[23]

 この日の夜、リュトヴィッツに大屋敷の当直勤務が回ってきた。もう1人の当直をビールとピーナッツのおまけ付きで早々に当直室に押しやると、明かりを落とした刑事部屋で独りになった。

 時計の針が午後11時を過ぎる。リュトヴィッツは大屋敷の5階に上がった。今では保安省と名を変えたKGBのオフィスだった。

 廊下を歩きながら、リュトヴィッツは共産党が消滅した今でも、KGBは階下の自分たちと比べて、恵まれた労働環境を保持していると感じた。洗面所には、真新しいタオルに石鹸、トイレットペーパーがある。床は汚れた茶色のリノリウムではなく、厚い赤のカーペットに覆われており、どの部屋にもパソコン、ファックス、コピー機が備えられている。

 執務室の1つへ入る。サラエフが棚から本を下ろし、段ボール箱に詰めているところだった。しゃれた青いスーツを着て、大きな黒縁の眼鏡をかけている。

「何だ?」リュトヴィッツは言った。「もっといい部屋に引っ越すのか?」

 サラエフが眼鏡の奥で笑う。

「実はそうなんだ、サーシャ。ここを離れることにしたんだ」

「離れる?省のほうが手放してくれないだろう」

 リュトヴィッツの大学時代からの友人であるサラエフはKGBの少佐を務めていた。

「アメリカの合弁企業に声をかけられたんだ」はずんだ口調で言う。「ロシア全土にハンバーガー・レストランのチェーン店を展開しようとしてる。ぼくは採用の責任者」

「検死官のコルサコフが『なんでどいつもこいつもアメリカに住みたがるんだ?』って言ったな。『この国にいればうまくいかなかったとき、いつでも誰かのせいにできるじゃないか』って」

 サラエフが豪快な笑いを飛ばした。「違いない」

 リュトヴィッツはタバコに火をつけた。

「君はどうなんだ?」サラエフが言った。

「何が?」

「うちの会社の警備を引き受ける気はないか?君みたいな人がいると、心強い。肉の値段がここまで高騰すると、警備が最重要課題になってくるんだ」

「ああ、それはよく分かる。だが、君は本気で言ってるんだろ?」

「当たり前だろ。給料のことを考えてみろよ。ここに定年までいて、いくら貰えるようになる?月750ルーブルさ。合弁企業で、ぼくがいくら稼ぐと思う?」

「できれば、聞きたくないな」

「月3万ルーブル。40倍だ」

 リュトヴィッツは力なく微笑んだ。「炭鉱夫と同じか」つい最近、炭鉱労働者の賃上げストライキが決着し、月に3万ルーブル稼ぐ者が出てきた報道されたのだ。

「君ぐらいの業績があれば、3万なんて楽に稼げる」

「それだけの金を、何に使えばいいんだ?」

 リュトヴィッツは吸殻をゴミ箱に投げ捨てた。サラエフは心なしか声を低くした。

「そうだよなぁ・・・エレーナが死んだ今となってはね」少し鼻をすする。「たしか、殺されたヴィシネフスキーの奥さんはカテリーナだろ?四人でチェスを打ってたころが懐かしいなぁ」

 いまリュトヴィッツの脳裏に浮かんだのは、大学の敷地内に立つ大きなニレの木の下にレジャーシートを敷いて、その上で仲間とチェス興じる自分の姿だった。だいたいカテリーナとリュトヴィッツが対戦し、その様子をエレーナとサラエフが見ていた。

 部屋を覆った沈黙を破るように、リュトヴィッツは言った。

「ところで、ドミトリ・ヴィシネフスキーに関する情報は?」

 サラエフが床から別の段ボール箱を持ち上げ、机の上に載せる。

「テープ、速記録、個人ファイル・・・ご希望のもの全部、この中に入ってる」

 リュトヴィッツが箱の中をのぞき込んだ。

「なんで、彼の電話を盗聴しなくちゃならなかったんだ?今になって、わざわざ」

 サラエフが肩をすくめる。

「今になってというより、ずっと盗聴していて、誰も解除してこなかったと言う方が正しいだろう」

「今でも省内には、反ユダヤ主義者は多いのか?」

「情報機関だからといって、偏見や差別が多いとか少ないということはないよ。世間並みの割合で、そういう連中もいるんだろ」

「じゃあ、聞き方を変えよう。ヴィシネフスキーに対して、何か遺恨を抱えてる人間はいないのか?」

「殺すほどのか?いや、それはないと思うが」

「脅迫や嫌がらせの動機なら、どうだ?」

 しばらく、じっと考え込む。

「少なくとも、君の前で話すようなことじゃない」

 リュトヴィッツは首を振った。「じゃあ、ここだけの話にしよう」

「実は二課のある将校がヴィシネフスキーに、イギリス人ジャーナリストをスパイにさせようとしたことがあったらしい。たぶん、少しは脅しもかけただろう。それがここのやり方だからな。でも、君が想定してるほど酷いものじゃなかったと思う。いずれにしろ、彼らはすでに戦列を離れてる。その将校も2人のジャーナリストも」

 サラエフは新品のしゃれた豚革のブリーフケースを取り、中から「アガニョーク」誌を出した。表紙にヴィシネフスキーの写真が載っている。

「この省にも、ヴィシネフスキーをあがめている人間はたくさんいる。ぼくを含めて」

「だが、お前はいなくなる」

「KGBの半分が、新しい職を求めているんだ」自己弁護するような口調だった。「今のこの国を動かしてるのは、政治力学じゃなくて、国際通貨基金なんだから」

「そっちについては、お前のほうがよく知ってる」リュトヴィッツはヴィシネフスキーの情報が詰まった箱を持ち上げ、戸口へ向かった。「あ、そうだ・・・我らが鬼刑事ギレリスから連絡はなかったか?」

「グルジア・マフィアのことかい?七課に話を通して、監視体制を取ってもらってる。だから、どっしり構えてもらって大丈夫」

「懲役施設管理委員会からは?」

「ああ、マナガロフって人から連絡があった。ハッキリとしたことは言えんが、どうやらうちの省の誰かが委員会に手を回したようだ」

「その誰かさんの名は?」

 サラエフが首を横に振る。リュトヴィッツはうなづいた。

「恩に着るよ。そして、ハンバーガーの健闘を祈る」

「君もな」

 サラエフは淡い笑みを口元にたたえた。

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