはずんぐりした体格で髪は黒々しているが、もう70歳を超えている。若いころはボクサーとして、オリンピックにも出場したことがある。刺青を入れた丸太のような前腕と月面のようなあばた面でいかにも怒らせるとまずい相手に見えるが、琥珀色のつぶらな瞳は強面の印象を薄めている。いつも瞼を半分おろして伏し目にしている。

「リュドミラの具合はどうだ?」リュトヴィッツが言った。

 ボルホフは顔の鋳型に冷たい石膏を流し込んだ。

「ものが食べられない。もう、ボルシチも」

「それはいけないな」

 リュドミラというボルホフの子は、本当は女性ではない。ある事件でそのことが周知の事実となり、絶望したリュドミラは旧海軍省の屋上から身を投げたが、首の骨を折っただけで済み、寝たきり状態になってしまった。

 ボルホフがリュトヴィッツの情報提供者になった理由は金ではない。連続強姦魔からリュドミラを救った若き警官に対する感謝の念と羞恥心だった。

 リュトヴィッツの眼の前のカウンターに、ボルシチがなみなみ注がれた深皿と小山のような黒パンが置かれた。ボルシチをスプーンでひと口含む。リュトヴィッツは心底からじんわりとくるものがあり、思わず泣きそうになった。

「美味いよ」

「侮辱はやめてもらえるかな、刑事さん」

「すまない」

「美味いのは知ってるから」

「最高だ」

 ボルホフが熱いコーヒーをリュトヴィッツに手渡した。香りを嗅いだだけで、本物の豆を使っていることが分かる。

 そのうち、リュトヴィッツが腕時計に眼をやって「テレビ、つけてくれ」と言った。ボルホフがスイッチを押す。ギレリスが出演するニュース番組の再放送が始まった。番組が終わり、ボルホフはやれやれといった感じで言った。

「あれじゃあ、鬼刑事のギレリスが怒るのも納得だね」

 リュトヴィッツが黒パンを食べながら言った。

「ユスポフ・チェスクラブに出入りしていたカスパロフ、もしくはニコライという男について、何か聞いたことはないか?」

 ボルホフは両手を後ろに組んだ。

「この辺でも何度か見かけたね。おかしな男で、フランス語を少し話したよ。ドイツ語の歌なんかも歌ったり・・・それで、何かあったんで?まさか死んだとか?」

 リュトヴィッツはタレこみ屋からの問いには答えないことにしていた。沈黙の気まずさをごまかすため、何個目かの黒パンをひとつ手に取ってひと口かじった。

「誰かが彼を探してたよ」ボルホフは訛りこそあるが滑らかなロシア語で言った。「2、3か月前から。2人組の誰かが」

 リュトヴィッツは片眉を少し吊り上げた。

「あんたは自分でその2人を見たのか?」

 ボルホフは肩をすくめた。情報収集の方法は以前から、リュトヴィッツには秘密にしていた。

「誰かが見たんだ。おれかもしれない誰かが」

「その2人の特徴は?」

 ボルホフはその質問についてひとしきり考えた。何か哲学的な問題に頭を悩ませているような感じだ。楽しそうにすら見えた。

「どっちも若い男だよ」ボルホフは言った。「片方は脚に怪我をしてるみたいだ」

「服装とか、言葉の訛りとかは?」

「その2人のことを他人から聞いたんだとしたら、おれにそのことを話したやつは服とか訛りについちゃあ、何も言わなかった。おれが自分で見かけたんだとしたら、悪いけど、何にも覚えてないよ。どうしたんだい、刑事さん。なんで手帳に書かない?」

 リュトヴィッツはボルホフの情報を真面目に受けとめるふりをした。ようやく手帳を取り出して相手の気の済むように適当なことを書き、線を何本か引いた。

「で、その2人は何を聞いて回っていたんだ?」

「彼の居所」

「目当ての情報は手に入れたのか?」

「この店では手に入れてない。おれからもね」

 用件は済んだ。リュトヴィッツは腰を上げる。手帳を上着のポケットに戻して、会計を済ませた。入口に歩き出したが、ふとボルホフがリュトヴィッツの腕に手をかけた。

「なんで他に何も聞かないんだ、刑事さん」

「何を聞けというんだ?」リュトヴィッツは眉をひそめた。不審に思いながら、問いを向けてみた。「今日、何か聞いたのか?ひょっとして、ヴィシネフスキー事件のことか?」

「いや、それとは違う話。サカシュヴィリの親父さんの事件はまだ捜査中なの?」

 先代のグルジア・マフィアのボスであるヴィクトル・サカシュヴィリは3か月前、路上駐車していた車に仕掛けられた爆弾で殺害された。爆発の巻き添えを食らって、リュトヴィッツの妻エレーナも亡くなった。犯人はまだ捕まっていない。

「ボリスを見かけたやつがいるんだ」ボルホフは言った。

「どこで見かけたんだ?」

「アブヴォードヌィ運河に近い鉄道の操車場。あそこにこっそり出入りしてるのを誰かが見たんだ。物を運んで。プロパンの缶とか。空いた倉庫の中で暮らしてるのかもね」

「ありがとう、ボルホフ。調べてみるよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る