[21]

 レストラン・トルストイの調理場で、リュトヴィッツとペトロフは支配人のモロゾフと向かい合っていた。汚れたソースパンや洗っていない皿がそこら中に転がり、油のこびりついたリノリウムの床に野菜の箱が重ねられ、その横に悪臭を放つゴミの袋が口を開いたまま置かれていた。

「わかってください」モロゾフはごくんとつばを飲んだ。「わたしの口からは何も言えません」

「何か言ってくれと頼んだ覚えはないぞ、モロゾフ」リュトヴィッツは言った。「はっきりしていることは、おれもペトロフもこれだけの量の肉を初めて見たということだ。まず、この肉の出所からはっきりさせようじゃないか?」

 リュトヴィッツは聖人の遺品でも拝むようにうやうやしく、冷凍庫の中に置かれた切りかけの冷凍牛肉の塊に触れる。大きな冷凍庫の中は、肉の入ったカートンが天井近くまで積み上がっていた。

「ねぇ刑事さん、私には家族がいるんですよ」モロゾフの声が震える。

「肉の供給元によっては、正式な捜査が行われることになりますよ」ペトロフが言った。

「・・・あれは正規の卸売業者から合法的に買った物です」

「業者の名前は?」リュトヴィッツは言った。

「・・・言えませんし、明かすつもりはありません」

 リュトヴィッツは身を乗り出した。

「なぁモロゾフ、利口になろうじゃないか。あくまで白を切るつもりなら、あの肉が国営食肉市場から盗まれた物かどうか調べさせてもらう。もし盗品だったら、きさまはブタ箱行きだ」

 リュトヴィッツの脅しに対し、モロゾフは肩をすくめただけだった。

 実りのない聴取を終えてペトロフとレストランを出ようとした時、リュトヴィッツはレジ近くのテーブルに眼が向いた。

 1人の老人が背を丸めてコーヒーを飲んでいた。コーヒーは香りからして、代用品のようだった。禿げ頭に糸くずのような白髪がしょぼしょぼとりまいている。リュトヴィッツは老人の顔立ちにどこか見覚えがあった。その窪んだこめかみと骨ばった鼻梁。服に縫い付けてある勲章。父のチェス仲間の1人だった。

「アルヴィドさん」リュトヴィッツは声をかけた。耳が遠いようなので、もう少し大きな声で言った。「アルヴィドさん」

 老人は怪訝そうに細めた眼をあげた。アルヴィド・ヤンソンスはその昔、レニングラード防衛戦でドイツ軍と闘った歴戦の兵士であり、グレゴリー・リュトヴィッツの通信チェスの好敵手だった。

 アルヴィドはいら立ったように手を振り、手招きをした。胸のポケットから黒い表紙のはぎとり式メモ帳と太い万年筆を出す。大きな万年筆でメモ帳に何か書き込む間、大きな鼻からは苦しげな息がほとばしり出る。いまや万年筆のペン先が声のかわりなのだろう。老人はメモ帳を差し出した。字はしっかりとして明瞭だった。

『アンタはわしの知り合いか?』

 アルヴィドの眼つきがにわかに鋭くなった。首を傾け、リュトヴィッツを上下に見た。知っているのだが、誰だがわからないといった表情を浮かべた。老人はメモ帳を取り戻し、先ほどの文章に一語加えた。

『あんたはわしの知り合いか、刑事さん』

「アレクサンドル・リュトヴィッツですよ」リュトヴィッツは老人に名刺を渡した。「父をご存じだったでしょう。私もときどき一緒にいました。ユスポフがまだホテルだった頃の話ですが」

 縁の赤い眼が大きく見開かれた。驚きと嫌悪が混じる表情で、アルヴィドはリュトヴィッツの顔をまじまじと見る。それからメモ帳の紙を1枚めくり、再び何かを書きつけた。

『まさか、あのサーシャがこんなくたびれた中年男であるはずがない』

「でも、残念ながらそうなんです」

『こんなところで何を?』

「ある事件の捜査で。ところで、アルヴィドさんは今でもユスポフのクラブには行かれるんですか?」

『もちろん。せがれと一緒に、1週間前も行ったよ』

「ご存じないですかね。ユスポフのクラブに出入りしていた男で、たぶんニコライと呼ばれていたんですが」

『知っているよ。何かやってのかね?』

「その男のことはどの程度、よく知っていますか?」

『ありがたいことに、よくは知らない』

「どこに住んでいるか知っていますか。最近、会ったことは?」

『何か月も前のことだ。まさか、君は殺人課の刑事では?』

「それも」リュトヴィッツは言った。「残念ながら、そのとおりです」

 アルヴィドは瞬きをした。今の答えにショックを受けたり、気落ちしたりしたのだとしても、それは表情や態度のどこにも読み取れなかった。

『薬の過剰摂取か?』

「銃で撃たれていました」

 そのとき、レストランのドアがきしりながら開き、1人の男が入ってきた。アルヴィドは口を開けたが、言葉を呑み込んでしまうような話し方で、喉の機能が不完全なために、その声は幽霊の囁きのようだった。その声が途切れてから少し間をおいて、リュトヴィッツはアルヴィドが「せがれだ」と言ったのに気付いた。

 アルヴィドの息子が2人のいるテーブルに近づいてきた。

「すいません、お父さん。また遅れちゃって・・・って、刑事さんがなんで、父さんと一緒にいるんですか」

「こっちこそ、奇遇だったな」リュトヴィッツは言った。

 アルヴィドの息子はロージャだった。数日前、ユスポフ・チェスクラブでカスパロフの聞き込みを行った際、《骸骨》と対戦していた相手だった。

 アルヴィドはリュトヴィッツの名刺とメモ帳をロージャに手渡した。

『この人は、わしの古い友人の息子さんじゃ』

 ロージャは不快そうに顔をしかめた。

「父さんとどういう関係だが知らないが、もう帰ってもらえますか。父はあのヤク中のことは何も知らないし、家族に迷惑をかけるのはやめてほしいですね」

 ロージャの気迫に、リュトヴィッツは思わず気圧されるかたちとなり、アルヴィドの骨と皮ばかりの手をほんの短いあいだ握る。

「それじゃこれで、アルヴィドさん。もう少しお話を伺いたいときの連絡方法を教えてもらえますか?」

 アルヴィドはメモ帳に住所を書いて、その紙をはぎ取った。

「アルゼンチンですか」リュトヴィッツはアルゼンチンの首都にある、どんなところか想像もつかない通りの名を読んだ。「こういうのは初めて聞きましたよ」

「お父さん、もういいでしょう」ロージャがいら立った声を上げた。

「出発はいつですか?」リュトヴィッツは言った。

「来週ですよ。さぁ、父さん、もう行きましょう」

 アルヴィドはまた幽霊のような声を出したが、誰にも理解できなかった。そこでメモ帳に書き込んで、それをリュトヴィッツの方へ滑らせた。

『人は計画を立てる。そして、神はお笑いになる』

 ロージャから逃げるようにして表に出る。リュトヴィッツは掌のメモをよく観察した。紙に強い筆圧で押しつけられたような痕が残っている。リュトヴィッツは背広から鉛筆を取り出し、その痕の周りを薄く汚してみた。黒地に押しつけられた痕が白く浮かび上がった。

『ニコライをユスポフに連れてきたのは、セミョーノフとかいう救世主のポン引き。スモリヌイ聖堂の近くに住んでいる』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る