米は食えっ!

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第1話:米と出会えっ!

 命が惜しければ米には関わるな。それが大好きだったじいちゃんが最期に残した言葉。何故そんな当たり前のことを言うのだろうと思っていた時期もあるが、近年における米犯罪の増加傾向を考えると先見性のある忠告だったのかもしれない。

 僕はじいちゃんの言葉を胸に刻んで今日まで平穏無事に暮らしてきた。だっていうのに、不幸にも僕は米に出会ってしまった。


 「どこに行きやがった、あのガキっ!」

 夕方前にも関わらず薄暗く人気のない裏路地にドスの利いた声が響いた。声の主が探しているのは僕だ。

 建築関連の法律や規制を無視して立ち並ぶ雑居ビルの合間。横道の物陰に隠れた僕は、全力で走った所為で乱れた息を必死に整えている。荒くなった呼吸音が漏れないようにと片手で鼻と口を覆ったまま深呼吸すると、口の中に鉄の味が広がった。

 空いている方の手で学生服のポケットから携帯電話を取り出すと、震える手でカメラアプリを起動する。細心の注意を払って携帯電話を物陰から少しだけ出すと、ディスプレイに柄の悪い男が映った。スーツを着た知的なゴリラとしか形容できない男が、血走らせた目をぎょろつかせている。ポリバケツやゴミ袋を蹴り飛ばし、シラミ潰しに僕を探しているようだ。ゴリラが低く唸ってから、周囲に聞こえるように声を上げる。

 「よく聞け、ガキ。この道の先には行き止まりしかない。もうお前は逃げられねぇ」

 見せつけるようにゴリラが両手を上げる。その手には拳銃と片手サイズの米袋が握られている。

 「いま出てくれば、この銃で痛みを感じる間もなくあの世に送ってやる。だがな、このまま隠れ続けて私の手を煩わせるなら……覚悟するウホッ!」

 今すごくゴリラっぽかった気がするが、そんなことはどうでもよかった。ゴリラの両手に目を奪われてしまう。銃と米。僕が運悪く目撃してしまった闇取引で取り扱われていた物品。ドラマや映画で国家転覆を狙う凶悪犯が持ち合わせるような組み合わせに、僕の全身を伝う汗が冷たくなった。どうする? どうすればいい? このままじゃ僕は……。ディスプレイの中のゴリラを見つめながら必死に頭を回転させると、ふと自分が見つめている携帯電話の本来の使い方を思い出す。そうだ、警察に助けを――。

 ブゥゥーン。ブゥゥーン。不意に携帯電話が震えだした。こんな時に着信!? 慌てて携帯電話を持つ手を引いて振動を停止させる。ディスプレイには「当選確定! このメールが届いた貴方はラッキー♪」の文字が映し出されていた。携帯電話を地面に叩き付けたくなる衝動をぐっとこらえて、ポケットに携帯電話をねじ込む。

 先ほどの振動音でゴリラに気づかれてしまっただろうか? 早鐘のように心臓が鳴る。カラカラに乾いた喉を唾で潤す。僕は無信仰で無信心だけれど、今は神様に祈らずにはいられない。神様、どうか僕を助けてください……。

 しかし、現実は無常だった。コツコツと革靴の音が近づく。伸びたゴリラの影が曲がり角から顔を覗かせる。

 身体中から血の気が失せるのを感じる。これから自分の身に起こるだろう惨劇が頭をよぎり、震えが止まらなくなる。

 僕が恐怖でその場に座り込みそうになった時、不意に僕の隣を何かが通り過ぎていった。1匹の黒猫だ。物陰から飛び出した猫は、片法の前足を上げたままゴリラのいるであろう方向を見上げる。

 「ゴリ? なんだ、猫ウホか」

 ゴリラが舌打ちをして歩みを止めた。身体の奥から湧き上がる安堵の息を必死に飲み込む。緊張が和らいだ所為で力が抜けそうになる足に力をこめる。猫のおかげで首の皮一枚が繋がったとはいえ、あまり余裕のある状況ではない。僕は振り返って辺りを囲む薄汚れたビルの壁を見渡す。眼前には鼠一匹が通る隙間すらない行き止まり。でも、何処からともなく猫は現れた。だとすれば――あった。見上げる先には開け放たれた窓。人の気配がないビルの2階。いや、2階と3階の間の踊り場かもしれない。先ほどの猫はあの窓からやってきたのだろう。高さはあるが、投棄された粗大ゴミや壁の凹凸を伝えば辿りつけそうだ。絶体絶命の中に現れた一筋の希望。さっそく窓を目指して粗大ゴミに足をかけた。

 ふと不穏な空気を感じる。視線を向けると黒猫が先ほどと変わらぬ場所にいた。低くした姿勢で見上げる先にゴリラはいるのだろう。不意にゴリラの苛立たしそうな声が響く。

 「おい、猫。せっかくガキの代わりに出てきてくれたんだ。お前にも銃弾をプレゼントしてやるウホ」

 ……おいおい、待て待て、くそゴリラ。まさか撃つつもりなのか? いや、そんなはずない。銃声が響けば人が集まる。それはゴリラの望まない展開のはずだ。そうか、これはきっと僕を誘き出すためのブラフに違いない。霊長目ヒト科ゴリラ属のくせに銃器ふりかざしてんじゃねぇ、などと叫んで飛び出したらゴリラの思うつぼになる。そう考えると少しだけ気分が落ち着く。大丈夫、きっと撃たない。猫だって何もせずにただ撃たれる訳がないじゃないか。きっと撃たれる前に走って逃げる。僕が見ず知らずの猫の心配をする必要なんて無いんだ。

 僕が顔を上げると錆びついた窓枠が見えた。かろうじて見つけることができた生き残る道。あと一歩で辿り着けるその場所は、命の危機を感じることなんてないいつも通りの日常に繋がっているはずだ。横目で黒猫を確認した後、頭の中から得も知れぬ不安を振り払って窓枠へ手を伸ばした。

 「それじゃ、死ぬウホッ」

 「霊長目ヒト科ゴリラ属のくせに銃器ふりかざしてんじゃねぇ!!」

 僕は足場から飛び降りた勢いのまま全力で飛び出す。伸ばした両手で猫を抱き寄せ、前に宙返りするように身体を捻った。

 その直後、轟音と衝撃が僕に襲い掛かり、世界が暗転した。

 ……いったい何が起こったんだ? 視界がとても暗い。ひどい耳鳴りで何も聞こえない。鼻の奥から血の匂いがする。あれ、何処か怪我したのか……? そう考えた途端、思い出したかのように全身に熱と激痛が走る。苦痛で思わず叫ぼうとするが、実際には声を出すどころか空気を吸い込むことすらできなかった。手足を動かそうとしても思うように動かない。不意に肺が空気を取り込み、雪崩のように取り込まれた酸素に思わず咳き込んでしまう。呼吸の度に徐々に回復していく視界で周囲を見渡す。

 どうやら僕はビルの壁に寄りかかって座り込んでいるらしい。10メートルほど離れたところでゴリラがウホウホと下卑た笑みを浮かべていた。ゴリラが持つ銃が向く先には、軽自動車がスッポリと収まりそうな大穴が空いている。そこは先ほどまで僕と猫がいた場所だった。拳銃が持つ本来の威力を遙かに越えた異常な破壊力。やはりゴリラの持つ銃は米兵器で間違いない。放たれた銃弾は運よく僕にかすりもしなかったようだが、銃弾がまとう衝撃波だけで僕の身体は紙屑のように易々と吹き飛ばされたらしい。ゴミ袋やポリバケツがクッションになっていなければ命すら危うかっただろう。

 僕の腕の中で黒猫が「ニャア」と鳴いた。見たところ怪我は負っていないようだ。お前は無事で良かったよ。まだ激痛と痺れの残る腕を少しだけずらすと、猫はするりと抜け出した。振り返って僕を見上げる。

 「……行けよ。僕も、大丈夫だから」

 絞り出した声で告げると、猫は駆け出した。隣を駆け抜けていく猫に一瞥もくれずに、ゴリラは僕へ近づいてくる。逃げ出さなければマズい状況。だっていうのに、体中を支配する痛みと痺れで立ち上がることが叶わない。

 「ガキ、いい度胸じゃねぇか。気に入ったぜ。舎弟にしてやってもいい」

 拳銃のグリップへ米を流し込みながらゴリラが言った。米を装填し終えた銃をゆっくりと僕へ向ける。

 「生まれ変わったらなウホウホーッ」

 そして引き金に指をかけた。

 ……ゴメン、じいちゃん。せっかく貰った忠告、守れなかった。米に関わったらこの有様だよ。僕は覚悟を決めて瞼を閉じて、全身の力を抜いた。

 ふと、何処からか幼さの残る少女の声がする。

 「――3合炊きっ!」

 その声を轟音がかき消す。やがて音が消えた。

 銃弾に打ち抜かれて身体が引き裂かれる痛みが襲うものだと思っていた。しかし実際には僕の身体には何の衝撃も異変も訪れなかった。もしかして僕が気づいていないだけで、すでにもう殺されてしまったのだろうか? だとすれば、もうここは死後の世界ということになる。恐る恐る目を開くと、少女の顔が間近にあった。青味がかった瞳で僕を覗き込んでいる。ドキリとした。

 「ねぇ、キミ、大丈夫?」

 少女が小首を傾げると、瞳よりも深い青の髪が顔にかかった。サラサラの長い髪を邪魔そうにかき上げて耳にかけると、ほのかに甘い香りが漂う。胸の高鳴りに気づかれないように、少しだけ身をそらす。

 「う、うん」

 僕はかすかに頷いた。本当は自分が置かれた状況すら把握できていなかったけれど。

 「そっか。なら良かった」

 少女が優しそうな目で微笑んでから、くるりと回って僕に背を向ける。ふわりと舞うチェックのスカートとキャメル色のブレザー。僕の通う高校の女子学生服をまとう少女。片手には見慣れない機械を携えている。バスケットボールよりも一回りほど大きいサイズで、角が丸みを帯びたクーラーボックスのような不思議な機械だ。

 「お米を粗末にする人は許さないよ」

 少女が怒気を含んだ声色を放つ。

 「……あ、えっと、お米を粗末にするゴリラも許さないよ?」

 今度は少しだけ恥じらいを含んだ声色だった。「間違えてゴメンね」と小声で付け加える。

 「……おまえ、何者ウホ?」

 少女の向こう側からゴリラの声が聞こえる。姿は見えないが張りつめた声から緊張していることが分かる。

 「悪いけどアナタに名乗る炊飯器は無いよ」

 ――スイハンキ。聞きなれない言葉だった。どのような意味なのだろう? アナタに名乗るスイハンキは無い、という文脈から意味を推測することも難しかった。

 チッと舌打ちをする声が聞こえた後、轟音が鳴り響く。それはゴリラの持つ銃の発砲音だった。思わず全身に力を入れて身構える。しかし先程と同様に僕の身体には何も起こらなかった。いったい何がどうなっているんだ?

 「あ、ちょっと待って! 逃げるな!」

 少女が慌てた声を上げる。何があったのだろう? 僕が彼女の影から這い出ると、ゴリラがバタバタと音を立てながら走って逃げているのが見えた。少女はというと頬を膨らませて不機嫌を露わにしていた。

 「もぅ! 逃げるなんて信じられない!」

 少女が「5.5合炊き!」と声をあげると、手にしている不思議な機械が光り輝いて一回りほど大きくなる。次の瞬間には彼女の姿が掻き消えた。……え? その奇妙な光景に僕は驚いた。そして、驚いたのは僕だけではなかったらしい。

 「ウッホーッ!?」

 ゴリラが悲鳴をあげた。いつの間にかゴリラの目の前には少女が立ちふさがっていた。慌てたゴリラが少女へ銃を向けて引き金を引く。対する少女は慌てる様子もなく不思議な機械を一振りする。立て続けにゴリラの拳銃が轟音を鳴り響かせ、その度に少女が不思議な機械を振るった。……まさか、米兵器が打ち出した銃弾を打ち落としているのか? 目の前で繰り広げられる非現実的な状況に、開いた口が塞がらない。

 やがて轟音が止む。ゴリラが手にした銃の銃身がスライドしたまま固まっている。

 「どうしたの? もう弾切れ? それとも米切れ?」

 少女が口角を上げて問うと、ゴリラは観念したように銃を足元に捨て両手を上げた。

 「……私の負けだ。殺すなら、さっさと殺しな」

 吐き捨てるように喋るゴリラを見て、少女が呆れたように眉根を寄せる。

 「なに言ってんの? 殺したりなんかしないよ。お仕置きするだけだよ」

 口を尖らせた少女が不思議な機械を掲げた。

 「100合炊きっ!」

 みるみると大きくなる光り輝く機械。やがてバスのタイヤほどのサイズになった。ゴリラが不安の入り混じった様子で機械を見上げる。

 「……さすがにこんなので殴られたら死ぬウホ」

 「大丈夫だって。みね打ちだから」

 「…………みね?」

 ゴリラの疑問もむなしく少女が腕を振り下ろす。ズンッという地震のような揺れ。

 「1.5合炊き」という声とともに小さくなった機械が持ち上げられると、ゴリラが両手を上げたままの格好で地面に埋まっているのが見えた。

 少女が小走りで僕に近寄る。

 「ひとりで立てそうかな?」

 そう言いながらも少女は僕へ片手を差し伸べてくれる。僕はお礼を述べて、少女の手を借りる。身体のあちこちが悲鳴を上げつつも何とか立ち上がった僕は改めて彼女の姿を眺める。

 胸まで伸びたストレートのロングヘア。やや目じりが下がった大きい瞳と、ニッと笑ってできたえくぼに少女の優しさがにじみ出ている。綺麗というよりは可愛いという表現がピッタリな顔立ちに思わず見とれてしまう。こんな美人を一度見たら忘れられないと思う。それどころか身近にいれば嫌でも噂を耳にすると思うのだけれど、同じブレザーを身にまとうこの少女を見たことも聞いたこともない。

 「……キミは、いったい?」

 少女が少しだけいぶかしんだ表情をした。

 「ゴメン、キミに名乗る炊飯器は無いよ」

 「……それ、意味が全然解んないんだけど」

 思ったことをそのまま口にしてから、もう少し言い方を選べば良かったと反省する。気を悪くしていないかと様子を伺うと、少女は少しだけ不機嫌な顔をして僕の鼻先に指を突き付けた。

 「知らない人に名乗ったりしたら、芋づる式に個人情報が漏洩してしまって、頼んでもいないピザの出前が大量に家に届いたりするかもしれないでしょ? キミはもう少し個人情報の取扱いに気を付けた方が良いと思うよ」

 思っていたよりも論理的で端的な理由で名乗らなかったらしい。僕は慌てて訂正をする。

 「待って、違うんだ。僕が解らなかったのはスイハンキって部分で……」

 少女は少し不思議そうな顔をした後に、目を大きく開いて何度もうなずいた。

 「そっか。きっとキミは炊飯器を知らないのか。だったら解らなくてもしょうがないよね」

 そういうと彼女は手に持った機械を持ち上げる。ゴリラを打倒した不思議な機械。

 「これが炊飯器だよ。それに未だ見習いなんだけど、私も炊飯器なんだよ」

 少女がはにかんで笑う。誇らしそうに胸を張る姿から、少女がスイハンキをどれだけ好きなのかが伝わった。あいかわらず言葉の意味は解らなかったけれど。少女の屈託のない笑顔を見ていると、今まで命の危険に晒されていたのが嘘みたいに思えてくる。知らず知らずのうちに肩に入っていた力が抜けるのを感じた。安堵の息を吐くのに併せて、僕の腹の虫が鳴いた。

 「おなかが減ってるの? だったら良いものがあるよ」

 そう言うと少女は手に持ったスイハンキの蓋を開いた。中から白い湯気が立ち上り、淡白な甘い香りが辺りを漂う。無意識に喉がゴクリと鳴った。スイハンキの中を覗き込むと、つやつやと白く輝く小さな粒が大量に収められていた。一瞬、米のように見えてぎょっとしたが、そんな不気味な勘違いは食欲がすぐに吹き飛ばした。人殺しの道具である米が、こんなにふっくらとして美味しそうな訳がないじゃないか。

 僕の様子を見ながらにこにこと笑う少女が、僕に箸を手渡す。

 「さぁ、どうぞ。召し上がれっ」


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 昨日の出来事がまるで夢だったかのように、平穏が戻ってきた。いつも通りに起きて、いつも通りに朝ご飯を食べて、いつも通りに登校して、いつも通りに教室で席に着く。ゴリラに追われていた時には、切に望んだはずの日常なのに、何かが足りない気がする。

 「志騎、おはよう」

 僕を呼ぶ女子の声に振り向く。いつの間にか隣の席には、いつも通りに幼馴染が座っていた。今日はショートボブをヘアピンでアレンジしている。

 「なんだ、小町か」

 落胆の言葉を口にしてから、自分が何かに期待していたことに気づく。いったい何に期待したっていうんだ、僕は。

 「はいはい、私ですみませんでした。でも目に見えて落胆されるとムカつくんですけど」

 不機嫌な口調で不満を吐き出すと、小町は両手を僕の方へ伸ばす。僕の両頬に触れると無理矢理に僕を笑顔にした。言葉にしなくても小町が考えていることが伝わる。元気ないけど、どうしたの? 大丈夫? 何か私にできることある? ……子供の頃からずっと一緒だった所為で、このくらいなら手に取るように判ってしまう。

 「ゴメン、そういうつもりじゃなかったんだけど」

 小町を心配させないよう、僕は笑って見せた。小町は満足したのか「反省したなら別に良いけど」と言って僕の頬から手を離して、恥ずかしそうに視線をそらした。そんな小町を見て思わず自然と頬が緩むのを、頬杖をついて隠す。小町は僕に対して心配性で過干渉が過ぎる部分があるけれど、一緒にいるといつも暖かい気持ちにさせてくれる。

 小町がちらりと僕に視線を移すと、何かに気づいたのか表情に心配の色が浮かぶ。

 「……その手、どうしたんですか?」

 頬杖をつく僕の腕に小町の視線が釘付けになる。学生服の袖から覗かせた僕の手は、指先以外が包帯で隠れている。小町に気づかれるとは迂闊だった。こと怪我に関しては小町の心配性と過干渉に拍車がかかる。ここは誤魔化すに限るな。

 「あー、昨日ちょっと擦りむいたんだ。大した怪我じゃないよ」

 「だったら、今すぐ服を脱いでください」

 「……へ?」

 「大丈夫なところを見せてください」

 冗談で言っているのかと思ったが、小町の目は本気だった。僕の怪我の具合を疑っているのだろうか? だとすれば、小町の勘は当たっている。実のところ昨日ゴリラに負わされた傷の所為で学生服の下は全身包帯だらけで、とても大丈夫と言える状態ではない。幼馴染は恐るべしだな。

 「こんなところで脱げる訳ないだろ」

 「そんなこと言って誤魔化してませんか? また無茶な事してませんか?」

 小町が少しだけ声を荒げた。どうやら心配性と過干渉のスイッチが入ってしまったようだ。長引かせると更に小町は感情的になって手が付けられなくなる。僕はできるだけ平静を装って小町に笑いかける。

 「約束しただろ。もう無茶で危険なことはしないって。あの時みたいに小町を悲しませたりしないよ」

 昨日、黒猫を助けた時のことを思い出したが、すぐに頭の中から追い出した。

 小町が今にも泣きだしそうな顔で俯く。涙で潤う瞳で上目遣いに僕を見る。そして声を詰まらせながら小さく問う。

 「……ホント?」

 「うん、本当だよ」

 小町が無言で小指を差し出したので、僕も包帯の巻かれた小指を差し出した。小指を絡ませながら、昨日のことを思い出す。米、ゴリラ、そして炊飯器を持った少女。いま思い返しても全てが夢だったように感じる。そう、夢だ。夢なら忘れてしまおう。僕は無事にいつもの日常に戻ってきたんだ。非日常に求めるものなんて何も無いんだ。炊飯器を持った少女の笑顔が不意に頭を過るが、頭から振り払った。

 「……佐々丹くん、瑞穂さん。イチャつくのはそこまでにして貰えますか?」

 意識の外から突然に声を向けられてドキリとする。振り向くと担任教師が教壇に立ってこちらを見つめていた。辺りを見渡すと他のクラスメイトはみんな席についている。小町は慌てて僕から手を離すと、真っ赤な顔をして俯く。

 「先生はリア充が爆発すれば良いと思っています。それでは朝のホームルームを始めましょうか」

 委員長の小町が声を上擦らせながらも礼の号令をかけた。礼が終わり、辺りが静まるのを待ってから担任教師が口を開く。

 「今日はまず初めに転校生を紹介します。ぴちぴちの女子高生です」

 転校生……? 担任教師の言葉を聞いて思わず身を乗り出す。転校生という言葉と、同じ高校の学生服を着ているのに見たことのない少女が頭の中で符合した。振り払ったはずの笑顔が頭をチラつくが、急に訪れた頬の痛みで我に返る。何故か僕の頬は小町につねられていた。小町は頬を膨らませて眉間に皺を寄せている。

 「なんだよ?」

 「別に何でもありませ~ん」

 そう言いながらも小町は手を離そうとしなかった。何だってんだよ、いったい。

 急な転校生の話にざわついている教室を、担任教師がバンバンと教壇を叩いて静まらせた。

 「それでは、西園寺さん、入ってきてください」

 「はい」

 教室の外から聞こえる声には聞き覚えがあった。息が止まる。

 戸を開いて入ってきた女生徒に教室中の視線が集まる。昨日よりも澄ました表情で、おしとやかに歩く女生徒。教壇まで歩み寄ると担任教師からチョークを受け取り、黒板に自分の名前を書いた。チョークを置いて振り返ると、にっこりと笑って自己紹介を始める。

 「皆様、はじめまして。西園寺麗華と申します。本日より皆様とご学業を共にさせていただくこととなりました。海外留学より帰国したばかりでして、お恥ずかしながら世間の事情や文化には疎うございます。皆様にはご迷惑をおかけしてしまうこともあるかと存じますが、なにとぞ仲良くしていただけますと嬉しく存じますウホッ」

 「オマエかー!!」

 澄ましたゴリラの奇行を目の当たりにしたせいで、思わず立ち上がって声を挙げてしまった。

 いつも通りの日常が駆け足で去っていった。

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