Layer_1/ Childhood(2)
ユークリッドの反応は素早かった。「彼女」が飛び掛ってくる方向をどのように察知したのかはわからないが、私の曖昧極まりなかった指示を飲み込んで、反射的に右に避ける。
果たして、その判断は正しかった。
一瞬前まで君がいた空間を拳が貫く、鋭い風切りの音が私の鼓膜をも震わせる。
そして、薄く白い布を重ね合わせただけのような、何とも目のやりどころに困る服を纏った一人の少女が、裸足で床に降り立った。ぽおん、と床に光の波紋が広がる。
ユークリッドは体勢を低くし、腰の警棒の握りに手を当てたまま、厳しい顔で少女を見据える。
『あなた、は?』
それに対し、豊かな黒髪を頭の上で結った少女は、ぴんと背筋を伸ばして立ち、上段からユークリッドを見下ろして宣言する。
『ガーデニア・ガーランド。環境適応型人造人間ガーランドの失敗作、そして』
――露骨なまでの苛立ちを、あらわにして。
『あんたを、二度と目覚めなくなるまで殺し続ける存在よ』
一瞬、ガーデニアの姿が掻き消えたように見えた。いや、それは私の動体視力が足りなかったか、もしくはこのモニタが映像として彼女の動きを捉えられなかったかのどちらかだったのだろう。次の瞬間には、数歩以上の距離を空けて対峙していたはずのガーデニアが、ユークリッドの鼻先にまで迫っていた。
だが、ユークリッドは私の想像以上に冷静だった。これまでの試行とは比べ物にならないくらい正確にガーデニアとの間合いを測り、警棒を振りぬく。ヘッドフォンを通して耳に響く硬質な衝撃音、それは警棒とガーデニアの腕が交錯した音色だった。
『……っ』
いくら反応ができても、まさか生身で金属製の警棒と打ち合い、しかも圧倒するとは考えられなかったのだろう、ユークリッドは驚愕に目を見開いてたたらを踏む。逃すまい、とガーデニアが更に一歩踏み込むが、ユークリッドは後ろに身をそらしてガーデニアの腕をかわし、不安定な体勢ながらも体を捻って素早く彼女の足元を払う。
耳の奥に響く息を詰める音は、ユークリッドのものか、ガーデニアのものか、それとも私自身のものか。
ガーデニアの方も、ユークリッドから仕掛けてくるとは思わなかったのだろう、床に手をついたガーデニアの表情が微かに歪む。その隙に即座に体勢を立て直したユークリッドは、彼女に背を向けて迷路の中に飛び込む。
途端、空間が歪み、ガーデニアの姿が舌打ちの音と共に掻き消える。ユークリッドからは死角であったから、俯瞰する私と違って「消えた」その瞬間は見えなかったようだが、彼女の気配が遠ざかったのは感じられたのだろう、ほっと息をつく。
『今のは、一体……』
「彼女は、この階層で君の記憶の鍵を握る『守護者』だ。君の記憶はこの塔の中にばらばらに散らばっているのだが、それを統合するための鍵を握っているのが彼女だ」
と、一つ一つ、ユークリッドの記憶を取り戻すためのシステムを説明しながらも、滲む違和感を噛み締める。
ガーデニアの襲撃が、早くはないだろうか。
今まで、ガーデニアがユークリッドを襲撃してきたのは、探索を始めて、最低でも一つ以上の記憶の欠片を取り戻した後だったはずだ。ガーデニアの側にそんな決まりがあるのかどうかは知らないが、四回の試行で、突然ガーデニアがユークリッドを狙ってくるのはこれが初めてのことだった。
先ほどから、どうも勝手が違う、という感覚だけが募っていく。前回までの試行にも多少の違いは見受けられたが、今回ばかりは何かが大きく異なっている。それがユークリッドにとっていいことなのか、悪いことなのか、今の私では断ずることはできない。
それと、もう一つ。
ユークリッドの側にも、変化がある。
『各階層に散らばる記憶の欠片を集めて、守護者から課される条件を満たすことで、僕の記憶が戻る、というわけですね。そして、今回の守護者があの女性である……』
私の、どうにも要領の得ない説明を丁寧に咀嚼しようとしているユークリッドの姿、それ自体が特に奇妙なわけではない。この塔の仕組みを知らないのも、今までの試行と変わらない。案内人の言うとおり、彼の記憶もリセットされているのは間違いのないことだろう。
だが、それならば――。
「しかし、先ほどはよく反応できたな」
『先ほど?』
ユークリッドがこちらを見上げて首を傾げる。もちろん、ユークリッドから私の姿は見えていないはずなのだが、その赤い目の澄み切った輝きに射抜かれたような錯覚に陥る。胸の高鳴りを何とか抑えこんで、感情を声に滲ませないよう意識しながら言葉を伝える。
「彼女、ガーデニアが襲ってきた時だ。これは私のミスで申し訳ないが、私の指示では何がどこから来るのかもわからなかったはずだ。だが、君は彼女の攻撃を的確に受け止めてみせた」
そう、今までならば、成す術もなくガーデニアに葬られていたはずだというのに。それも、一度ではなく、何度も。
ユークリッドは、今、初めて気づいた、とばかりに目をぱちぱちさせて、それから右手に握ったままであった警棒に視線を落とした。
『自分でも不思議なのですが』
ユークリッドの声が、先の見えない迷宮の内側に木霊する。
『危険が迫っているということが、自然にわかったんです。それで、ほとんど無意識に武器を抜いていました。そこからは、何も考えなくても勝手に体が動く感じで』
「……なるほど」
ユークリッドの体には、あらかじめ常識や言語の他に「戦闘に関する経験」が刷り込まれている。これに関しては過去の試行でも同様だ。記憶を持たない君の視点からすれば「初めて手にする」警棒や銃を操る能力。
だが、それがあってもガーデニアの持つ圧倒的な力の前では真正面から打ち合うことはできなかった。ほとんどは、逃げながら、そして何度かは殺されながらも、彼女の試練に打ち克つ方法を試行錯誤してきた。
しかし、今ばかりは、ユークリッドはガーデニアから決して目を逸らさず、それどころか一度も見たことがないはずの彼女の動きを読みきったかのような挙動をしていた。彼自身は自覚をしていないようだったが――。
あの、と。ユークリッドが声を上げたところで我に返る。ユークリッドは、どこか不安げに白い眉を寄せて首を傾げていた。
『もしかして、抵抗してはいけなかったのでしょうか?』
「いや。抵抗しなければただ殺されるだけだ。抵抗し、生き抜き、彼女から鍵を得る方法を考えるのがこの階層の試練だ」
いけないな。先ほどから、妙に考え込んでしまってばかりいる。細かい事象について考えるよりも、彼の記憶を取り戻すことを優先すべきだというのに。私がユークリッドを不安がらせていては世話がない。
「……とにかく、まずはこの階層に散っている記憶を探していこう。ただ、彼女、ガーデニアへの警戒は怠るな。彼女自身の言っていた通り、彼女は本気で君を殺す気でいる」
殺す、と。ユークリッドは私の言葉を鸚鵡返しにした。その響きの強さを確かめるように。優しげな面立ちの彼にはどうしたって似合わないその言葉をもう一度繰り返したところで、ユークリッドは私に問うた。
『何故、彼女――ガーデニアさんは、僕を殺そうとしているのでしょうか』
「……それは」
その答えも、過去の試行から知っている。ただ、それはあくまで過去の試行の知識である以上、今の私から伝えようとしても、意味のないノイズとしてしか届かない。
そうでなくとも、彼女の思いは私の口から上手く説明することができない。私はあくまで観測者であって、ガーデニア・ガーランドと、過去の君であるヒース・ガーランドとの間に横たわる関係性を全て理解しているわけではない。
それと、もう一つ、私の口を縫いとめるものが、胸の奥にちりちりと燻っている。わかっているのだ、理性的に並べ立てる言葉なんて、結局はこの燻る感情を覆い隠すための言い訳に過ぎないのだ。
とはいえ、私の感情と、この塔に満ちる君の記憶とは何の関連性もない。だから、一つだけ確かなことを、言葉にする。
「それは、記憶を取り戻せばわかるはずだ。だから、今は前に進もう、ユークリッド」
ユークリッドは、素直に私の言葉を飲み込んだのだろう。『はい』と頷いて、警棒を腰に戻す。そして、目の前に伸びる道に視線を向けて、息をつく。
『それにしても……、綺麗な場所、ですね』
改めて、ユークリッドの目に映る世界を確かめる。
仄白く光る壁に囲まれた、無機質な通路。もしくは、迷宮。
確かに、曇りひとつない壁や天井も、ユークリッドの足元に広がる光の波紋も、美しいと思う。ただ、それ以上に、
「寂しくはないか」
――そう、思ってしまうのだ。
それはきっと、私個人の感覚に過ぎない。「観測」する者としては余計な言葉であるとも思う。それでも、言わずにはいられなかったのだ。
私には、モニタの向こう側に広がる世界はどうも寂しすぎる。これが君の記憶を取り戻すために用意された仮想空間だということは理解している。ただ、こんな場所に一人きりで佇むユークリッドを見ていると、胸が苦しくなって仕方ない。
仕方、ないのだ。
『寂しい』
ぽつり、呟いたユークリッドは、一歩、足を踏み出す。踏みしめた足の裏から広がる波紋が、床を伝ってゆくのをじっと眺めながら、ユークリッドは囁くように言った。
『ダリアさんは、この景色を、寂しいと感じているのですね』
「ああ」
『寂しい……、寂しい、ですか』
何度も同じ言葉を繰り返しながら、二歩、三歩と足を進めていく。その足取りこそしっかりしていながら、ユークリッドの表情はもどかしげであった。
『僕には、よくわからないのです。この景色を綺麗と思ったのは事実です。しかし、それ以上に、色々な思いが胸の中をぐるぐる回っていて』
ぽつり、ぽつりと。きっと、ユークリッド自身でも上手く整理できていないのであろう思いを、少しずつ言葉として組み立てながら、私に伝えようとしてくれているのが、わかる。
『ダリアさんの「寂しい」という言葉を聞いた時、少しだけ、僕の内側で絡まっていたものが、解けたような気がしたんです。ああ、これは「寂しい」なんだって、わかった気がしました。僕は、この景色を寂しいと感じている』
――けれど、きっと、それだけじゃない。
ユークリッドは言って、道の先を見据える。曲がりくねった、私でも全容を伺うことができない第一層の迷宮の、奥の奥を見通さんとするかのように。
『このもどかしさの答えがこの先にあるのなら。僕は、前に進もうと思います。どうか、僕を導いていただけますか、ダリアさん』
その真っ直ぐなまなざしに、私は胸の内に蠢いていた澱んだ感情が洗われるような心持ちになる。参ったな、本当は私がユークリッドを導かなければならないのに、今ばかりはこちらが導かれているような気分だ。
いや、今だけではないか。ユークリッドにそのつもりはないだろうけれど、この試行をはじめてこの方、君には救われてばかりだ。君の率直な言葉と、ひたむきな姿勢は、何が正しいのかもわからず思索の海におぼれそうになる私の意識を引き上げてくれる。
だから、口元に笑みを浮かべる。君に見えていないとわかっていても。
「ああ、もちろんだ。君が望む限り、私は君を導いてみせる」
ありがとうございます、と言葉を紡ぐ、君のはにかむような笑顔を受け止めるには、その方がいいと、信じているから。
今までとは何かが異なる試行、それでも私がやることは変わらない。ユークリッドの望みを叶えること、ただそれだけだ。その先に何が待っていようとも、君の望み通りに道を示す、それが観測者たる私のあり方だ。
ただ、この「違い」に意味がないとも思えない。何より、先ほどの案内人の反応を見る限り、彼らは「違い」に気づいていない――。
目を凝らせ、ダリア・バロウズ。
記憶を取り戻した君が何を求めるのか、今の私にはまだわからないけれど。
「行こう、ユークリッド」
『はい、ダリアさん』
ユークリッドの前に立ちはだかるものを見定めることこそが、私の役目だ。
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