Layer_2/ Adolescence(1)
『……勝手に持っていけばいいだろう』
喫茶店の椅子に腰掛けた彼は、投げやりに言い放ち、煤けたテーブルの上に「それ」を置いた。ユークリッドは一瞬それが何なのかわからず、目を大きく見開いていたが、すぐに『えっ』と声を漏らす。
――それは、ユークリッドの記憶の鍵。
第二層の守護者である彼が、ユークリッドを認めた時に渡されるべきものである。
これには、流石の私も呆然としてしまう。何のゲームを課すこともなく、鍵を渡すなどということは、今までの試行では一度もあり得なかった。試練を通してユークリッドに記憶と結びつく経験を与える、という守護者の役割にも反している。
だが、そもそも、今回の試行はよくわからないことだらけだったことを思い出し、気を引き締める。ガーデニアは何と言っていた。私に「導いてくれ」と言っていたはずだ。
私は、しっかりと見極めなければならない。私たち二人がこれから行くべき道を。
「ユークリッド。少しだけ、待ってくれ」
記憶の鍵に恐る恐る手を伸ばそうとしていたユークリッドを制して、彼に呼びかける。
「一体、どういうつもりだ、シスル?」
私にとっては四度目の邂逅である彼の名を、呼ぶ。
すると、彼は黒の中にぬらりとした虹色の光を宿す、鏡のような色眼鏡をこちらに向けて、口の端を歪める。どこか不自然に引きつっているようにも見える表情で、静かに言い放つのだ。
『もう、諦めたらどうだ、ミス・バロウズ』
それは、ユークリッドではなく。あくまで、私に向けられた言葉だった。
「……諦めるとは、どういうことだ」
『言葉通りさ。彼の試行の果てに何が待っているのか、あなたが知らないとも思えない。そうだろう、ミス・バロウズ?』
私は言葉に詰まってしまう。唯一、この試行の結末を知らないユークリッドだけが、不思議そうに彼の――シスルの色眼鏡を見つめていた。
シスル。
私が彼について知っていることは、決して多くない。彼自身の言葉によって知りえたこと、そして過去の試行でユークリッドが取り戻した記憶から語ってくれたこと、その程度。
ユークリッド――ヒース・ガーランドが青年期を過ごした『裾の町』。そこに生きていたという、全身機巧仕掛けの青年だ。毛穴一つない禿頭に黒尽くめの格好、目を覆う不思議な形の色眼鏡という不気味な出で立ちをしているが、口を開けば驚くほどに紳士的で飄然とした好青年である。
当時、町を守護する仕事についていたらしい君にとって、人から依頼を受けて仕事をする『何でも屋』であったシスルは時に心強い味方であり、時に極めて厄介な敵であった。その厄介さは、これまでの試行における立ち回りを見ていれば嫌というほどよくわかる。
そして、シスルは、君の心の支えとなる存在であった、らしい。
何故、そうだったのかはよくわからない。ただ、君が大切にしていたものを共有する存在であった、ということだけは何となく察せられる。
シスル自身は君……というよりかつてのヒース・ガーランドを決して好んではいなかったようだが、その悪態は親愛の裏返しのようでもあって、二人の関係性が決して浅いものではないことだけは伺えた。
だから、間違いなく、シスルは気づいているのだ。
記憶を取り戻した君が、どういう行動に出るのかに。
そして、そんな結末を、シスルが望んでいないということだって、わかる。
「……だが、それならば、鍵を渡さなければいい」
そうだ、あの結末を迎えさせる気がないというならば、ガーデニアがそうしようとしたように、断固として鍵を渡さなければいい。鍵を渡すということは、記憶を取り戻す手助けをするのと何も変わらない。
「ユークリッドが鍵を手にすることがなければ、試行は終わらない。君が考える結末は来ない」
だが、シスルは『わかってないな、ミス・バロウズ』と大げさに肩を竦める。
『結論を引き延ばしたところで、それは無意味な停滞でしかない。そこのぼんやりしている彼も望んじゃいないだろう。私は「終わりにしよう」と言っているんだ。これを最後にな』
「終わりにする……」
『ああ。あなたや私がどれだけ望んだところで、結末は変わらない。奴は、一つの結末以外の全てを認めない。それならば、とっとと引導を渡してやった方が幾分か気は楽だ』
そう言って、椅子の背に体重を預けたシスルの声に含まれる感情は、深い、諦観。今までの彼らしくもない、酷く気だるげな態度に苛立ちが募る。
「シスル。君は、諦めてしまったのか。この試行の先を」
『先なんてないさ。これが現実であるならば、未来を夢見ることもできただろう。だが、全てはお膳立てされた、決まりきった「物語」だ』
物語、と。私ではなく、ユークリッドが呟いた。君には私とシスルの会話の意味の半分も理解はできなかったのだろう、困惑をあらわにしている。そんな君に対して、シスルは溜息混じりに言う。
『そう。一つ目の記憶を取り戻したならわかるだろう。この世界は現実じゃない。かつて世界のどこかに生きていた誰かさんに関する記録を編纂した「物語」だ。私も、ガーランドのお姫様も、全部、全部、誰かさんの物語の登場人物に過ぎない。そして、主人公である君が、かの物語の通りに道を辿り、決まりきった結末を迎えることで、失った全てを取り戻す。そういうシナリオだ』
『物語である以上、結末が決まっている……、ということですか。僕が、記憶を取り戻す行程も、全ては決まった結末に向けてのことだと』
『そう。結末のない物語なんて「物語」としては失格だからな。まあ、結末があったところで駄作である可能性を否定する気はないが』
シスルは皮肉げに口の端を歪めて見せるが、ユークリッドは笑わなかった。眉を寄せて、何かを思案するように口元に指を寄せ、何かを考えている風であった。
『ともあれ、私にアンタを邪魔する気はないよ、名もなき彷徨い人。試練があろうがなかろうが、アンタの進む道は変わらない。そういうことだ』
ひらり、と手を振るシスルに対し、君は少しだけ躊躇うような素振りを見せながらも、口を開く。
『ユークリッド』
『あ?』
『ユークリッド、です。僕の、名前』
その言葉に、シスルの方が少しばかり驚いたようだったが、すぐに諦め交じりの態度を取り戻して、投げやりに声を投げかける。
『……ああ、悪い。名前を呼ばないのは失礼だったな、ユークリッド』
『それと』
ユークリッドは、ぽつり、ぽつりと言葉を続ける。
『不思議、なんです。あなたとこうして出会うのが、初めてじゃない気がするんです』
――何?
この言葉には、今度こそ、シスルも面食らったようだった。私だって疑問符を浮かべずにはいられない。この時点のユークリッドに、シスルの記憶があるはずもないのは、過去の試行から明らかだ。君にとって、シスルとはこの時初めて出会う相手であり、ガーデニアから取り戻した記憶の中にも彼の情報は含まれないはずだ。
シスルも無い眉を顰め、怪訝な顔つきで問う。
『……それは、この塔の外の記憶、ということか?』
『いいえ。いつかは思い出せないのですが、僕は、ここで、あなたと、向き合ったことがある。そう、感じているのです』
む、とシスルは小さく声を上げて、黒い手袋を嵌めた手で、細い顎をさすりながら独りごちる。
『介入の結果か? だが、アンタが試行を記憶していたところで、誰が得するわけでもあるまいし……』
『何か?』
不思議そうに首を傾げるユークリッドに対し、シスルはつるりとした頭を横に振り、『いや』と苦笑する。
『大したことじゃない。アンタは確かに、いつか私に会っているかもしれないが、ただそれだけだ』
それだけ。そう、シスルは言うが――。
「……本当に、そうなのか?」
私には、どうしても、そうは思えない。
私の声に、シスルとユークリッドは、ほとんど同時に視線を上げた。
「君も気づいているのだろう、シスル? この試行は例外が多すぎる」
シスルは応えない。だが、否定をしなかったということは、シスルもわかっているのだ。この試行が、今までと何かが異なっているということに。
「ならば、私は諦めない! 諦められるはずがない! 過程が異なれば、結末が異なることだってあり得るかもしれないだろう!」
シスルは『はっ』と嘲笑にも似た息を漏らして、大げさに肩を竦めてみせる。
『無駄だよ、ミス・バロウズ。確かにこの試行は今までとは多少異なる部分もある。だが、あなたがいくら抵抗したところで、結末は変わらない。これは、そういう物語だ』
「そう思うなら、ユークリッドではなく、私と勝負してくれたまえ、シスル!」
『何?』
「私は君の想定の上を行く。行ってみせる。そうすることで、君の想定が誤っている可能性を示してみせようじゃないか」
シスルは、刹那、呆然としたようだったが、すぐに薄い唇を開こうとする。それこそ無駄なことだ、とでも言おうとしたのかもしれない。だが、言わせやしない。何故なら。
「私は、決して諦めない」
そうだ、これがどれだけ定まった未来であろうとも、私は諦められないのだ。
「彼と生きる未来を手に入れるまでは」
『ダリアさん……』
ユークリッドが、声を漏らす。その、不安と期待とがない交ぜになった表情の意味は今の私にはわからない。何しろ、君は結末を知らない。だが、私とシスルのやり取りで、この先に待つものが、決して喜ばしいものではないことには気づいただろう。
だからこそ、私はできる限り明るく聞こえるように、ユークリッドに語りかける。
「ユークリッド、君の未来は君のものだ。当然、私のものではない。だが、夢見ることくらいは許してもらえるか」
ユークリッドは、そんな私の言葉をどう思ったのだろうか。しばし口をぱくぱくさせていたが、やがて、はにかむように微笑んで頷いた。
『……はいっ』
その短い、しかし確かな返事に、私の心が温かなものに包まれる。今、この瞬間だけでも、ユークリッドは私のわがままを許してくれている。私の望みを、否定しないでいてくれていれている。君自身の、意思で。
そうだ、君の未来を、ただ「物語の結末」などという理由で決め付けられてたまるか。結果として私の望まない結末が待っていようとも、諦めるのは早すぎる。今回の試行では、まだ、実際にその結末を目にしてはいないのだから。
シスルは、しばし、呆然とユークリッドを見つめていたが、突然くつくつと笑い出した。呆気に取られるユークリッドに『すまない』と手を振って、くいと顎を上げる。天井の向こう側、こちらを見つめる私に向けて、言い放つ。
『いいだろう、ダリア』
初めて、シスルは私のことを敬称抜きの名前で呼んだ。単なる観測者ではなく――第二層というフィールドに立つ、一人の、挑戦者と認めた証拠として。その薄い色をした唇が、不器用に、けれど確かな笑みに歪められているのを、モニタ越しに確かめる。
『アンタの一途さに免じて、今一度だけ、ゲームを始めよう。アンタと――ユークリッドの、未来のために』
立ち上がったシスルは、テーブルの上に置かれていた記憶の鍵を取り上げる。ふわり、と浮かび上がった幾重にも重なる光の輪は、シスルの肩の辺りまで浮かんで静止する。
『今更だが、改めて名乗ろうか』
黒い外套の裾を翻してユークリッドに向き直ったシスルは、優雅かつ大仰な、芝居がかった礼をする。
『私の名はシスル。全身これ機械仕掛けのしがない「何でも屋」にして、第二階層「青年期」の守護者。そして』
ゆっくりとあげられた顔が、ユークリッドに向けられる。その色眼鏡の下の目がどこを見ているのかは定かではないが、口元に、どこか挑戦的な笑みを浮かべて。
『ユークリッド、そしてダリア。アンタたち二人を試す者だ』
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