5. 彼女の声は聞こえない

「あれが欲しい」と和也はのたまった。

「は?」

「聞こえなかったのか。『あれが欲しい』と言ったんだ」


 俺は呆れた目をすぐ横の青年へ向けた。

 真っ赤なソファーに足を組み座る和也は、先ほどからテレビに釘付けだ。

 こちらを見もしない栗色のまるい頭を、どうせバレないだろうと睥睨へいげいしてやる。

(今度は何を言いだすのやら)

 俺の上司である和也は、時々こうして突拍子もなく何か要求してくることがある。

 そのたいていが無理難題であり、つきあわされるはめになる俺は今まで散々な目にあってきていた。

 急降下するこちらの機嫌には構わず、和也はさっきからご機嫌だ。

 栗色の髪に白くなめらかな肌、甘い微笑みの浮かぶ口もと。悪戯っ子のように目を輝かせている以外は、こいつは十五歳にしては大人びてみえる。

 黙っていれば美青年でも通るが、その中身は見た目ほど良くはない。一見人畜無害そうなのに、和也の興味は武器と金銭にしか向けられない、冷血無慈悲でビジネスライクな人間だ。

 そんな奴が、普段は一瞥いちべつもしないテレビなんてものを熱心に見ている。いったい何をそんなに見ている? 俺は嫌な予感がしてテレビへ目をやった。

 画面はちょうどCMだった。

 清涼飲料水をがぶ飲みする女優が大写しになっている。夏らしく季節柄にあい爽やかなコマーシャルだとは思うが、和也が「欲しい」と言ったのはたぶんこの商品のことじゃない。清涼飲料水なんて、簡単に手に入るものに和也が執着するはずがないのだ。

 だとすれば、CMの前に映っていた歌番組のことか――そう、こいつは珍しくも「歌番組」なんてものを見ていた。

 なんとなくそう察しがついたが、俺は気づかないふりをすることにした。


「あの飲料水を買ってこいと? かしこまりました」

「違う」

「それでは、あのCMの女優のサインでも頂いて参りましょうか」

「――お前、分かって言ってるな?」


 ようやく和也はテレビから顔をこちらへ向けた。

 黒スーツに黒シャツといった出で立ちのせいで年より大人びて見えるが、こうして上目になると相応の幼さものぞく。和也はとびきり整った顔を意気地の悪い笑みにして、テレビを顎で示してきた。

「欲しいのはあれだ」

 あれと示された先でCMが終わり、また歌番組がはじまった。

 そこに映っていたのは、今をときめく世界の歌姫「メイ・セプテンバー」だ。

 つやめく黒髪を無造作になびかせ、セーラー服姿の彼女が屋外ステージに上がると、画面内から割れんばかりの歓声が起こった。和也が見ていた番組は「メイ・セプテンバー」の凱旋公演中継だった。俺はため息をすんででこらえ、苦しまぎれに言う。

「『あれ』と言われましても。彼女のCDですか、サインでしょうか?」

 それともコンサートがお望みで、とあくまでしらを切りとおすと、その目がすぅと細まる。口もとが薄い笑みになるのを見て、知らず生唾を飲んでしまった。

(『あれ』と言われたって、無理に決まってるだろ)

 和也が所望したのはおそらく「メイ・セプテンバー」本人だ。けれどそれは厄介にすぎるし、そんなことできっこない。仮に連れてこいと言われたって無理なのだ。

 なにしろ彼女は『神の息吹ブレス・ド・デォーヴァ』、世界が誇る歌姫なのだから。

 メイ・セプテンバー――限界を超える音域と透明な声で世界の政治家をも魅了する、まさに選ばれし才能の持ち主。

 近年では国家からの要請で「平和の使者」として戦地で歌うこともあると聞く。

 危険な区域に赴きその歌で、戦争を鎮静化させたという実話があるくらいだから恐れ入る。彼女の待遇が国賓なみでそのガードがかたいのも、ビップであるからして仕方ない話だ。

 俺が黙っていると、こちらをじっと見る和也の視線を感じた。らんらんと輝く目にはすでにゆるぎない決意があって、俺はものすごく嫌な予感がした。こうなるとこいつは絶対に意見を変えないのだ。

「俺はあれをもらう。もう決めたことだ」

「うっ……」

 薄らと笑う和也に俺は声がでなかった。

(もらうとは?)

 いったいどういった意味で、嫁にもらうということか。しかし尋ねるだけの余力は俺にない。なにしろ和也が『欲しい』と言ったのは世界的に重要な歌姫、メイ・セプテンバーであり、その周囲には当然厳重なガードがついている。SPだけでなく彼女の行く先には警察もわんさといることだろう。そうしてかくいう和也はといえば、警察とはにらみ合う立場にいるのだ。その職業は――。

「なぁに。なにも国会議事堂を爆破しろとか占拠しろとか、無茶を言っているわけではない。あれに近づく、ただその一瞬があればいい。簡単だろ?」

 妖艶に微笑む美青年は、俺の仕える上司であり、そうして世界に指名手配されている裏社会の総締めこと……つまりは武器商人のボスなのだった。


 

 ひとつ言っておかねばならない。和也は十五歳で、普通なら義務教育をうけている年ごろだ。その特殊な生い立ちにより学校へこそ通っていないものの、独学で大抵のことはマスターしてしまっている(たとえば和也は九ヶ国語をたしなむが、これはいまや翻訳機を使えば良いだけなので本人いわく趣味である)。

 そこへきて俺は十六歳だが、同じく学校へは通っていない。「和也のボディーガード」という仕事に学校は必要ないので、まあ問題がないのだ。

 長々と何が言いたいかというと、俺と和也はふたりとも未成年だ。夜遅くに連れだって外出すれば、それを見咎められる可能性がある。たとえばほんの少し近くの繁華街へ行くだけなら問題なかろうが、それが警察のびっしりと張り付くメイ・セプテンバーのコンサートならどうだろう。1メートルおきにガードマンや私服警察が配されるぴりりとした、厳戒態勢の真夜中の劇場、その廊下をふたりだけで歩いていたならば。

 俺は横を歩く和也をちらりと見てみる。

 その顔立ちの幼さを隠すため、和也には上下黒のシックなスーツを着せてある。

 インソールの入った革靴で身長をかさ増しして、顔を隠すため灰色のサングラスをかけさせた。とても未成年には見えない、まさに俺のコーディネートと苦労のたまものだ。ついでに和也が指名手配犯であるのも警察の目から誤魔化せていれば良いのだが。

 かたや俺はといえば、元々身長が高く実年齢より大人びて見えるので、これまた普段から着用している黒いスーツで充分だった。

「じろじろ見るな。怪しいやつめ」

 ひとり悦に入っていた俺に向かって鋭く文句が飛んできた。いつもより目線が高くなっているので倍増しで腹立たしい。けれど怪しい挙動は慎んだほうが無難という謹厳だと受け取っておくことにする。壁際に姿勢よく立つ警官の目がこちらを見たので、俺は自然な仕草で前を向いた。

「あったぞ。Cの6、ここだ」

 俺が警官の圧力に耐えきれず挙動不審になる前に、幸い和也が予約していた個室を見つけた。今宵のコンサートは一般席とは別に個室から鑑賞できる席がある。俺はセーフティ的な面からそちらを選択していた。あまり人目につきたくない……ついでに警察の目にも。

 わずか一畳ほどの個室にはゆったりとした椅子が二脚、舞台の方へ向き並んでいる。内装はすべて赤で統一され、この個室の値段に見合う豪華さを演出していた。

 中へ入り扉を閉めると、ようやくひと息つくことができた。個室とはいってもオペラハウスの2階に似て、バルコニーのような造りだ。けれど廊下とは扉一枚で隔たれており、プライベートな安心感がある。

「早く席につけ。そろそろ始まるぞ」

 和也はさっさと席に着き、サングラスを外して喜色満面だった。そんなに今日のコンサートが楽しみだったのか、あるいはメイ・セプテンバーの生歌を聞けるのがよほどに嬉しいのかもしれない。俺はしばらく個室からの脱出ルートを探して、周囲に危険がないのを確認してから席に着く。

「遅いぞ」と文句をたれた和也は身を乗り出し眼下のステージを覗きこんでいた。危険はないだろうが、下からあまり目立ってもよくない。咎めようとした瞬間に会場の明かりが落とされて俺は口をつぐむ。開演の合図だった。

 わっと黄色い声がさざ波のように広がる。もっとがやがやした雰囲気になるだろうと想像していたが、開演の合図があってからも場内は静かだった。ふつうのコンサートとはまるで違う――それを強く実感したのは、ステージの赤幕が上がりメイ・セプテンバーが登壇した時だった。

 しん、と静まりかえった。

 水を打ったように声援や歓声ですら聞こえない。

 音が消えた。

 それは比喩でなく、本当に誰もが息をひそめている。

 完璧な無音の世界で、メイ・セプテンバーはゆっくりとスタンドマイクに手を添える。今いる2階席からだと遠すぎてその表情まではよく見えないが、彼女は今日もトレードマークのセーラー服姿だ。

 濃紺の襟に赤いスカーフリボン、白シャツに紺のスカート。

 長い黒髪を無造作に流して、視線を真っ直ぐ会場へすえている。そうして彼女の音楽が始まった。



 それはいわく形容しがたい音だった。

 完璧な無伴奏でバックバンドもピアノもない、ただの声。

 しかしそれだけで満たされる、完璧な音色になっている。

 たとえて言うなら清流の響きか。

 あるいは虹か霧を音にしたら、こんな具合になるのかもしれない。

 とにかく俺は人智をこえた、こんな質感の「声」を聴いたことがない。

 それは暴力的に美しい。全身の支配権を渡すように迫られるほどの――まさに天上の歌声だ。世界的に彼女が支持されるのもわかろうというものだ。

 彼女のステージには何の演出も施されていない。明かりも変化せず伴奏が始まるわけでもない。メイ・セプテンバーがただひとりで歌っている、それだけですべてが完璧なのだ。

 俺はぼんやりと音の快楽に浸りながら、和也を横目で盗み見た。

 彼女が登壇したあたりで、奴はオペラグラスをそそくさと取り出して熱心にのぞき込んでいた。さぞかし間抜けな顔で歌に聞きほれているだろうと思ったのだ。なにしろ「あの」和也が、ここまで女性に入れ込むことは珍しい。

 冷徹・非情・ぶっきらぼうで、今まで武器と金銭のことしか頭になく、まるで非人間なありさまの和也だったが、世界の歌姫にはさすがに骨抜きになってしまったか。奴にもついに武器や金銭でなく、人間に魅力を覚えるまっとうな感覚が芽生えたのだろう、それならとても喜ばしいことだ。俺は後でからかってやろうと思い、そのつもりで和也の顔を見たのだ。

 しかし、奴の表情は険しかった。

 真っ白な顔で耐えるようにステージの方を睨みつけている。拳を固く握り、額には脂汗が浮いていた。尋常ではない様子に、俺は歌の余韻から頬を張られた気がした。

「大丈夫ですか?」

「っ、大丈夫だ、もうすこし……っ」

 堪えるようにぎゅっと寄せられた眉が苦しげだ。とても普通の状態ではない。体調が悪かったのだろうか? 不調をおしてまでコンサートにわざわざ出かけてきたのか? ありえない話ではないが、それにしても急に苦しみ始めたように思える。

「体調が悪いなら、今日のところはもう」

 立ち上がりかけた俺の腕を、和也は尋常でない力で押しとどめた。

「まだだ――! 俺はまだ……負けない、っ」

〝まけない〟?

 聞き返す前に和也は口許を手でおさえ、前かがみになった。

「和也様!?」

 さすがにこのままにしておくわけにはいかない。俺は力の入らない和也を半ば背負うようにして、急いで近くのトイレへ向かった。

「和也様、大丈夫ですか!? 和也様!」

 和也は青ざめた顔で息も絶え絶えだった。廊下に出て小走りで移動する耳に、遠くからメイ・セプテンバーの平和を呼びかける歌が響いてくる。


 ――武器を捨てあなたのために。欲を捨てもろ人のために――


 和也はよろつき歩きながらも、青ざめた顔でついに両耳を塞いだ。歯を食いしばり、まるで急所を撃たれた人間のような表情をして――。



 トイレの個室へしばらくこもっていた和也は、すこしだけマシな顔色で出てきた。

 洗面台で顔をバシャバシャ洗っているのを見て、俺はほっと胸をなでおろす。予定より早い帰宅の手配をしようとしたとき、けれど鏡越しに和也が視線でそれを制した。和也は笑っていた。

「やはり。あれは逸材だった」

「はあ……体調はもう良いのですか?」

 俺としてはすぐに帰る手配をしたいところだ。当初の予定では、和也はこれからその身を少しだけ危険にさらす。いくらボディーガードの俺がいると言っても、万全でないなら今日のところは大人しく帰りたいと思う。けれど当の本人は帰る気なんてさらさらないようで、洗面台によりかかり首をかしげている。

「どう思う?」

「は――」

「あの女の歌だ」

「どう、と言われましても」

 非常に美しい、としか感じられなかった。何を言わせたいかしらないが、メイ・セプテンバーの歌声は人生で聞いたどのメロディより秀逸だったとしか答えられない。 俺はあまり音楽に詳しくないし、クラッシックやポップスですら聞く習慣がない。 けれどあの完璧さはわかる。

 聞いているうちに思考が溶かされていくような、音に支配されるあの感覚は――あれこそが『神の歌姫ブレス・ド・ディーヴァ』と呼ばれるゆえんだろう。

「つまりはそういうことだ、察しろ」

 俺の感想を受けて、和也は小馬鹿にしたように鼻で笑う。いい加減にその整った顔立ちが憎らしく思えてくるが、いつものことだと俺は思いなおした。

「どういうことです?」

「考えてもみろ。ただびとが、歌を歌うだけで紛争地のいざこざを治めることができるか? 歌だぞ? 民族同士が虐殺をくりかえすような因縁深い土地柄で、俺が武器を大量輸出したあの国で、あの女がひとつ歌えば戦争がなくなるなんて、そんな奇跡が本当に起こるとお前はそう納得しているのか?」

「それは……実際、そういうことがあったと、ニュースで聞いています。納得も何も事実なのでは?」

 メイ・セプテンバーが国連の要請を受け、海外の紛争をその歌ひとつで治めてみせたのは事実だ。それは脚色でも何でもなく、ジャーナリストやネットを通じて確かに複数人が報道している。彼女はその歌で、たしかに人々の紛争を鎮めているのだ。

「あれは武器だ」

 和也は目をきろりと光らせた。そのにやつく笑みは、大きな商談の前や最新鋭の『商品』を見たときと同じものだった。

「どうするんです?」

「決まってる」

 俺は帰り支度を諦めた。



 時刻は明け方に近かった。うす暗い駐車場へ、メイ・セプテンバーはSPを数名だけ連れて降りて来た。コンサートが終わり、これから車でホテルへ移動するのだろう。

 ワンボックスカーに一歩乗り込もうとした彼女の後ろへ回り込み、俺は手際よく黒服のSPたちを全員ノックアウトする。鈍い音とともに数秒で男たちが倒れていき、ようやく彼女は事態に気がついた。

「フリーズ」

 俺のその声にも、振り返ってきた彼女は冷静だった。

 こちらが構えてみせた銃身へ、静かに凪ぐ両瞳を向けてくる。それはどこか正反対な和也の気性の激しさを連想させた。彼女は澄み切ったこげ茶の瞳を瞬かせて、ゆっくりと言う。


『銃を降ろしなさい』


 俺はそれを無視した。

 彼女を無理やり黒のボックスカーへ引っ張っていく。車の中へ彼女を押し込めば、向かいで足を組み座っていた和也が満足そうに笑った。

『わたしを、解放しなさい』

 メイ・セプテンバーが和也へそう言うのが見えた。

 和也は小首をかしげ、自らの耳を示してみせている。驚いた表情の彼女を確認してから、俺は車を発進させた。なんの障害もなく車は地下駐車場を抜け、地上の町を走っていく。

 運転を自動モードにセットして、俺は和也の隣、後部座席へと移動した。

 追っ手が来るまでさほど時間はないかもしれない。隙なく周囲に視線を配りつつ、けれど視線の大半は和也と、その向かいに座る彼女の口許へ向いていた。和也に言われた通りあらかじめ特殊な耳栓をつけておいたので、音が全く聞こえないのだ。そのため、俺と和也は会話を読唇術にたよるしかない。

「油断したな。自分の声に過信したか」

 和也が得意げにそう言うのが見えた。メイ・セプテンバーは黙っている。間近で見てみると、彼女の造作は和也とは反対の性質をもつように思えた。

 染みひとつない肌、凛とした面立ち。和也が嫌味なくらいの美青年だとすれば、メイ・セプテンバーはどこかもろさのある美しさを持っていた。こうして間近で見てみると、自分たちと同じ年頃の普通の少女にも見える。和也は構うことなく喋り続けた。

「お前の声――初めて耳にしたとき、とても不思議だった。ただの歌で、人の声でこの俺に興味をひかせるなんて。そんなことがあり得るのか、自分が変わってしまったのかと、そう不気味に思ったが」

 俺は和也が音楽に興味を示したのを「まっとうな感情の芽生えだ」と喜ばしく思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。

 メイ・セプテンバーは沈黙を通していた。落ちつき払ったその無表情は何を考えているのかわからない。和也だけが機嫌よくしゃべり続けている。

「しばらくしてから気づいたよ。お前はその歌で、紛争地の争いを鎮めているそうだな。それがどういうことか――たとえばそれが、人の思考に直接作用する歌だとしたら? それが人の感情に、あるいは脳に影響をおよぼす音を含んでいたなら。俺が武器を売りさばいた国のあいつらが、簡単に戦意を削がれてしまったのも納得がいく。いや、そうとしか考えられない」

『あなたが』と、彼女はようやく口を開いた。

『世界中に武器をばらまく、諸悪の根源?』

「悪? 俺には、お前の方がよほど邪悪に見えるがな」

 彼女は目を細めた。怒ったのだろう。和也は人を怒らせることに関して天才的だ。えらそうに腕組みをし、さらに煽るようにせせら笑っている。

「なんだ。言いたいことがあるようだが」

『あなたみたいな人がいるから。あなたのような人がいなければ、世界は平和であれるのに』

「どうだか。俺がいなくても、諍いはなくならないさ。俺が売る武器は適量だ。戦争が激化して、国ごとなくなってしまっては商売あがったりだからな。むしろ俺の武器は、戦争の『ストッパー』になっていると思うがね」

詭弁きべんね。あなたの武器で人は死ぬわ』

「ふん、自分だけ綺麗なふりはよせ。お前だって殺しているだろ」

『私が? いつ』

 怪訝な顔になる彼女に、和也は肩をすくめてみせた。

「お前のやっていることだ。『人の思考を殺し操る』のは、俺なんかよりずっと性質たちが悪い。少なくとも俺の武器を買う奴らは自らの意志で引き金を引くが、お前の歌を聞く者はお前の意志で争いをやめる。信念や大切な思いを殺されて、意のままに操られているじゃないか」

『それの何がいけないの』

 メイ・セプテンバーはいまや、はっきりと和也に敵意を剥き出していた。

 声は聞こえないが、聞こえていたらきっとそのトーンはかなり低いものだと思う。

 静かなる怒気。それに和也はぴたりと口を閉ざす。

『愚かな人たちは争いをやめない。そのせいで傷つく人たちがたくさんいる。私の両親もそうして死んだわ――だったら洗脳でも何でもいい。愚者にはそれくらいしないと通じない、そんな声もある』

「そうは言っても許されまい」

『あなたの行いこそ罪深い』

「平行線だな……」

 わざとらしくため息をつく和也に、彼女はそこではじめて笑みを浮かべた。ほんのりとしたそれを見て、俺はなぜか割れる前の薄氷を連想した。

『私、あなたのことを知っていたわ。世界的に有名な武器商人さん――……本当のところね。私の両親は、あなたが売った武器で死んだのよ。だからいつか、あなたに会えたらと思っていたことがあるの』

 メイ・セプテンバーは凄絶な笑みを浮かべていた。俺はそこに嫌な空気を嗅ぎとった。

 和也はのんきに「ふうん?」と聞き直している。

「なんだ、握手でもしようってのか?」

『――……へ来て』

 彼女は口を極力動かさないように発言していた。

「なんだって?」

『こちらへ、来て――――っ!』

 瞬間、肺と腹がビリビリ震える。

 イヤホンで防いでいる鼓膜以外は、音に対して無防備だ。ぎょっとした和也の顔の向こう、窓の外を俺は見る。

 風景は交差点で止まっている。

 そこへ、けたたましいクラクションと急ブレーキの音が迫って来た。

 見えたときにはもう遅い――アクセル全開のトラックだ。

「っ、和也様!」

 とっさに和也を窓から離し抱え込んだ。すぐに衝撃が来る。天地がひっくり返り、ガラスや鉄の壊れ軋む音がしばらく響いた。乗っていた車がへこむ音、横転してアスファルトを滑るざりざりした衝撃。目の前が真っ暗になり沈黙が訪れる。しばらくして、スライディングしていた車がようやく止まった。

「ぅっ……――」

 俺は変な姿勢に折れ曲がった体を、なんとか立て直そうとした。

 車体がひしゃげて狭く、身動きすると窓ガラスの破片がぱらりと落ちる。

 すぐ目の前に割れた窓があり、そこからなんとか外へ出られそうだ。

 咳き込む音がして、抱えこんでいた和也が身じろいだ。怪我があるか確かめようにも狭すぎるし、とりあえず外へ出る必要がある。

「外へ――っ」

 道路に和也を先に押し出したとき、左足に鈍い痛みが走った。どうやら折れているらしい。這いずり外へ出ると、和也は茫然と辺りを見ていた。その身に大きな怪我がないのをざっと確認して、俺はようやく路肩に屈み込む。

「頑丈に作っておいて良かったですね」

 目の前に、ひしゃげた黒のワンボックスカーがあった。

 真横から突っ込んできた大型トラックがそばで横転している。メイ・セプテンバーの姿は見えない。まだ車中かもしれないが、生きているだろうか。俺は片足をひきずり、後部座席の窓へ近づいてみる。そこから女性の白い腕が突き出していた。

 メイ・セプテンバーは眠っているように見えた。

 額から血を流している以外は奇跡的に外傷はない。念のために脈を確認すると、かすかながらも鼓動が感じられる。ガラスを踏む音がして固い顔の和也が近寄ってきた。

「死んだか?」

 俺は首を振り、どうする気なのかその指示を待った。少しだけ色味の引いた和也の表情は……おそらくかなり驚いているようだ。まさか彼女があんな方法で自身を殺そうとするなんて、つゆとも思わなかったのだろう。

 和也は世界中から怨みをかっている、武器商人の総締めなのだ。誰かに殺されそうになることは今さらな日常茶飯事ではあるが――その相手が世界の歌姫であるとは思わなかったらしい。

 俺は指示を待っていた。これからどうすべきか、いくら動揺しても和也なら冷静に判断できるはずだと、そう思ったからだ。

 和也は彼女の横へ膝をつき、割れた窓ガラス越しにその頬へ手を添えた。

 優しげな眼差しで彼女の眠るような表情をとくと眺めてから、顎を掴むとその口を無理やりにこじ開けた。彼女の喉奥をじっと覗きこんで、

「必要ない」

 和也は目をふせた。行くぞ、とひと声だけ落として踵をかえす。

「……よろしいので?」

「構わん。あの声は『そういったものである』とリークするだけで機能しなくなる。俺の商売の邪魔にならなければ、それでいい」

 片足をひきずり後ろをついて歩く俺に、和也は少しだけ歩調をゆるめる。

 どうやら彼女の声の性質を深く調べるため、今回のコンサートへ出向いたらしい。 その声に抗おうとすればどうなるのか、絡繰りを知る者がその力に抗うことはできるのか――和也はそれを、身をもって実験したのだ。

「非常に不快ではあったが」と鼻を鳴らして彼は言う。

「意志を強く持てば声に逆らうことはできる。拒否反応は起こるが、それこそが声の絡繰りの証明となるだろう。俺たちは世に醜聞を流すだけでいい。奴のクリーンなイメージをはぎ取ってやるだけで、あの声は機能しなくなる」

「それは……そうかもしれませんが。しかし」

 いまこそが、彼女を殺す絶好の機会だろうに。

 障害となりうる者はきっちり始末しておく方がよくないか。

 言葉にならない内心を読み、和也は鋭い視線を寄越してきた。剣呑さを宿す瞳に息をのむと、その表情がふっとゆるめられる。

「俺たちが始末すべきは、あの『声』を作った組織の方だ。あれは喉に仕込むタイプの科学兵器だからな、量産されては困る。そいつらを殲滅してから、あの武器を」

「入手する?」

「徹底的に破壊する」

 和也は歩き出す。今度こそ振り返らない。

 すべての人を操ることのできる声、夢物語のような武器。けれど和也はそれが心底お気に召さないらしい。

(便利だと思うがなぁ)

 気に食わないものは徹底的に叩き潰す。それが和也らしいといえばらしくはある。

 少しだけ気になり、俺は後ろを振り返ってみた。

 交差点の角には通行人が遠巻きに集まり始めている。

 遠くに聞こえるサイレンの音。じきに警察と救急がやってくるだろう。

 横転した黒い車の横、そこにメイ・セプテンバーの姿を見つけた。

 車から自力で出てきたらしい。倒れた車体に寄りかかり、それでもしっかり両足で立っている。

 目が合った。

 風に彼女の黒髪が流されて、そのまなざしの強さを嫌というほどに感じる。

 引き結ばれていた口が動いた。なにかの言葉をリズムでも取るように、くっきりと三文字で発音している。

 ぎらつく意志のこもる目を見返して、俺は振り切るように背を向けた。ねばつく視線を背後にひしひしと感じる。俺の進む先には和也の背がある。奴は振り返らない。後ろを見ずに和也は言った。

「無視しろ。どうせもう聞こえない」

 俺は諦めることにした。

(そうだ、いずれ彼女の声は聞こえなくなる)

 そのことが少し残念な気もしたが、和也は厳しい真実を好むのだ。まやかしが人の身に心地よいのは当たり前のことなのに――だから無言をつらぬくその背に、俺はそのままついて歩いた。

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