3 白く霞む森の奥で

 森の奥深く。まだ霞が消えない涼やかな空気の中、木々の隙間から差し込んだ光で水面がキラキラと輝く小川のほとり。どこか幻想的なこの場所に佇む赤い屋根の小さな水車小屋の前で、赤ずきんちゃんは足を止めた。


「ここが、わたしのおばあちゃんのおうちだよ」


「案内してくれてありがとう、赤ずきん」


「ううん、わたしも、久しぶりにおばあちゃんに会いたくなっちゃった」


 少女はにこっと笑った。赤ずきんちゃんの案内で、僕たちは無事に彼女のおばあさんの家にたどり着いたんだ。そして僕は思い出してしまった。以前この想区に来たとき、僕たちはここでカオステラーとなった赤ずきんちゃんを倒したんだ――苦い思い出。記憶が僕の心を少しだけえぐった。胸が苦しくなった。


 もしこの小屋におばあさんが元気でいるのなら、本来の物語の中で赤ずきんちゃんを襲おうとしたオオカミがまだおばあさんを襲っていないということだ。もしくは――。


「おばあさんって人がカオステラーにりつかれてないといいんだがな」


 タオがボソっと僕に耳打ちをした。


「うん、そうだね……」


 僕も耳打ちでそう返した。けれど、まさか「おばあさんがオオカミに襲われていてほしい」などと思う訳にもいかず、もやもやしたままでドアを叩きに向かう赤ずきんちゃんについて行った。


「おばあちゃん、わたしだよ! おうちにいたら開けて!」


 赤ずきんちゃんは細い腕で控えめに三度ノックをした。彼女なりの精一杯の大声だったようだけど、残念ながら水車小屋の中で暮らしている彼女のおばあさんには声が届かないらしい。


「おばあちゃん……お出かけしちゃってるのかな?」


 赤ずきんちゃんはレイナと目を合わせるために少し顔を上にあげた。日の光を浴びた彼女の顔を見て、僕は確信した。


 以前の彼女とは違う。カオステラーとなっていたとき、この子はこんなに無垢であどけない表情をしてはいなかった。もっと暗い目で、どこか殺気だっていたんだ。今日の赤ずきんちゃんは僕やタオを怖がっているとはいえ、年相応のキラキラした目をしている。この子はカオステラーなんかじゃない。


「返事が無いわね……赤ずきん、ドアを開けて中の様子を見ても良いかしら?」


「えっと……どうかな」


 レイナの提案に赤ずきんちゃんはあからさまに躊躇ちゅうちょした。おばあさんが不在のなか勝手に家に上がり込むことに抵抗を感じるのは当然のことだろう。


「姉御……そういうところです」


「なによ」


 レイナは突然シェインに話しかけられて、少々不愉快な顔をした。


「そうやって考えなしにどこでも土足でズカズカ進んで行こうとするから、いつもカンタンに迷子になるです」


「まいご?」


 赤ずきんちゃんはレイナを見上げて首を傾げた。


「あぁぁぁ!! 赤ずきんはそんなこと聞かなくていいの!! はい、聞こえなかった! 何も聞こえなかったわよね!!」


「う、うん、聞こえなかったよ、お姉ちゃん。えへへ」


 赤ずきんちゃんはけろっとした顔で大嘘をついた。だんだん僕たちのノリについて来られるようになっているみたいだ。少しでも慣れてきたのならそれで良かった。それでもまだ、僕とタオはできるだけ彼女を刺激しない場所を選んで歩いたり立ち止まったりするようには配慮している。


「おいおい、勘弁しくれよ、お嬢。ガキンチョに気ぃ遣わせてどうすんだよ」


「うっさいわね! ほら! ドアを開けていいわよね!?」


「えっと、うん、わかった。わたしが、おばあちゃんが心配だから開けてってお願いしたことにするね」


「赤ずきんさん……」


 彼女は賢い子だ。


 以前来たとき、猟師のおじさんは僕たちに、赤ずきんちゃんは「賢い子」なのだと言った。だから僕は、カオステラーの姿となった彼女に「君は賢い子なんだろう?」と問いかけた。


 カオステラーやヴィランとなってしまったひとびとに説得は通じないんだと知っているけれど、『調律』を終えて全てを忘れたはずの彼女が猟師さんに、自分はこう見えても賢い子なのだと告げていたのがとても印象的だった。


 『調律』は悪夢をリセットするものだけど、現実に起こったことを全て忘れてしまうというわけでもないのかもしれない。僕はそう信じたい。言葉のもつ強い力は、人の心をどっちにでも傾けられるんだ。言葉だけで絶望させることができるのなら、言葉だけで希望を与えることもできるはず。カオステラーがひとびとを言葉によって恐ろしい運命に導くのなら、僕は言葉によってみんなに幸せな道を示してあげたい。……傲慢、かもしれないね。でも、赤ずきんちゃんを見ているとなぜだかそんな気持ちが湧いてくるんだ。


 おばあさんの家のすぐ傍に到着していくらか表情が和らいだ赤ずきんちゃんは、レイナが手を掛けたドアノブが動くのをじっと見ていた。


 鍵はかかっていなかった。ドアに少し隙間ができると、赤ずきんちゃんは今日一番の笑顔になって「おばあちゃん!」と明るい声で呼びかけた。そして、次の瞬間、表情が一転したのだった。


「……え?」


「! 赤ずきんさん!?」


「どうしたの、赤ずきん」


 シェインは敏感に異変を察知して少女に駆け寄り、レイナは僕たちや彼女自身にも中の様子が確認できるようにドアをさらに大きく開いた。僕とタオも慌てて駆け寄り、中を覗き込んだ。


 水車小屋の中は荒れに荒らされていた。これまで表にいた僕たちから見ることはできなかった、玄関の反対側にある窓が特に大きく壊されていた。


「これ、どういうこと……?」


「おばあさんの気配どころか、ヴィランの気配すらしませんね……既に……」


 レイナもシェインも呆然と立ち尽くしている。僕やタオだって、もうどうして良いのかわからなくなっていた。そんな中、かたかたと下唇を震わせていた赤ずきんちゃんは。


「おばあちゃん!!」


 そう絶叫すると、小屋の中に駆け込んだ。まずベッド。次にクローゼット。バスルームやキッチンも全て確認し始めた。けれど、当たり前のようにおばあさんは見つからなかった。


「赤ずきん……!」


「おばあちゃん……おばあちゃん、どこ……?」


 レイナは、過呼吸になりながらも家の中をふらふらと捜索し続ける赤ずきんちゃんを背後から抱きしめた。


「聞いて、赤ずきん。私は調律の巫女。この物語を壊そうとするカオステラーを探し出して『調律』を施せば、あなたのおばあさんは……」


「うそ……うそ、よ……」


 レイナの言葉が届いたのか届かなかったのか、赤ずきんちゃんは低い声でそう呟いた。泣いているわけではなさそうだ。これはきっと――怒り、絶望、そんな感情に飲まれているということなんだと思う。そして泣きながら、こう叫んだ。


「全部嘘だよ! 優しい言葉をかけてくれたと思ったのに! 怖いオオカミさんから助けてくれたと思ったのに! 全部わたしに、おばあちゃんを襲ったということをわざと見せつけるためだったのね!」


「違うわ! 嘘じゃないわよ……赤ずきん!」


 抱きかかえたまま離そうとしないレイナを無理に振り払おうともがく赤ずきんちゃん。もう僕たちの言うことには耳を貸してくれないだろう。誰もがそう直感した。


 僕やタオと一緒に入り口付近でその様子を見ていたシェインが、覚悟を決めたように目を閉じて小さく息を吐いた。


「赤ずきんさん、おばあさんの家に行こうと言ったのはシェインです。悪いのはシェインです。ですから、姉御の言うことはどうか、少しでも聞いてあげてください」


「嘘。もういいわ! 悪いオオカミは男の人だけじゃなかったのね……。わたし、もう、誰も信じない……もう、誰も……っ」


「赤ずきん!」


「赤ずきんさん!」


 埒の明かない状況だったけれど、こんなときでもどこからともなくヴィランが現れる。破壊された窓や開きっぱなしのドアから入って来るヴィランたちは、徐々にその数を増していった。外は霞のせいでよく見えないけれど、ぼんやりした中にいくつか黒い影が見える。あれが全てヴィランだとすると、敵は物凄い数だ。


「うわああああぁぁぁぁぁ!!!」


 赤ずきんちゃんは狂ったように叫び、レイナの腕から抜け出そうともがき続ける。


 レイナとシェインは赤ずきんちゃんをどうにか正気に戻そうと奮闘していてなかなかヴィランに気づかない。


「二人とも! ヴィランが……!」


 大声で呼びかけ、気づいてもらえるよう試みたものの、向こうは向こうでそれどころではないらしい。


「あいつらは放っとけ。ガキはあの二人に任せて、ヴィランはオレらで片すぞ。いいな?」


「ふ、二人で……!?」


 僕が驚いて裏返った声を出すと。


「なんだ? まさか、今さら多勢に無勢だとでも言いたいのか? いつもよりノルマが少し多いだけだろ」


 タオは真剣な表情だった。


「ノルマって……――わかったよ、二人が安心して説得できるように、行こう!」


「おう、行くぞ!」


――――


 どうにか襲い来るヴィランたちを鎮めた僕とタオは、二人で顔を見合わせた。


「タオ。今のヴィランも、少しいつもと様子が違ったよね?」


「……ああ。さっきガキンチョに向かって一匹で襲い掛かってきた奴と同じようなのがいたな。侵入者であるオレらを攻撃するとか、『空白の書』の持ち主になった赤ずきんがストーリーを乱す動きをしたことで止めにかかっているんならわかるが……」


「そうじゃなく、本気で赤ずきんさんの喉笛を狙って噛みつこうとしていましたね」


 いつの間にか、僕とタオが立ち話をしているすぐ近くまでシェインが来ていた。


「シェイン。ガキはもう大丈夫なのか?」


「大丈夫ではないですけど、だいぶ落ち着いたような」


「そっか。それなら良かった……というわけじゃないけど、ありがとう、シェイン。レイナも」


 僕はひとまず、赤ずきんちゃんを落ち着かせてくれた二人にお礼を言った。確かに、赤ずきんちゃんはまだレイナにぎゅっと抱きしめられてその肩にもたれかかり泣いているけれど、さっきまでの状態と比べれば普通に戻ったのは一目瞭然だった。


「そこで、タオ兄と新入りさんにお願いです」


 シェインはそう切り出した。


「お願い?」


「ええ。シェインたちはもう少しここで赤ずきんさんの様子を見ていたいと思います。けど、あれだけ大勢のヴィランが来たということは、カオステラーがいよいよ動き出した可能性もあるです」


「その通りだな」


 タオは真剣な表情で相槌を打っている。


「姉御は、赤ずきんさんのお母さんあたりがのではと見てます」


「そ、それってつまり……」


「シェインたちもできるだけ早く追いつくので、赤ずきんさんの家のある集落に、先に向かっていてもらえませんか」


 それを聞いて一瞬固まったのは僕だけではなかった。


「おいおい……まさかそれ、オレたち二人でカオステラーを探して倒せっつってんのか!?」


「……場合によっては。でも多分、間に合うので」


「た、多分って……」


 僕はかなりあたふたしたと思う。けれど、仕方ないよね、タオでさえも納得できないような受け答えをしているんだし。


「シェイン的には、タオ兄の相棒が新入りさんということになるので気分があまり乗らないんですけど、これは姉御の考えなので」


「お嬢か。あーあ、じゃあ仕方ねぇな」


 タオは少し反り返って伸びをすると気合を入れるように右の肩を二、三度回した。


「ということで新入りさん、くれぐれもタオ兄に迷惑かけないように頑張ってくださいね」


 シェインは僕の方を向いて微笑んだ。


「うん……シェインも、赤ずきんちゃんをよろしくね」


 僕は眉を潜めたまま、シェインにそう言った。赤ずきんちゃんのことが心配でならない。けれど、僕が行ったところであの子を慰めてあげるわけにはいかないんだ。あの子は、僕のことを恐れてしまっているから――。


「坊主、道、覚えてるか?」


「うん、何となくはね」


 僕はできるだけ自信があるように見えるように頷いて見せた。


 正直、赤ずきんちゃんを残して行くことはしたくない。けれど、これが今の僕に出来る唯一のことなんだ。それくらいはわかっているつもりだ。


 少女を直接助けることが出来ない以上、せめて僕は、赤ずきんちゃんを支えているレイナとシェインの役に立とう。そう決めたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る