Side: Euclid

Layer_0/ Reboot(1)

 音が、聞こえた。

 心地よいまどろみを劈いたその音を、僕は正しく判断することができずにいた。聞き覚えのある音だとは思ったけれど、ただ、それだけ。

 この音は一体どこから聞こえてきたのだろうか――。それを確かめるために、重たく垂れ下がっていた瞼を開く。

 途端、強烈な光が飛び込んできて、慌てて瞼を閉じる。目の奥がちかちかして焼け付くようだ。これからは反射的に目を開かないよう気をつけなければならない、と己に言い聞かせながら、今度は手で目を覆いながら、恐る恐る瞼を持ち上げる。

 まず、目に入ったのは天井だった。冴え冴えとした光を投げかけてくる天井に、灯りらしいものはない。天井そのものが光っているのかもしれない。

 目が光に慣れてきたのを確かめて、改めて辺りを見渡す。四方がつるりとした壁に囲まれているところから判断するに、どうやら、ここは小さな部屋であるらしい。そして、ベッドの上に横たわっている、ということを視覚と四肢に伝わる感触から判断する。

 いつ、こんな場所で眠ったのだろう。思い出せない。こんな無機質な部屋を見た記憶はないし、眠っている間に誰かに連れてこられたのかもしれない。誰か、と考えてみたところで心当たりがあるわけでも、なかったのだけれども。

 腹筋に力を入れて、ゆっくりと上体を起こす。覚醒したばかりではあるが、意識した通りに動いたし痛みも感じなかったから、身体に異常があるわけでもなさそうだ。

 なのに、何だろう、ちょうどうなじの辺りに集中した、ちりちりとした違和感――。

 その違和感を少しでも緩和できれば、と目の上を覆っていた腕をうなじに持っていこうとして、ふと気づく。ひょろりとして筋張った腕。真っ白で、いくらか血管が透けて見える腕。

 ――これは、僕の腕だっただろうか?

 両手を握って、開く。触感は正しく伝わっている。白くいやにしなやかな十本の指が僕の意思に従って動いているのは間違いない。そう、理解はできても、実感が追いつかない。一度胸の中に生まれてしまった違和感は、やがて「不安」に取って代わる。

「……僕、は」

 声。耳に響く自分の声は、僕の知らない声だった。

 知らない? 本当に? そもそも、僕は何を知っているというのだろう。

 この空間が「部屋」であること、握っては開いているこれが「手」であること、声の出し方、身体の動かし方。それらは思い出すまでもなく、はっきりと理解している。

 けれど、一番大切なことが、どうしても思い出せない。

 

「僕は、誰だ……?」

 

 ここにいる理由がわからない、どころではない。そもそも、僕は僕自身のことを何一つとして記憶していないことに思い至る。名前も出身も顔かたちも、何もかも、何もかも。

 記憶喪失。まず、思いついた単語がそれだった。「記憶喪失」という言葉自体、正しい表現ではなかった気はするものの、今僕が置かれている状況は、それこそ使い古された言葉こそがふさわしいだろう。何しろ第一声が「僕は誰」なんだから、古きよき記憶喪失のステレオタイプ極まりない。

 というか、それを「ステレオタイプ」だと記憶しているだけの記憶容量があるなら、自分の名前くらい覚えていてもよいものじゃないか、このポンコツ脳!

 自分で自分の脳味噌を恨み、頭をがしがしと掻く。もちろんその程度の刺激で記憶が戻るなら苦労はしない。

 とにかく、記憶を失っていることは認めるしかないとして、まずは僕自身のことと、僕が置かれている状況が知りたい。

 誰か、と呼びかけようとしたけれど、その言葉は喉の奥に飲み込まれたまま声になることはなかった。理由は簡単だ、見渡せばこの部屋に誰もいないことくらいはすぐわかる。この部屋にあるのはベッドが一つだけ。その他に目に入るのは真っ白な壁だ。

 ――そう、窓も扉も、存在しない。

 いやいや冗談きついですよ。扉がないって、記憶を失う前の僕は一体どうやってこの密室に侵入したというのか。というか、よく見たら通気口もないのだけれど、このまま右も左もわからないまま窒息死とか浮かばれないにもほどがある。

 いや、それならば寝ている間に窒息していておかしくない。つまり僕の目には完全な密室に見えるけれど、きっとどこかに、せめて他の空間に繋がっている穴くらいはないとおかしい。

 ベッドから裸足のまま飛び降りて、壁の感触を確かめようと手を伸ばし、

『おはよう』

「おはようございます……っ!?」

 反射的に答えてしまってから、慌てて辺りを見渡す。今の声は、どこから聞こえた?

 見渡したところで、もちろんこの部屋には僕一人。壁に触れてみても、ひんやりとした無機質な感触が指先に伝わるだけで、声の主の存在を感じ取ることはできない。

 更に混乱する僕をよそに、声はどこか安堵したような息をついて、ゆっくりと、子供に語りかけるようなテンポで言う。

『よかった、目が覚めたか』

 この一言で、やっと僕も声がどの方向から聞こえてきたのかを理解した。どうも、この声は天井から聞こえてきているらしい。もしくは、天井の、更に上か。スピーカーらしきものは見当たらないが、声は篭ることもなくはっきりと僕の耳に届いている。

 言葉のぎこちない硬さに似合わない、鈴のような響きを伴う女の人の声。

 僕の記憶にはない、声。

『気分はどうだ?』

「気分は特に問題ありません。しかし、ここは一体どこでしょうか。それに」

『それに?』

 聞き返されて、言葉に詰まる。こんなことを言ってもまず信じてもらえないだろう。笑い飛ばされてもおかしくない――と僕の脳裏にかろうじて残っているらしい常識が囁く。

 それでも、今のところ唯一、僕の言葉が届く相手なのだから、聞かないわけにはいかなかった。

 呼吸を一つ挟んで、声が聞こえてきた辺りをぼんやり睨んで問う。

「僕は、一体、誰なのでしょうか」

 その言葉は、僕の予想に反して笑い飛ばされることはなかった。ただ、小さな、溜息にも似た息遣いが僕の鼓膜を震わせただけで。

 一拍置いて、天井から声が降ってくる。

『一つずつ質問に答えよう。まず、ここはどこか、という質問だが、私も君の位置情報に関して正確なことは何一つ答えられない。私が気づいた時には君はそこにいた』

「そ、そう、ですか……」

 何だか拍子抜けしてしまった。こんなタイミングで話しかけてきたのだから、てっきり、僕をここに連れてきた張本人かと思っていたのに。

『そして、君が何者かという質問にも正しく答えられない。君の不安を煽るようなことを言ってすまないが』

 ……正しく答えられない、か。

 正しさを追求しなければ、僕について知っていることはあるのだろうか。どこか、歯にものが挟まったような言い回しから、つい邪推せずにはいられない。

 けれど、それをこの人に問いただすのは、何となく、気が引けた。

 僕自身を取り戻さなければならない、と焦がれるように願う反面、胸の内の冷え切った部分が警鐘を鳴らすのだ。恐怖。そう、これは恐怖と言うべきなのかもしれない。

 知るべきではない。忘れたままでいいではないか。忘れたいと思うだけの理由が、かつての僕にはあったのだ。だから、きっと、暴くべきではない――。

 どちらも、僕の偽らざる本音だ。だから、今この瞬間はそのどちらも選ばずに、別の疑問を投げかける。

「……それでは、もう二つ質問させてください。あなたは、誰ですか? どこから僕に話しかけているのですか?」

 ふ、と。小さく息をついた気配が耳に届く。

『私の名は、ダリア。ダリア・シャール・バロウズ』

「ダリアさん、ですか」

 記憶の片隅に残っていたイメージを呼び起こす。ところどころが擦り切れた図鑑の中で咲き誇っていた、鮮やかな花。ダリア。声だけで姿は見えないけれど、きっと、花を思わせる美しい女性なのだろうな、と想像が膨らむ。

「たくさんの花びらを持つ花の名前ですよね。素敵な名前です」

『……あ、ありがとう』

 もしかして、僕は変なことを言ってしまっただろうか。天井からの声が急にしぼんでしまって、にわかに不安になる。

 さっぱり記憶にないけれど、何となく、僕は昔から女性の扱いが苦手だったような気がするのだ。機嫌を損ねるようなことを言ってしまった可能性に怯えていると、しばしの沈黙の後に、ぎこちない言葉が再び降ってきた。

『私が何者か、を上手く説明するのは難しい。君にわかる表現を使うなら科学者、だろうか』

 よかった、声から判断する限り、機嫌を損ねさせてしまったわけではなかったようだ。ならば、さっきの戸惑いは一体何だったのだろう、と思わなくはなかったけれど。

『私と君は、全く別の空間に存在している。君から私の姿は見えないと思うが、私は今、手元のモニタを通してこの部屋全体を観測している』

「観測?」

 天井をじっと見つめてみるけれど、確かにダリアさんの言うとおり、僕を観測しているはずのカメラの姿は見つけられない。

 それでも、「見られている」という気配はどことなく感じられる。天井からというよりは、身体全体があちこちから見つめられているような不快感。観測という言葉を聞いてしまって、意識しすぎているだけだと思いたい、けれど。

「……僕は、何か、悪いことでもしたんですか?」

 つい、聞かずにはいられなかった。密室に閉じ込められて、絶えず誰かに見られているような状況など、そのくらいしか思いつかない。

 しかし、ダリアさんは『いや』と僕の言葉を否定する。

『それは違う』

「なら」

『……と、思う』

「不安にさせないでくださいよ!」

 やめてくださいよ、僕、何も覚えてなくてただでさえ不安なんですから。

『先ほど言っての通り、私はただそこにいる君の姿を観測しているだけだ。そもそも、君の姿を観測している仕組みも、私にはよくわかっていないんだ』

 それは、どういうことだろう。普通に考えれば、観測者や監視者というのは、対象の情報をある程度把握しているものだと思うが。そうでなければ、見ている側も対象の「何」を見るべきなのか、何もわからないではないか。

 駄目だ、把握できる情報が少なすぎる。ダリアさんの声を聞く限り、嘘をついたり誤魔化したりしている風でもないのが、更に僕を混乱させる。せめて、声だけでなく直接話ができるなら、もう少しわかることも増える気がするのだけれど。

「あの、ダリアさん。こちらに、あなた自身が来ることはできないのですか? もしくは、僕がそちらに向かうことは――」

 この状況から考えるに、後者は絶望的に思える。けれど、ダリアさんの答えは意外なものだった。

『現時点では両者共に不可能だ。だが、君を、今存在している場所からこちらに呼び寄せることは可能なはずだ』

「え……っ?」

 ダリアさんの、淡々とした声が、ほんの僅かに熱を帯びた気がした。

『君がその空間に存在し、観測者を必要としているのも、全ては君をこちら側に呼ぶための試行に必要なことだと確信している。そのためなら、私はいくらでも協力しよう』

「……試行?」

 試行。同一の条件のもと、繰り返し実験や観測を試みること、だったはずだ。

 つまり、僕がここにいるのは、何かしらの実験の一環だというのだろうか――?

 そう思った瞬間、突然、今まで継ぎ目一つ見出せなかった壁に一枚の扉が生まれ、それが音もなく横にスライドする。

『さあ、部屋の外へ。君が失ったものが、そこにある』

 ふらり、と。ダリアさんの声に導かれるように、一歩を踏み出して。

 僕は、「それ」を目に焼き付けることになる。

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