02:吐血する休憩時間

 ゴールデンウィーク直前の週末、金曜日。

 六時間目と七時間目の間の、短い休憩時間のときだった。

「湖城。ちょっと職員室に来て」

 フランクな口調とはいえ、古文担当の男性教師から突然、呼び出しを受ければ誰だって身構える。あやめだってそうする。

 何かやってしまっただろうかと、自分自身の行いを思い出す。

 居眠りの常習犯として色んな教師に目をつけられている斜め前の席の女子とは違い、あやめはどんな授業であろうと居眠りをしたことはない。

 睡魔にはシャーペンを手のひらに突き刺してでも抗った。

 遅刻をしたことも、勿論授業をサボタージュしたこともない。

 提出課題はきちんと期限を守ってきたし、授業態度も至って真面目。

 となれば、彼がわざわざ自分を名指しした理由は何なのか。

 まさか昨日、米を買った帰り道で偶然出会ったから、そのときの話題をネタに職員室で和やかに話そうというわけでもないだろう。

 雑談なら教室か廊下ですればいい。

 人より胆力はあるつもりだが、大勢の教師の好奇の目に晒されるのはやはり勘弁願いたい。あやめは教師の間でも有名なのだ。

 呼び出されるような用件といえば、思い当たるのは一つだけ。

 この男性教師は複数の女子にセクハラをし、懲戒免職処分を受けた教師の後任だ。

 しかし、あやめが彼に豪快な回し蹴りを見舞ったのは一年も前のことである。

 いまさらその件を掘り返すのだろうか。

 懲戒免職された元男性教師が何か言ってきたのだろうか?

(もしそうだとしても、被害に遭っていた女子からは大いに感謝されたし、担任の小野寺先生だって『回し蹴りはやりすぎだな』なんて皆の前では苦笑しつつも、二人きりになったときはこっそり褒めてくれたではないか)

 階段を下り、廊下を歩き、職員室の前で立ち止まる。

 職員室の扉は閉まっていた。複数の教師が話している声が聞こえてくる。

 短い休憩時間中に雑談に興じるのは、教師も生徒も一緒らしい。

(反射的に蹴ってしまったことは反省している。しかしそれについては既に謝罪を済ませた。よって、恥じることなど何一つない。いまさら何を言われようと、私は屈しない!)

 決戦に挑む武士のような心境で、ぐっと奥歯を噛み締める。

「失礼します!」

 あやめは一声かけて、扉を引き開けた。



 蓋を開けてみればなんのことはなく、教師が頼んできたのはクラス全員分のノートの返却だった。

「……どうしてわざわざ私を名指ししたんですか?」

 どうにも腑に落ちず、教師の机に積まれているノートの山を見て、あやめは聞いた。

 一冊は軽いとはいえ、三十冊ともなればそれなりの重量になる。

 普通、力仕事は男子に任せるのがセオリーではないだろうか。

 すると、教師はにやりと笑った。

「いやあ、昨日の勇姿が忘れられなくてね。湖城ならこれくらい余裕だろう」

 教師はぽんぽん、とノートの山を叩いた。

 どうやら教師は三十キロの米を肩に担いで平然と歩く様を見て感銘を受け、あやめを抜擢することにしたらしい。

「そうですか……」

 勢い込んできた分、激しい徒労感を覚えた。セクハラ教師のことは全く関係なかったようだ。

 気を取り直して、顎を引く。

「わかりました。返却しておきます」

「おう。ありがとう。気をつけてな」

「はい」

 両手でノートを抱えると、気を利かせた別の職員が扉の開閉を担当してくれた。

 ありがとうございます、と感謝を述べつつ、職員室を後にする。

 あやめのクラスは三階にある。

 階段を上っていると、何やら上からけたたましい足音が聞こえた。

 誰かが駆け下りてくる。

 視線を上げて見れば、斜め上、踊り場より先に姿を現したのは小柄な――といっても、あやめに比べれば女子は皆小さい――少女だった。

 ふわふわしたセミロングの髪、顎にはほくろ。

 肩に下げた学校指定の鞄には二つのキーホルダーが揺れている。

 ハートに花と、いかにも女子が好きそうなラインナップだ。

 帰り支度を済ませていることからしても、一年女子だろう。

 金曜日、一年は二年よりも授業数が一コマ少ないのだ。

 誰かと待ち合わせでもあるのか、少女は切羽詰まったような顔をしていた。

 踊り場では手すりを掴んで遠心力を打ち消し、あやめがいる地点まで転がるように降りて来て、

 目の前でその足が滑った。

 とっさにあやめは両手に持っていたノートを片手に持ち替え、右の手のひらだけで支えた。

 空いた左手でがしっ――と、小脇に抱えるようにして、体勢を崩した少女の身体を抱きとめる。

 抱きとめた衝撃でノートが落ちそうになり、あやめは揺れに合わせて右手を振ることでなんとか均衡を保った。素晴らしいバランス感覚である。

「大丈夫か?」

「えっ、あっ、はい! すみません!」

 青い顔で固まっていた少女は、慌てて体勢を立て直し、しっかりと自らの足で階段を踏みしめた。

 あやめも手を離し、再びノートを両手で抱えた。

「随分と急いでいたようだが、危ないだろう。女の子が顔に怪我でもしたらどうする。以後気をつけるように」

「はい、本当にすみません、湖城先輩。ご迷惑をおかけしました」

 ぺこっと少女は軽く会釈してきた。

「何故私の名を?」

「そりゃあ、先輩は有名人ですから。知らない人なんていませんよ」

 少女は人懐っこい笑みを浮かべた。

「そうか……」

 学年の違う一年生にまで名が知れ渡っているというのは複雑な気分だった。

 彼女が聞いた噂に尾ひれがついてないことを祈るしかない。

 中にはあやめが小学生のときに野生の熊を素手で倒した、などという荒唐無稽な話を本気で信じている生徒までいるのだ。

 弁解しておくが、あやめは普段きちんと自分を律している。力をひけらかすような真似をしたこともない。

 過剰な暴力のイメージが独り歩きしている現実は、非常に不本意だった。

「ところで、何をそんなに急いでいたんだ?」

「あ、その……彼氏とデートの待ち合わせをしてまして」

 ピュアな恋する乙女全開の表情になり、はにかみながら口元に手を当てる少女。

 ごふっ!

 大きなダメージを喰らい、あやめは心の中で血を吐いた。

「付き合ってまだ一週間なんです。もうヨシ君といると幸せでー本当に毎日がバラ色っていうかー」

「そ、そうか……」

 でれでれと頬を緩めながら、頼んでもいないのに、いかにヨシ君が素晴らしいかを語り始める少女。

 彼女の周囲のピンク色の空気にあてられて、頭がくらくらしてきた。

(いかん、しっかりしろ、あやめ! たとえ彼氏いない歴=年齢であろうと、彼氏がいるから偉いというわけではないぞ! 私は彼女より一年年上だし――いや、ご老人は敬うべきだとは思うが、一歳差くらいどうということはないか……ええと、ならば――そう、学生の本分は勉強だ! 大丈夫! 私はそこそこ優秀だ! 多分数学以外の教科なら彼女にも勝っている!)

 でも、何故だろう。

 どれだけ言葉を並べ立てて自分を鼓舞してみたところで、敗北感が肩に重くのしかかってくるのは。

「――ヨシ君は優しくて頼りになる人なんです。私を好きだっていうことをちゃんと態度にも出してくれて、デート中はいっつも手を繋いでくれて、通りを歩くときはさりげなく車道側に移動してくれて、私を守ってくれてるんですよ。なんかぁ、愛されてるっていうかぁ――」

 ……ピンク色の空気が全力で自分を殺しにかかってくる。

 この後、彼女は最愛のヨシ君と手を繋ぎながらキャッキャウフフとはしゃいでみたり喫茶店で「はいあーん」とかしてみたり浜辺で「つかまえて御覧なさーい」「待てぇこいつぅ」とかやってみたりするのだろうか。いや、いまは四月で海の時期ではないが。

(べ、別に負けてるわけでは……負けてるわけでは……!)

「――ヨシ君は別の高校に行っちゃったんですけどぉ、一週間前の土曜日の夜にいきなり呼び出されてぇ、離れてみてやっとわかったんだ、俺お前のことが好きだって言ってくれてぇ――」

 ついさっき出会ったばかりの年下から砂を吐きたくなるような甘い青春メモリーを聞かされ続け、あやめはがたがたと震え始めた。

 大量の汗が全身を濡らしていく。

 もう心はキャパシティーオーバーで崩壊寸前。

 絵に描いたようなリア充少女に「もう勘弁してください」と土下座したくなってきた。

「え、ええと、興味深い話を遮って悪いが、待ち合わせをしているんだろう? そろそろ行ったほうがいいんじゃないか?」

 あやめはどうにか笑顔を作成し、退場を促した。

 これ以上は耐えられそうにない。

 陽に当たった吸血鬼の如く、廊下の窓から入り込む風に吹き散らかされ、灰と化してしまいそうだ。

「あ、いけない、行かないと! 他人の恋愛話なんてつまらなかったですよね、すみません!」

 少女は手を合わせてみせた後、ふと目を瞬き、あたかも思いついたようなそぶりで――

「そういえば、湖城先輩って彼氏いるんですか?」

 あやめを見上げ、核爆弾級の攻撃を繰りだしてきた。

 きらきらと輝く瞳には悪意もなく、無垢そのもので、それゆえに、あやめの心を容赦なく貫通した。

 ごはぁっ!!!

 あやめは胸中で盛大に吐血した。

「え、ええと……いや、いない」

 ノートの山を抱きかかえるようにして、ゆっくりと目を逸らす。

「そうなんですかぁ。まあ、そうですよね。湖城先輩は彼氏なんていらないですよね!」

「え?」

 あやめは逸らしていた目の焦点を、再び少女に当てた。

 少女は笑顔で軽く手を振ってきた。

 なんとなく連想したのは、井戸端会議中の主婦の「やだ奥さん」という仕草。

「先輩は逞しい方ですし、一人でだって十分生きていけるじゃないですか。軟弱な彼氏なんて邪魔なだけでしょう? 痴漢に襲われたって一撃で仕留められそうですし、先輩に釣り合うような強い男なんていないでしょう。うちのクラスの男子も『メスゴリラ』なんて呼ん――」

 そこで失言に気づいたらしく、少女ははっとしたように両手で口を塞いだ。

 押し黙っているあやめをどう取ったのか、あたふたと視線をあちこちに転じる。

「……あ、ええと、すみません、いまの発言は忘れてください。それじゃっ、本当にすみません、ありがとうございましたぁ!」

 報復を恐れたのか、ぺこぺこと頭を下げ、ダッシュで少女は逃げて行った。

 階段を駆け下りていく足音。

 急ぐとまた足を踏み外すぞ、とアドバイスをする余裕はなかった。

(……一年男子までも私のことを『メスゴリラ』と呼んでいるのか……)

 無論、一年男子全員がそう呼んでいるわけではないだろう。

 あくまで一部の男子だ。そうだと思いたい。

 でも――たとえ一部の男子であろうと、顔も知らない人間から陰口を叩かれている、という事実は少々堪える。

(……ふ。いまさらだ。中学のときだって似たような陰口を聞いたことはあるし、問題ない。別に何も気にしてない)

 両手に抱えたノートの重さが倍増したような気がする。

(あの子の言った通り、彼氏なんていなくても、私は一人で生きて行けるさ……少女漫画みたいな恋愛なんて、私には縁遠いものだろうし……キャッキャウフフとか、あーんとか、別に、ちっとも羨ましくなんか……)

 あやめは重いノートを抱えて、よろよろと階段を上って行った。

 普段あやめが凛と背筋を伸ばして歩くことを知っている通りすがりの生徒が、老婆のように腰を曲げている現状を見て、不思議そうな顔をしていた。

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