第3話 回復
日もとっぷりと暮れた夜。男は目を覚ました。随分と長時間眠っていた感覚だった。
見慣れない天井。天井に写る、チラチラと揺れる何かの影。嗅ぎ為れないにおい。自分はどうやら何処かの室内で寝かされているようだ。
「ご気分は如何ですかな。旅の方」
瞬きを繰り返し、きょろきょろと視線をさ迷わせていると、頭の上の方から聞き慣れない声がする。身を起こそうとして体を動かすが、筋肉痛のような凄まじい痛みを感じ、男はその場で脱力した。
「ほっほっほ。まだ動かん方がよろしい」
「う……っ、貴方が助けて下さったのですか」
老人の嗄れた声。やがて男の視界に予想通りの老人の姿が目に入ってくる。
鬱蒼とした髪の毛や眉毛、髭で顔の隠れた白髪の老人は、男の傍らに腰を下ろした。老人は緩慢な動作で、男の枕元に何かを差し出す。縁の一部分が尖った小さな器に入っているのは、独特な香りの漂う白い液体だ。
「家畜の乳で作った酒ですが、飲めますかな?」
老人に体を支えて貰い、なんとか上半身を起こす。男は改めて部屋を見渡した。どうやらここは、遊牧民のテントの中らしい。適度な広さの円形の部屋の端に、生活に必要そうな物が塊になって置かれてあるようだ。
器を手に取り、液体をじいっと見つめること数秒。男は迷っていた。行き倒れていた自分をわざわざ助けてくれたのだ。悪人ではなさそうだが、老人の事をこのまま素直に信じてはいけない理由が男にはあった。
男の鼻先では、芳醇な甘い香りが漂う。食欲をそそるその香り。カラカラに渇いた喉は、潤いを欲していた。男はフウと息を吐くと、唇を付けて一気に器を傾けた。
が。
「……っ!!」
口内を麻痺させるような強い刺激。もっと穏やかな味を予想していたのだが、相当強い酒らしい。喉が焼けつくように熱くなり、男はたちまち噎せてしまった。傍らでその様子を眺めていた老人は、空になった器を受け取りながら笑う。真っ赤な顔の男は、未だにゴホゴホと咳をしている。
「秘伝の薬酒ですじゃ。これを飲んで眠れば、明日には元気になりますじゃろうて」
「ッコホ、ありがとうございます」
「さあ、また横になるとよろしい」
男は再びその場に身を横たえた。ぐるぐると包帯だらけの体。胸元を手で触れ、ここにも包帯が巻いてある事に気付くと、男は微かに目を見開いた。視線を伏せ、唇を噛む。
老人は既に男から離れ、こちらに背を向けて何かの作業をしているところだった。
「……ご老人、俺が何者なのか聞かないのですか」
小さな声。ぽつりと呟いた言葉。老人はしばらく背を向けたまま何かをしていた。聞こえていなかったかと思っていたが、再び男の傍らに腰を下ろした時にようやく口を開いた。
「根掘り葉掘り聞くことはせん。これも何かのお導きかもしれん。お主と、我が孫娘の」
「……孫娘?」
寝ながら辺りを確認してみると、丁度対角線上の部屋の隅で、こんもりと丸い塊が見えた。目を細めて注視すると、それがどうやら背中らしい事が分かる。寝入っているようで、ピクリとも動かない。
「少し調子が悪くての。なに、明日になれば元気になりますじゃろうて」
老人の話によると、川辺で男を見付けたのは娘らしい。たまたま連れていた飼い犬が老人に異変を知らせ、老人が川辺に辿り着いた時にはもう気を失っていたと言う。
娘の背中をじっと見ていると、視線を遮るように老人が何かを置いた。男は少しだけ目を見開く。それは、男が愛用している眼鏡だ。
「犬がくわえておった。お前さんので間違いないかの?」
「はい、助かりました。これがないと、正直何も見えませんでした」
手を伸ばして眼鏡を掴むと、男は慣れた動作で眼鏡をかけた。一気にクリアになる視界。安堵感を覚えた男は、初めて肩の力を抜いた。
それを見た老人は少しだけ表情を緩めると、モソモソと動いて男の隣で横になる。そのまま灯りが落とされ、辺りは暗闇に包まれた。
「何かあれば、遠慮なく呼んでくだされ」
老人はそう言うと、さっさと寝に入ってしまう。男はしばらく息を詰めていたが、ゆっくりと鼻から吐き出して肩の力を抜いていった。
男は改めて自分の体に巻かれた包帯を触る。よくあの怪我で持ちこたえたものだと思った。意識が途切れる前は、もう流石に駄目かと思っていた。大した手当てもせずずっと足を動かしていたので、怪我の程度は相当酷かった。
男は、逃げていた。とある事情があった。目的を達するまでは、絶対に死ねなかった。
だからこそ、助けてくれたこの老人には感謝してもしきれない。
(それと……)
暗闇の中で、部屋の隅へ視線を移す。目が慣れてきたので、明るかった時に見たこんもりとした塊がうっすら見えた。
(導き……か)
男は目を閉じる。暗闇に意識を手放すのは、そう時間がかからなかった。
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