Layer_1/ Childhood(6)
「……ユークリッド?」
声をかけると、ユークリッドは突然我に返ったように、視線をこちらに向けて。それから、きょろきょろと辺りを見渡した。
『あ、あれ、ガーデニアさんは?』
「守護者としての役目を果たしたからだろう、消えてしまった」
ユークリッドの目には、散り行くガーデニアの姿も見えていなかったのだろう。ガーデニアが一瞬前まで立っていた場所を見つめて、微かに表情を曇らせる。
『そう、ですか』
――まだ、話したいことはたくさんあったのに。
そう呟くユークリッドは、何かを噛み締めているようだった。記憶を取り戻した後はいつもそうだ。一歩、前に進むたびに、君は私にはわからない、自分だけの記憶を深めていく。それがこのプログラムの仕組みなのだ、と言われてしまえばそれまでだが、何となく、そのたびに、私だけが取り残されているような気分になるのだ。
本来、私は、君の記憶を構築する要素ではないのだと、思い知らされるのだ。
あらかじめわかっていたことを、今更思い悩むなんて馬鹿げている。馬鹿げている、とわかっているのに、考えることをやめられない。
よくないな。あくまで、私の役目はユークリッドを観測して導くことなんだ。気を取り直して、できる限り明るく聞こえるように気をつけながら声をかける。
「記憶は戻ったか?」
ユークリッドは『はい』と頷いて、難しい顔をする。
『はい。まだまだ、断片的にではありますが。それでも、僕がどう生まれて育ったのかは思い出しました。ガーデニアさんとの、関係も』
一つ一つ、取り戻したものを自分自身でも確かめるように、ユークリッドはゆっくりと言葉を紡いでいく。
『僕は、ある一人の人間の情報を基に造られた、人の形をしたつくりものでした。そして、きょうだいであるガーデニアさんに、恋を、していた。自分でもどうしようもないくらいに、強く、ガーデニアさんを求めていた』
恋していたのです、と。もう一度繰り返したユークリッドは、手袋に包まれた手を己の胸に当てる。その言葉の持つ強さとそこに含まれた痛みを、私はつい我がこととして受け止めてしまう。
私もまた、恋に狂った結果として今ここにいることには、変わりなかったから。
『……けれど、それは僕の一方的な感情で、ガーデニアさんも僕も、傷つくだけの結果にしかなりませんでした。ただ』
「ガーデニアがどう思っていたのかは、最後まで、わからなかった、か」
それは、今までのユークリッドにはなかった視点だった。記憶を飲み込むだけで精一杯だったともいえるし、己の記憶に疑問を覚える理由もなかったのかもしれない。
『はい。もしかしたら、この先の記憶に答えがあるのかもしれませんが、理解できたところで、もう、ガーデニアさんにそれを伝えることもできない』
そこまで言って、ユークリッドは『あれ?』と首を傾げる。
『どうして……、二度と、ガーデニアさんには会えないと、思ってしまったのでしょう。一瞬前までは、ここを出られれば、もしかしたら、会えるかもしれないと思っていたのに、どうして』
その、見開いた目から、透明な雫がひとつ、こぼれおちる。きっと、本人もどうしてそんな感情を抱くのかわからないという、戸惑いの表情を浮かべたまま。
「ユークリッド……」
『ダリアさん、教えてください。ガーデニアさんは――』
「……君がそう感じているなら、率直に言おう」
その事実は、私の口から言うべきではないのかもしれないが。ユークリッドの問いには、答えなければならないと、思ったのだ。
「ガーデニアはおそらく故人だ。私がその生死を確かめたわけではないが、状況的に間違いないと思う」
『そんな』
言いかけて、ユークリッドは口を噤む。濡れた目を拭い、言葉にできない感情を咀嚼するように沈黙する。それから数秒の後に、うつむきながらも、ぽつりと、呟いた。
『不思議ですね。ガーデニアさんを失っている可能性に気づいた瞬間、まず「悲しい」と感じたのに、昔からそれを知ってるような感覚もあるんです。何だか、すごく、変な気持ちです』
そうか、と。応えながら、ユークリッドを見やる。ユークリッドは「変な気持ち」という言葉通りに、見ている私にも上手く形容できない、悲しみと不安と、僅かな憤りすらもないまぜになったような、複雑な表情をしていた。
「彼女の生死に関する情報も、君が取り戻した記憶の一部に含まれていたのかもしれないな。それらの詳細はきっと、これから取り戻すことになるのだろう。だが」
『だが?』
「彼女の死を『悲しい』と思ったのなら、素直に表現していいと思う。今、ここで彼女の死を悼むことができるのは君だけだ」
ユークリッドは、きっと、私の言葉の意味がわからなかったのだろう。目をぱちぱちさせて、不思議そうに首を傾げる。そのぽかんとした顔はまるで小さな子供のようで、何だか微笑ましい。
今の君には、私の真意はわかるまい。君は過去の試行を記憶していない。かつての君、ヒース・ガーランドを覚えていない。しかし、だからこそ、私も君に思うことがあるのだ。それを伝えたいと思うのだ。
「記憶を取り戻せば、君が過去に記憶した感情とその理由も、はっきりしてくるだろう。ただ、今、君の胸に渦巻く感情は、今の君だけが感じることのできるものだ。どうか、今、感じた思いを大切にしてほしい」
過去に色々な試行があった。結末は同じだったけれど、過程は微妙に異なっていた。そのたびに、君が感じ取ったことも、きっと違ったのだ。今回も待ち受ける結末は変わらないのかもしれないが、それでも、君が見つめている世界は、他の誰でもなく、過去の君でもなく、今の君だけのものなのだとはっきり伝えたかった。
――伝わるかどうかは、わからなかったけれど。
事実、あまり正確には伝わってはいないのだろう。どうも要領を得ない表情で首を捻っている。わかってもらおうとは思わない。ただ、最後の最後、全ての記憶を取り戻した時に、今まで感じてきたことを思い出してほしい。一言でも私の言葉を思い出してほしい。そんな、自分勝手な祈りでしかないのだから。
「さあ、これで第二階層への道も開いただろう。行こう」
『は、はい』
私は言葉でユークリッドの背を押す。ユークリッドは後ろ髪を引かれていたようだが、やがて落ちていた帽子を拾い上げ、頭に載せて歩き始める。
度々姿を変えて我々を翻弄していた第一階層の迷宮は、いつの間にか真っ直ぐに伸びる一本の道になっていた。足元に波紋を広げながら、一歩、二歩、と足音を立てながら進んでいく。
もはや守護者もお化けもいない、ただ静寂だけが支配する道を歩く君は、真っ直ぐに前を見つめている。その表情は硬く、緊張に満ちていたけれど、だからこそ凛々しさを感じさせる。
だが、私の胸には恐れにも似た不安が渦巻いている。ユークリッドがガーデニアと殺し合わずに済んだのは喜ばしいことだったが、同時にそれは今までの試行との違いを際立たせている。ガーデニアは私に、このまま導いてくれと言ったが、果たして、本当にこの試行は正しいのか――。
『ダリアさん』
不意に、ユークリッドが私の名前を呼んだ。はっとしてそちらを見ると、いつの間にか君の目は、見えてもいないはずの私を見ていた。
「何だ」
ユークリッドは、先ほどよりもゆったりとした足取りで歩きながら、言葉を紡いでいく。
『……記憶を取り戻してから、いくつか、考えたんです。ガーデニアさんのこと。僕のこと。それから、ダリアさんのこと』
「私のこと?」
『はい。ダリアさんは、僕のことを好きだと言ってくれました。その……、ダリアさんの言う「好き」という感情について』
言いづらそうに、口をもごもごさせながら。それでも、何とか、言葉を搾り出す。
『ダリアさんは、僕に、恋情に近いものを抱いている、ということでしょうか』
なるほど、当然の質問だ。好きという言葉には、いくつかの意味合いがある。深さも違う。だから、私はその中で最も今の私に相応しいであろう表現を選ぶ。
「そうだな。君に会いたい。君の声を聞きたい。君と、もっと話をしたい。わかり合いたい。できれば触れ合いたい。そういう感情を恋と言うならば、私は君に恋をしている」
私の答えに、ユークリッドの表情が強張る。記憶を取り戻した今なら、尚更だろう。ヒース・ガーランドは、恋愛というものに対して、恐怖を抱いていたといってもいいのだから。それがわからないほど、私だって馬鹿じゃない。見えないとわかっていても、つい、苦笑を浮かべて続ける。
「ただ、それを、君が受け入れるかは自由だ。君が迷惑だと思うなら、この言葉は忘れてくれたまえ。私はただ観測者として、君と接しようと思う」
『いえ、受け入れるのが迷惑、というわけじゃないんです。ただ』
ただ? と聞き返す私に、ユークリッドは露骨に表情を歪めた。その表情は、何故か、今にも泣き出しそうにすら、見えた。
『今の僕には、どうしてもわからないんです。ダリアさんが、どうして僕にそんな思いを寄せるのか』
それは、記憶が全て戻ったところでわかるまい。ヒース・ガーランドの記憶に、私は存在し得ないのだから。そんな私の内心を知る由もないユークリッドは、ただただ、言葉を溢れさせていく。
『僕にはそんな価値がないという思いもあります。ただ、それ以上に、怖いんです。このまま、素直にダリアさんの思いを受け止めていいのか。また、ガーデニアさんを傷つけた時のようなことにならないか。ダリアさんの「好き」という感情が、僕の思っているものと、本当に同じなのかどうか』
「なるほど、私の思惑がわからないということが、不安なんだな」
はい、と。ユークリッドは申し訳なさそうに頷く。申し訳なく思うことなんて、何一つないというのに。
『あの、不愉快ですよね。ダリアさんの思いを疑うような真似をして』
ユークリッドは恐る恐る私を見上げる。と言っても、私が笑っていることは、君にはわからなかっただろう。私の顔が見えないということが、この時ほど恨めしかったことはない。表情さえ見えていれば、きっと聡い君のことだ、私が何を考えているかなんて、すぐにわかっただろうに。
「全く不愉快ではないさ。疑うのは当然だしな。いや、君はもっと疑っていい」
『……いいの、ですか?』
「ああ、疑って疑って疑いぬいて、全ての疑念を一つずつ潰した先で、初めて『信じられる』ことだってある。疑うのは、わかりあうための儀式のようなものだ。だから、存分に疑えばいい」
私は、この塔に息づく彼らのような、君に関わる物語を持つわけではない。
だが、今から、話をすることはできる。お互いの距離を確かめることは、できる。もう、それすらも叶わないガーデニアとは違うのだから。
「話をしよう、ユークリッド。君が満足いくまで――いや」
違うな。それを望んでいるのはユークリッドではなくて私自身だ。ユークリッドに納得してもらいたい。ユークリッドの不安がる顔を見たくない。何もかも、何もかもが私のわがままだ。
だから、言い直す。
「私が満足するまでは、君が嫌だと言っても付き合ってもらうぞ」
ユークリッドは、その言葉に目を丸くして、それから。
『はは、それは、なかなか大変そうです』
第一階層に来てから一度も見せなかった、朗らかな笑顔を浮かべてみせた。
その温かな表情を見ただけで、私の沈みかけていた心が急浮上する。現金なものだが、そもそも、君の笑顔を見たくてこの試行をしているのだから当然だ。
そして、その笑顔を、失いたくないとも思う。
『それでは、ダリアさんへの答えを出すためにも、もっと、お話をしていいですか? 他愛のない話でも、何でも』
「もちろんだ」
ユークリッドの言葉に、私もまた、笑顔で返す。ユークリッドは笑みを深め、改めて淡い色の唇を開く。
『では、早速ですけど――』
――試行を続けよう。
結果が変わらなかろうと、全てが破綻して設計者の側から介入されようとも。私は最後まで足掻き続けよう。
君に会いたい。その思いだけは、誰にも、変えられはしないのだから。
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