第25話 手紙

 あれから数日が過ぎた。桜はまだ、一人結界の中にいた。深海のいなくなった結界の中に留まる理由などない。しかし、何もかもに見捨てられたと思っている桜にとって、もう一度、元の世界に戻ることは恐怖でしかなかった。


 自室でぼんやりと目覚め、腹が減れば、クッキーやクラッカーを適当に食べた。椅子に座って、天井を見上げるか、ベットに横たわって部屋を眺めるかくらいしかすることはない。他に何かをしようという気が、一切起きなかったからだ。


 しかし、数日間、そんなふうに過ごしていると、流石に辛くなってくる。ある朝、桜は久しぶりに外に出てみることにした。午前7時。玄関を出ると、庭にある噴水のところまで歩いていく。暖かな日差しが庭の草木に降り注いでいる。まだ日差しが暑いという程ではない。丁度いい気温である。噴水があるおかげで涼しいくらいだ。空は碧く澄んでいる。その碧は何処までも広がり、地平線は果てしなく遠かった。


(気持ちいい……)


 桜は数日ぶりに、肩の力が少し抜けたような気がした。自分を覆っていた、分厚く、どんよりとした空気が、少しだけ溶けて消えてしまったような気がした。


(空ってこんなに高かったんだ……)


 部屋の中で窒息しそうな日々を過ごした桜にとって、それはちょっとした驚きだった。桜の気分なんてまるで関係ないかのように、見上げた空は綺麗に晴れ渡っている。だだっ広い空には、誰もいない海辺で一人で遊んでいる子供みたいな小さな雲が、ぽつりぽつりと浮かんでいた。桜は静かに深呼吸する。丁度その時、一陣の風が桜の髪を優しく撫でた。


 あっという声が、思わず口を突いて出た。私は閉じ込められているわけじゃないんだ。私は何処へでも行けるんだ。澄み渡った空を眺めていて、不意に桜はそう思った。


 別に誰かに束縛されているわけじゃない。私が歩き出せば、私は何処へでもいける。桜がそう思った時、最初に浮かんだのは、やはり深海の顔だった。


 深海君に会いに行こう。今度は結界の中じゃなくて、外の世界で。そして、会って謝ろう。私の勝手で結界に閉じ込めてしまったことを。それが深海に対して、自分が通すべき筋だと、桜は思った。


 もちろん、それと同時に不安もよぎる。深海はもう自分に会いたくないかもしれない。自分のことを嫌っているかもしれない、と。しかし、それでもなお、桜はそうしなければならない気がした。せめて自分が好きになった人には、誠実でありたい。そう思った。


 桜は部屋に戻るとシャワーを浴びた。そして入念に髪をとかして身だしなみを整える。鏡の前で背筋をピンと伸ばしてみる。少し前まで、濁った眼で中空を見つめていたその顔に、少しだけ生気が戻っている気がした。



 桜は出かける前に、深海が使っていた部屋に寄ることにした。部屋のドアを開けると、そこは深海が来る前と何ら変わりがないくらい、綺麗に片付けられている。しかし、部屋の中には、まだ深海の匂いが少し残っていた。深海が部屋を出て行ったのは、ほんの数日前なのに、桜にはその匂いが、とても遠い記憶の、懐かしいもののように思えた。


 桜は部屋の中をゆっくりと見渡す。深海の面影を探すように。ここには確かに深海がいたのだ。深海の残した残り香を拾い集めるように、桜は部屋の中を静かに歩いた。そうしているうちに、深海が使っていた机に目が留まる。机の上には一通の手紙がそっと置かれていた。桜は恐る恐る手紙を手に取る。そこには、短い文章でこんなことが書かれていた。


「今度会う時は、鳥籠の外で。桜、君を待っているよ。 深海優一」


 桜の眼がしらが急に熱くなった。ドクン、と胸の鼓動が鳴り響く。手紙にぽたりと雫が落ちた。


「君を待っているよ」


 その言葉が温かい波になって、ゆっくりと桜の体の中に広がった。ドクン。もう私のことなんか誰も必要としていないし、誰も私がいることを認めてくれない、そう思っていた。ドクン。でも、それは違った。ドクン。ちゃんと私を待っていてくれる人がいるんだ。ドクン。私が存在していることを、ちゃんと認めてくれる人がいるんだ。ドクン。そう思った瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出た。桜は声を出して泣いた。恥ずかしさも、照れもなく、桜は一人でワンワン泣いた。顔は涙でぐしゃぐしゃだ。


 世界がふわっと明るくなった気がした。深海の懐かしい匂いが、優しく桜を包む。それはまるで、桜を励ますように。桜を覆っていたどんよりとした空気は、今やどこにもない。桜は手紙を胸にぎゅっと抱く。深海の体温が伝わってくるような気がした。桜は強く強く思った。


――私は、独りじゃないんだ。

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