Layer_1/ Childhood(3)

 ユークリッドが手探りで迷宮を進んでいくと、モニタに映る景色に変化があった。どこか神秘的ですらあった無機質な通路は、ユークリッドの踏み出した一歩をきっかけに徐々に形を歪めていく。

 ユークリッドが進む場所が、終わりなく伸びる「通路」であることは変わらない。しかし、現実味のない白い壁はやがて硝子張りの窓へと姿を変えてゆく。窓の向こう側に広がるのは、この場所とさして変化のない無機質な空間。

 ――だが、私には白い壁に囲まれた息苦しい小部屋にしか見えないそこが、君の記憶に刻まれた場所なのだと今ならはっきりとわかる。

 この階層の名は「幼年期」だと、案内人の少年は言っていた。人の手によって造られ、ガーランド、という名前を与えられた君や窓の向こうの彼らが幼年期を過ごした場所。それが、この試行の中では迷宮の風景の一つとして現れている。

 ユークリッドは、唇を引き締めて足を止めた。彼の赤い瞳が見据えるのは、窓越しに立つ一人の少年だった。ユークリッドと似た、しかし私の目から見ても君――ヒース・ガーランドとは別人であるとわかる、少年。

 その少年のすがるような視線に吸い込まれ、ふらふらと硝子の方に近寄っていくユークリッドの姿は、今までの試行と同じだ。ユークリッドが窓硝子に手を伸ばす前に、声をかける。

「ユークリッド!」

 そちらに完全に意識を取られていたユークリッドが、はっと我に返った様子で目を瞬かせる。視線は少年に向けられたままではあったが、それでも、私の声に応える。

『すみません、ぼんやりしていました。……あの、彼は?』

「君の記憶を寄りしろにした幻影だ。先ほどのガーデニアと違って、君と意思疎通ができるわけではない。この空間に絶えず再生される『記録』のようなものと考えてくれ」

 事実、窓にちいさな手をつく少年は、ユークリッドに視線を向けながら、遥か遠くを見ているようであった。その視線の先にいるのはきっと、過去のヒース・ガーランドに違いない。この少年にとってはきょうだいであったのだろう、遠い日の君だ。

 今ここにいる、君ではない。

 ……君では、ない?

 一瞬、何かが頭の中に引っかかったような感覚を覚えたが、それを精査するのは後回しにして、モニタの端に映りこんだ黒い影に見える「それ」を捉えて叫ぶ。

「同時に、それらは君を害する『お化け』の可能性もある――後ろだ、ユークリッド!」

 きゅ、と靴音を鳴らしてユークリッドは身を捻り、腰に差していた警棒を抜き放ちざま、背後から飛び掛ってきた影を打ち据えていた。迷いも惑いも感じさせない、鮮やかな体捌きに思わず感嘆の息が漏れる。

 その影は、軋んだノイズのような悲鳴を上げながら飛び退る。ユークリッドもまた、距離を取って警棒を構えなおす。その表情は戸惑いに揺れてこそいたが、全身に満ちた緊張はこちらにも伝わってくる。

『お化け……、これが?』

 それは、巨大な漆黒の鼠であった。地に落ちる影をそのまま立体にしたような、頭から尻尾の先まで漆黒の、現実感のない獣。更に現実感のないことに、ユークリッドが警棒で殴りつけた部分からは、はらはらと花びらのような薄片が散っている。

 この世界の全ては、実体が存在しない、記録の塊なのだ。かつて、私にそう言ったのはあの案内人の少年だったと思う。

『僕を含めた全ては彼の残した記録から形作られ、そして彼の記憶に還元される。あなたの目から見える薄片はこの世界を形作る記録そのものを、単純なイメージとして表したものだ』

 それは、ある意味では君そのものでもあるのかもしれない、花びら。

 仮想の空間に溶けて消えていく――再び還元されていく薄片と、未だなお戦意を失うことのない鼠を見据えながら、私は早口に説明を加える。

「ああ。君の乗り越えるべき試練のようなものだ。連中は、君を殺すか自分が死なない限り君を狙い続ける」

『それはまた、物騒な……』

 苦い表情を浮かべながらも、やはり、ユークリッドの動揺は今まで「お化け」を目にした時よりずっと薄い。記憶の片隅に、かつての試行が微かに焼きついている、そんな感覚がぬぐえない。

 ――何故?

 次の瞬間、ユークリッドの方を見つめていた少年の姿もぐにゃりと歪み、もう一匹の鼠となって硝子窓をぶち破る。ユークリッドは左腕で降り注ぐ硝子の欠片から顔を庇いながらも、右手の警棒をほとんど無造作とも思える動きで振る。警棒は吸い込まれるように鼠の腹をなぎ払い、鼠の姿は花びらとなって散ってゆく。

 その刹那。

〈……ねえ、ヒース兄さん?〉

 か細い少年の声が、ヘッドフォン越しの私の耳にも届いた。ただし、ユークリッドには、きっと、その名前は聞こえていない。今までの私がそうだったように、ノイズに覆われて聞こえない一音節として届いたに違いない。

 それでも、自分が呼びかけられたのだ、とわかったのだろう。ユークリッドは警棒を振りぬいた姿勢のまま、消えゆく鼠の影を凝視する。

〈兄さんは、どうしてわかってくれないの〉

 鼠の姿が完全に空気に溶けて消えた直後、花びらを撒き散らしながらも、もう一匹の鼠が果敢にユークリッドに牙を剥く。淡々と、少年の声で語りかけながら。

〈僕らが実験槽のげっ歯類だって言ったのは、兄さんじゃないか〉

『実験槽の、げっ歯類……』

 ユークリッドが掠れた声で呟く。警棒を握り締めながらも、苦いものを噛み締めるかのような表情で。

 その言葉は、そういえば、前回の試行でガーデニアも口走っていたはずだ。

『あんたも、私も。ラットやモルモットと何も変わらない、誰かの都合のために生み出されて利用される、そういう生き物さ』

 ガーランドの名を持つ子供たちは、つくりものである。それは今までの試行で明らかだ。彼らが厳密にどのような存在であるのか私が知ることはできないが、それでも、彼らが普通の人間とは異なる理を持ち、彼らの人生が常に造り手に縛られたものであったことだけは、想像できる。

 まだ、その事実を知らないはずのユークリッドは、それでも、何かに気づいたのかもしれない。飛び掛ってくる鼠を前に、警棒を構えたまま、しかし微動だにしない。

〈そうだよ。兄さんの言うとおり、僕らは自由なんかじゃない。僕らは『鳥の塔』のために生きて死ぬものだ。実験槽のげっ歯類のように〉

 ――兄さんだって、そうじゃないの?

「ユークリッド!」

 ユークリッドの目の前に、鼠の牙が迫る。だが、ユークリッドはほとんど予備動作もなく、棒立ちのまま警棒を振るって影の鼠を叩き落とした。床に叩きつけられた鼠は、それ以上何を囁くこともなく、花びらとなって消えていく。

 ユークリッドは、表情もなく、じっと消え行く花びらを見据えていた。そして、不意に口を開いた。

『ダリアさん』

 その声は、私が思っているよりもずっと弱々しいもので、どきりとする。見れば、その瞳には隠しようのない不安が揺れていた。襲い来るお化けに対する迷いのない動作に反して、彼の心が激しく揺さぶられているのが、手に取るようにわかる。

 だが、私は。

「どうした?」

 そんな、ぶっきらぼうな言葉を投げかけることしかできないのだ。

 いつだって、言ってしまってから後悔する。自分の言葉ではないから、なんて言い訳にはならない。私自身がユークリッドにどう接していいのか、未だに、そう、未だにわかっていないのだ。四回目にもなって、まだ。

 それでも、ユークリッドは私の声に応えようと顔を上げる。私の姿を天井のどこかに探すように。その瞳に宿る心細さに、胸が、詰まる。

『この景色も、先ほどの少年も、襲ってきたお化けも、僕の記憶なんですよね』

「ああ。全てが、ではないが。おそらく、お化けは現実に存在したものではなく、君の持つ負のイメージを形にしたものだろう」

 これは実際に説明されたわけではないが、間違いではないと思っている。今までの試行で目にしたお化け、そして君について明らかになった諸々を加味すると、お化けの形やその存在感は、君が抱いた嫌悪や心の傷に近い形をしているように思えるのだ。

 ――まさに、今襲い掛かってきた「実験槽のげっ歯類」のように。

『……何だか、怖いですね』

 警棒を握る手が、微かに震えているのが私にも伝わる。

『外に出るためにも記憶を取り戻そう、って思ったはずなのに。実際に目の当たりにすると、このまま何も考えずに前に進んでいいのか、考えずにはいられなくて』

「ああ、そうだろうな」

 私は君と同じ場所に立っているわけでもないから、容易に「わかる」などと言うことはできない。だが、例えば忘れたいと思っていた記憶が、今の私の前に立ちはだかったとしたら。私はきっと、恐怖するだろう。背を向けて逃げ出したいと思うだろう。

 ユークリッドが立ち向かっているのは、そういう、本来ならば到底立ち向かえるようなものではない存在だ。

 私はどう足掻いたってユークリッドにはなれなくて、君の痛みを本当の意味で分かち合うことはできない。そんな私が、こんなことを言うのは間違っているのかもしれない。そうは思いながらも、言わずにはいられなかった。

「君が望むなら、立ち止まっても構わない。……君に記憶を取り戻させて、外に導くというのは、あくまで、私と、この塔の管理者の都合だから」

 立ち止まってもよい、という言葉に、ユークリッドは少しだけ揺らいだようだった。だが、すぐに自分が置かれている状況を思い出したのか、あからさまに肩を落とす。

『しかし、それでは、僕はここから出られないんですよね』

 君の言うとおり、このプログラムはどこまでも君の記憶を取り戻すためのものだ。君という存在がこの空間に定義されている以上、一連の手順を踏まなければ、君を外に出すことはできない――と、思っていたのだが。

 一つ、頭に閃くものがあった。

「だが、抜け道があるかどうかは、確かめてはいない」

 そうだ、今まではただ諾々とクロウリー博士の用意したプログラムにしたがっていたが、もしかすると、ユークリッドを外に導く方法は一つではないのではないか。それこそ、クロウリー博士が見落としているような方法が、あるのではないか。

 そう思ったのだが、ユークリッドは首を傾げるだけだった。

『すみません、今、何かおっしゃいましたか?』

 ……どうやら、私の言葉は観測者として認められない発言であったようだ。不用意な言葉は全てユークリッドには届かない。そういう仕組みなのを失念していた。

「いや、すまない。ただ、立ち止まるのは自由だ。考える時間はいくらでもある。私も、君が納得するまでいくらでも付き合うさ」

『ダリアさんは、それでいいのですか? 僕を外に出すのが、ダリアさんの目的なんですよね』

 不思議そうにユークリッドが問う。だが、その問いに対する答えなんて、決まっている。

「それはそうだ。だが、言っただろう? 私は君が好きだ。君が迷うなら一緒に迷いたいし、君が立ち止まるならその側にいたい。それに、君とこうして言葉を交わせるだけでも幸せなんだ。好き、というのはそういうことだと思っている」

 ユークリッドはどうも面食らったようで、目をぱちぱちさせて頬を赤く染める。全く、少しは慣れていただかないと、言っている私の方が気恥ずかしい。こっちまで照れてしまうではないか。

「とにかく、私のことは気にしないでいい、ってことさ」

『し、しかし』

「いいんだ」

 反論しかけたユークリッドの口を塞ぐ。もし、ここにいる私の手がユークリッドに届くのならば、背伸びしてでも彼の口を両手で塞いでいただろう。

 ユークリッドは納得できないとばかりに頬を膨らませていたが、不思議と不安の色は薄れていた。

『……あの』

「何だ」

『ありがとうございます、ダリアさん。何だか、元気出ました』

 何故、今のやり取りで元気が出るかはさっぱりわからなかったが、まあユークリッドがそう言うならいいということにしよう。

 そこまで話したところで、ふと、ユークリッドの足元に輝くものが落ちていることに気づいた。内側から虹色に煌く、水晶か何かを思わせる欠片。

「そうだ、ユークリッド。君の足元に落ちているのが君の記憶の欠片だ」

 こつん、と。物質として視覚化された記憶の欠片を靴の先でつつき、首を傾げる。

『……これが?』

「ああ。それを手に取ると、君の記憶の一部が戻る。とはいえ、記憶というのは断片だけでは意味を成さない。それを手に入れたところで、君は取り戻した情報を自らの記憶としてはっきりとは認識できないはずだ」

『なるほど、確かに記憶は連続性を持つものですからね。断片のみを取得してもどのように記憶を引き出せばいいかわからない、ということですね』

 正直、私はそのあたりの事情をよく知らないが、ユークリッドが納得するならそれでよしとしよう。

「これらの断片を繋ぐ『鍵』は記憶の欠片とはまた別に存在して、各階層に一人ずつ鍵を守る守護者がいる。この階層の守護者が、先ほどのガーデニア・ガーランドだ」

『なるほど。各階層で記憶の欠片を集めて、守護者から鍵を手に入れて記憶を統合する。それが僕が記憶を取り戻すのに必要なプロセスというわけですね』

「ああ。……続けるか?」

 私の問いに、ユークリッドは足元の記憶の欠片を見据えながら、少しだけ悩んだようだった。この試行を続けるか否か、それは一瞬のことだったはずだが、私にはかなり長い時間に感じられた。

 だが、やがてユークリッドは顔を上げて言った。

『まずは、やってみます。もう少しだけ進んでみてから、考えます』

「そうか。なら、記憶の欠片を手に取るといい」

 ユークリッドは、恐る恐る足元の記憶の欠片に指を伸ばす。その指先が欠片の表面に触れた途端、柔らかな輝きが放たれたかと思うと君の体がびくりと震える。

 しばしの沈黙。私は息を飲み、動きを止めたユークリッドを見つめる。

 やがて、時が動き出したかのように、ユークリッドは体を起こす。その顔色は悪く、きっと、嫌なものを見せられたのだろう、ということだけはわかった。

「何か見えたか?」

『はい。ダリアさんの言うとおり、あくまで断片的で、何一つ具体的なことはわからなかったのですが。でも』

「でも?」

『知りたい、と思いました。過去の僕のことを。いいえ、「知りたい」のではありません』

 ユークリッドは、喘ぐように言葉を紡ぐ。

『知らなくてはならない。立ち止まってなどいられない。僕の内側で欠けている部分がそう訴えるんです』

 その反応もまた、今までの試行ではないものだった。

 やはり、この試行は何かが違う。違う、ということだけははっきりとわかる。

 だが、今までと今回の試行で、一体何が違うというのか。

 未だその変化の原因がわからないまま、私はモニタの片隅に映る光点を確かめる。それは観測者にのみ見ることが許される索敵網、つまりユークリッドの周囲に存在する「お化け」の存在を表すものだ。

 その輝きが突然、爆発的に増えたことに気づき、背筋がぞくりとする。しかも、その光点はユークリッドの現在位置と重なるように輝いている……!

「ユークリッド! その場から離れろ!」

 まだ、何も見えていなかったはずのユークリッドは、それでも私の声に的確に応えて床を蹴った。今までの試行でも見せてきた異常なまでに強い脚力が、床にひときわ大きな波紋を広げ、その細長い体を宙に舞わせる。

 その瞬間、ユークリッドの足元に落ちていた影から、無数の人影が飛び出してきた。

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