1. バタフライ・エフェクト

 とても退屈な仕事だ。

 パーシヴァルはメモを取りながらそう思った。

「それで。真ん中の宝石はどのように致しましょう?」

 目の前の着飾った男は、するといかにも面倒くさそうな顔をした。

 豪奢な執務机に座る男は、パーシヴァルの上客で名をハインツ皇太子という。

 金糸のような短髪に南国の海を思わせる瞳。顔立ちは端正だが、いつも不愛想で笑顔など見たことがない。

 書類から顔も上げずに彼は適当な答えを返してきた。

「好きにしてくれて構わないさ。金もいくら使ってくれても構わない」

「……畏まりました」

 そのいかにもどうでも良いといった雰囲気に、パーシヴァルは持っていた手帳へ「金はとり放題。デザインは適当で」とこっそり書き記す。

 彫金細工師である自らを呼びつけ、オリジナルのブローチを作らせるには相応の財と権威が必要になってくる。いま目の前に座り、書類から顔も上げないハインツ皇太子は、その点において申し分ない。地位は風格ある貴族であり、その財は計り知れない。

 パーシヴァルも彫金細工師として、資金に気を遣わずに豪奢な作品が作れることはありがたいのだが、肝心の客がアクセサリーに全く興味がなく、出き上がっても特に褒められない、何の反応も頂けないというのは作り手として複雑だった。

「なんだかなぁ」

 皇太子からの要望を聞き終えた帰り道、思わずそうこぼしてしまった。

 皇太子の屋敷は恐ろしく広大で、来た時と同じように歩いても歩いても入り口へとたどり着けない。

 春の陽気に美しく咲き誇る薔薇園を眺めながら屋敷の外へと歩いていく。

 今回パーシヴァルが依頼されたのは、皇太子が身に着けるブローチの作成だった。

 華やかなものから芸術性に凝ったものまで、頭の中には無数のスケッチが浮かんでは消えている。しかし次の瞬間には皇太子の顔が浮かび「どうでも良い」と一蹴してしまうと、どのデザインも不十分に思えてくるのだ。

 どうしたものかと考えながら薔薇園の小道を歩いていた時だ。

 すぐ横の茂みからかすかな物音がした。

「ひどい顔をしてるわね、パーシヴァル」

 またひとつため息をついた瞬間に声をかけられて、びくりと身が竦んだ。

 薔薇園の噴水の影からひょこりと現れたのは、赤茶のおさげ髪の少女だ。その顔は悪戯っ子のように笑っている。

「メイラン」

「またハインツ皇太子のブローチ作り? 今度はどんな物にするの?」

 無邪気に聞いてきた少女は、その手につみ立ての薔薇の入った籐籠とハサミを持っている。どうやら薔薇の手入れをしていたらしい、メイド服姿のメイランは、噴水の横にあった白いベンチに腰掛けると、そちらへ来るようにと手招いてきた。

 仕方なく横に座れば、少女は膝に置いた籠の中から包んだサンドイッチを取り出してきた。

「まぁまぁ、これでも食べて。料理長のお手製だからきっと美味しいわよ」

「また勝手に厨房からとってきたの? 君、いい加減にしないと怒られるよ」

「大丈夫よ、たくさんあったもの。それで、今度は何に悩んでるわけ?」

 もくもくと明るくサンドイッチを食べるメイランに、パーシヴァルは事の経緯を打ち明けた。

 いつものように皇太子からアクセサリーの発注が来たこと。

 そしてまたいつものように、皇太子はデザインに関してなんの指示もしてこないこと。

「僕には皇太子がどんなデザインを求めてるのか分からないんだ。そりゃぁ彼はアクセサリーに興味がないし、どんな物でも見栄えがすれば良いのかもしれないけど。作る側として、できるだけ要望に添いたいじゃないか」

「うんうん。相変わらず真面目ねぇ」

 メイランは気楽な様子で首を傾げていたが、しばらくすると思いついたように言った。

「そういえば……役にたつかは分からないけど、皇太子について面白い噂を聞いたわよ」

「面白い噂?」

「皇太子に好きな人がいるって話。しかもそのお相手は、次の舞踏会に招かれるらしいわ」

「へぇ……あれ? 次の舞踏会っていうと、そうか」

 パーシヴァルは考え頷いた。

 今回、皇太子からブローチを依頼されたのは、おそらくその舞踏会で身に着けるためだ。この国の貴族たちは、華やかな式典や会合の際に、胸元をブローチで飾る習慣があるのだ。大振りなものから繊細で小さなものまで、何でも良いが金細工であることが暗黙のルールだ。

(けれど金細工のブローチは、そうそう作れるものじゃない)

 貴族にとっても金のブローチの新注は大きな出費だ。だからハインツ皇太子のように、舞踏会や式典ごとに毎回新たなブローチやアクセサリーを作らせる上客は、彫金細工師にとってはとてもありがたい。

(これで彼がもう少し、ブローチに興味を持ってくれたら良いんだけどなぁ)

 興味がないなら作らせなければ良いとは思うが、ハインツ皇太子がまめに発注してくれるおかげで、パーシヴァルの懐が潤っているために文句は言えない。

「ねぇ、パーシヴァル。次のブローチは蝶をあしらってみたらどうかしら」

「蝶……?」

 悪くない。花や鳥など動植物のモチーフは、無難で品のあるものを作りやすい。いくつかのデザイン画をとっさに思い浮かべていると、メイランが悪戯っ子のように笑ってこちらを見ていた。どうやら「蝶」という提案にはなにか裏がありそうだ。

 彼女は訳知り顔で頷いている。

「あのね、噂で聞いたんだけど。その人、蝶が好きらしいのよ」

「その人って誰だよ」

「だから、皇太子が好きな人! フォルゼ家のご令嬢なんだけど」

「ふぅん。それで蝶のモチーフ? けれどちょっとそれって……まずくないかなぁ」

 屋敷のメイドであるこのメイランが知っているのなら、「ハインツ皇太子がフォルゼ嬢を好き」であることは周知の事実なのだろう。もしそうだとすると、蝶が好きだというご令嬢を招く場へ、蝶のブローチを身に着けて行くのは、なんだかあからさまではないか。

「大丈夫よ! ご令嬢が蝶好きっていうのは、私の仕入れた極秘情報なの。絶対に周りにはバレないわ」

 メイランは自信ありげにふんぞり返っている。つい疑わし気な顔になってしまったのかもしれない。「あのね」と彼女は焦り付け加えてくる。

「蝶のブローチをつけていけば、ご令嬢との話のきっかけにもなるでしょう? 皇太子本人がどんなブローチでも良いって言うんだから、別に蝶でも構わないじゃない」

「いや、僕は別に良いんだけどさ……ただ、問題にならないかなと思って」

「絶対に大丈夫。あ、そうだわ! そんなに心配なら、パーシヴァルも舞踏会の日にお屋敷へ来ればいいのよ!」

「ええっ!? それは無理だよ!」

「大丈夫よ。庭師のふりをしてくればいいの。服は私が用意しておくから!」

 メイランは決まりとばかりに立ち上がるとにっこり笑った。

「そうと決まればさっそく蝶のブローチを! とびきり綺麗な宝石を使ってね」

「そんな強引な」

 まだ僕はブローチを蝶のモチーフにするとも、舞踏会の当日に様子を見に来るとも言っていない。けれどメイランの中で予定はすでに決まっていて、計画は着々と進行しているらしい。彼女の暴走ぶりに僕が断ろうと思ったとき、告げられた一言で僕の考えは変わった。

「パーシヴァルだって、そっちの方が作り甲斐があるでしょう。どうせ作るなら、皇太子に喜んでもらえるものでなくちゃあ」

 たしかに、その通りだった。僕はまさにその件で悩んでいて、次のブローチのデザインを決めかねていたのだ。

(本当に大丈夫かなぁ)

 メイランの快活な笑みが不安ではあるが、心の中でデザインは固まり出していた。

 金色のりん粉を風になびかせて、ひらひらと優雅に飛んでいく両翼の形。

 とびきり美しい、金糸を使った蝶のモチーフだ。



 出き上がった品は上々だった。

 手のひらに収まる小さなブローチは、細やかなカンティーユで蝶の両翼を縫い上げ、羽の隙間に輝く宝石をちりばめてある。

 真ん中には親指ほどもある大きなエメラルドを涙の形にして配した。磨き抜かれたそのエメラルド・グリーンなら、ブローチの金細工とも皇太子の金髪ともよく映えるだろう。

 完成したブローチを納品するときには、特に何も言われなかった。

 ハインツ皇太子はいつものように執務机に向かい書類を眺めながら、僕が差し出してみせたブローチを一瞥いちべつしただけだ。

「ご苦労」

 ひと言そう落として、さっさと帰れという態度でまた書類に目を向ける。

 いつも通りのその反応に僕は閉口してしまった。

 この蝶のブローチは、今までつくった中でも最高の出きばえだ。

 繊細な金線での模様つけ、台座の金色だってピンクや白に近づけたりして、各所の色合いを微妙に変えた。手間暇かけた最高品を皇太子は一瞥と「ご苦労」で終わらせてしまったのだ。

 僕は納得がいかなかった。報酬はたんまりともらったが、皇太子に喜んでもらえなければ意味がない。職人としての矜持が盛大にへそを曲げていた。

 だからかもしれない。絶対に行かないと決めていた舞踏会の日に、僕は屋敷の近くまで足を運んでしまった。

「遅いわよパーシヴァル!」

 あらかじめ聞いていた屋敷の入り口へ近づくと、メイランがいつものメイド服姿で待っていた。

 夏の日暮れ時、赤紫に塗られた空から茜色の風が降りてきて、僕の前髪やメイランのいらついた表情、屋敷に植えられた木の葉を優しく撫でていく。

「メイラン、こんなところにいて大丈夫? 夜の舞踏会の準備があるんじゃないか」

「もちろんよ。だからもう行かないと……はいこれ」

 メイランは焦った様子で庭師の作業着と帽子を差し出してくる。

「本当に大丈夫かな」

「なによ今さら。パーシヴァルだってブローチのことが気になるから来たんでしょう?」

「それは、そうだけど」

「いいからこれを着て、前にあなたと話をした薔薇園のベンチの辺りで待っていて。後で迎えに行くから」

 じゃぁね、とメイランはあっという間に屋敷の方へ駆けていってしまう。取り残された僕を誘うように、空の茜色が紫紺に一瞬で変わった気がした。

 屋敷の方から賑やかな浮足立つ気配がしている。特別に華やかな夜が近づいてきていた。



 メイランに言われた通り、薔薇園のベンチの側まで忍ぶように向かう。

 屋敷の庭先や開けた芝生、薔薇園の向こう側にまで、たくさんの執事やメイドたちの姿が見える。どうやら今宵の舞踏会は、室内ではなく庭先で行う趣向のようだ。

 僕の今いるこの場所に人の姿はないが、屋敷に近い辺りでは大勢の人たちが、たくさんの白テーブルの上にキャンドルや食べ物を運び、忙しく動き回っていた。

(言われるままにして、本当に来ちゃったけど)

 僕は招待されていないし、勝手に入って来たので不法侵入者だ。

 いくらメイランが良しと言ったからといって、他の人に見つかってしまえば言い訳はできない。僕はそう考えて怯えながら、うす暗い薔薇の生垣に身を潜めていた。

 待つこと数時間、舞踏会の招待客が続々とやって来て空気が華やいでくる。

 遠巻きに聞こえる談笑とバイオリンの優しいワルツ、グラスの音。

 初夏とはいえ陽が落ちると少し肌寒い風が吹いてくる。

 いっこうに現れないメイランにしびれをきらして、やっぱり帰ろうかと思った時だった。

「パーシヴァル!」

 薔薇園の暗がりから小声で呼ぶメイランの声がした。

「よかった、僕もう帰ろうかと、っ」

 振り返った目の前には、豪奢なパールピンクのドレスを着た少女がいた。

 赤茶色の髪を頭上でひとつにまとめ、頭に薔薇の飾りをつけている。胸元にはこの舞踏会の参加者が必ず身に着ける金細工のブローチが光っていた。

 彼女のそのブローチには見覚えがあった。

(僕の作ったヒバリのモチーフだ)

 それは以前、ハインツ皇太子に頼まれて納品したものだ。

 両翼を丸く広げたヒバリは彼女の胸元で、オニキスの目をつぶらに光らせて懐かしそうに僕へ挨拶してきた。

「えっと……メイラン?」

「そうよ。こっち、急いで!」

 ドレスの裾をたくし上げ、なぜか焦った様子でメイランは僕の片手を引いていく。迷路のように入り組む薔薇園の生垣を慣れた風に進む彼女の姿は、どう見ても一介のメイドの装いではない。

「あの、君いったいどうして」

「しーっ!」

 屈め、と無理やりに僕の腕を引いたメイランは、薔薇の生垣に身を潜め前方の噴水の辺りを真剣に見ている。その有無を言わせぬ様子に仕方なく彼女の視線の先を追うと、遠くからかすかに芝を踏む音がして誰かがやって来た。

(あれは――ハインツ皇太子?)

 紺色の軍服に身をつつんだ彼は、何かを探すように噴水の辺りを見回している。

 誰かと待ち合わせをしているのかもしれない、待ち人がまだ来ていないと気がつくと彼は苛立たし気に顔をしかめた。

「私が呼んだのよ。それともうひとり……」

 メイランが静かにそう言って見つめた先に、白いイブニングドレスの少女が不安そうな顔で現れた。繊細なブロンドの髪をふわりと揺らして、彼女は誰かを探すように辺りを見ている。そこにハインツ皇太子の姿を見つけると、彼女はびくりと身を竦ませた。

「こ、これは……ハインツ様」

 皇太子は現れた彼女に一瞬だけ驚いて、すぐに怪訝そうな顔をした。

「フォルゼ嬢。どうしてこちらへ? 貴女は……ひょっとして、妹と親交がおありでしたか」

「は、はい。あの、マーシェリアナ様とは、いく度かお手紙のやり取りを」

「なるほど」

 呆れ返ったという雰囲気で、皇太子は周囲の生垣を隙なく見渡している。なぜか僕の横でメイランが身を強張らせた。頭痛をこらえるような顔をした皇太子が、何かを言おうとしたとき、ひと足はやく横にいた少女、フォルゼ嬢が口を開いていた。

「あ、あの……ハインツ様。今宵の、そ、そちらの蝶のブローチは、とても素敵なものですね」

「蝶? ああ。御覧になりますか?」

 少女が答えるよりも早く、皇太子は外したブローチを彼女へ差し出していた。おっかなびっくりとそれを受け取った少女は、ブローチの細工に見惚れている。相手の存在を忘れてブローチに釘付けになっている様子に、ハインツ皇太子は側で苦笑している。

(いい感じよ、パーシヴァル! あなたのブローチが役に立ったわ!)

 小声でメイランがそう目くばせし、僕を肘で小突いてきた。僕はメイランをしらりと見返した。

(君……僕になにか隠してない?)

(あとで! あとで説明するから!)

 メイランの視線の先では、ハインツ皇太子が少女をぼんやりと眺めていた。

 彼の瞳は心なしかとろりと溶けている。

 少女はブローチを両手にのせて眺めたまま、幼い顔で笑っていた。

「すみません、つい魅入ってしまって……わ、わたし、蝶のアクセサリーが大好きなんです。この間も、マーシェリアナ様と好きな物の話をしたばかりで」

 それまで穏やかだったハインツ皇太子の顔が、夢から醒めたように引きつった。

「そうでしたか。妹に、蝶のアクセサリーがお好きだと仰ったんですね」

「は、はい。マーシェリアナ様は、鳥がお好きだと言われて。あの……?」

 不思議そうな顔になる少女を無視して、ハインツ皇太子はくるりと茂みを見渡し言い放った。

「マーシェリアナ! いい加減に出てこないか!」

 隣でメイランが大きく体を震わせた。

(『マーシェリアナ』?)

 僕が驚きと呆れをない交ぜに真横の彼女を見ると、『メイラン』は青ざめた顔で茂みの向こうのハインツ皇太子を凝視している。

 いっこうに姿を見せない相手にじれたのか、ハインツ皇太子の方が周囲の茂みを漁り始めた。僕が真横で固まってしまった『メイラン』をどうしたものかと考えていると、皇太子の横にいた白いドレスの少女の方が慌てて言った。

「あ、あの! マーシェリアナ様のせいではないのです! き、きっと、私のことを慮ってこのようなことを」

「なるほど。貴女も、妹と示し合わせたということですか」

 茂みを漁る手を止めた皇太子は、苦々しい顔になっている。冷たい声音できっぱりと彼は告げた。

「フォルゼ嬢。このような計らいは、不愉快です。今後は私に近づかないで頂きたい」

「わ、私は……」

 儚い様子でブロンドの少女は、両瞳に涙をためて俯いてしまった。それを見て顔を歪めたハインツ皇太子が、なおも苦しげに言葉を継ごうとした時だ。

 僕の横にいたメイランが、勢いよく茂みの外へと飛び出していった。ドレスの裾に葉っぱや小枝を引っ掛けて、彼女はハインツ皇太子の方へ走って行く。

「お兄様! どうしてそんな冷たいことを仰るんですか!? お兄様がはっきりと気持ちをお告げにならないから、私がこうして彼女を騙して呼んだんです!」

「マーシェリアナ」

 ハインツ皇太子は地を這うような声だった。

 呪うようにこちらを見てくるその視線が『メイラン』の後ろにいる僕をもばっちりと捉えた。僕は仕方なく、なんともいえない気持ちで立ち上がり会釈をする。

 ハインツ皇太子は何かをこらえるように息を詰め、『メイラン』へ静かに言った。

「お前が時おり、従者メイドの格好をして遊んでいたのは知っていた。いずれ止めるだろうと、今まで見逃してきたのが間違いだったな。マーシェリアナ、貴族としての自覚を持たないか」

「お兄様こそ、やれ貴族だ家柄だって、そんなことばかりではありませんか! どうして彼女にはっきりとプロポーズなさらないんですか!」

「黙りなさい、マーシェリアナ」

「いいえ、黙りません!」

 ハインツ皇太子は無表情、氷の声音になっている。かたや『メイラン』は頭から湯気を出さんばかりの勢いで食ってかかっていた。ハインツ皇太子が冷たく言った。

「フォルゼ嬢には、許嫁がいらっしゃる」

「だから何だというのです!? お兄様はいつもそうやって、体面や世間体ばかりを気にして……彼女の気持ちを考えたことがあるんですか!?」

 ハインツ皇太子はすると、俯いている少女の方へちらと視線をやった。

「フォルゼ嬢はお前と違って、ご自分の立場を弁えておられる。許嫁以外の者に好意を寄せるなど、はしたないことはなさらない……そうでしょう?」

 少女はその細い肩を大きく震わせた。こらえきれなくなった涙がぽろりと落ちたのをきっかけに、白いドレスの裾をひるがえして走っていってしまう。

「あっ……」

 追いかけようとした『メイラン』の腕を、しっかりとハインツ皇太子が掴んだ。

「マーシェリアナ。お前にはじっくりと、話がある。君も」

 『メイラン』が青ざめた顔で凍り付いている理由が、僕にはわかった。

 ハインツ皇太子は猛烈に怒っていた。

 その青の瞳をナイフのようにぎらつかせ、けれど無表情のままで淡々と話しているのが余計に怖い。固まった僕を見て、しかし彼は視線をついと逸らした。

「君は……もう帰りなさい。二度と、屋敷には来ないように」

 腕を引かれていく『メイラン』が、申し訳なさそうに一瞬だけ振り返ってきた。



 人の口に戸は立てられない。

 どこから漏れたか知らないが、舞踏会の夜にハインツ皇太子とフォルゼ嬢が密会していたという噂は瞬く間に広がった。

 その醜聞は格の高いハインツ家とフォルゼ家、さらにはその許嫁のいるティリーズ家までをも傷つけていた。

 そんな社交界の噂をどこか遠くに聞きながら、僕は最近、店で荷づくりに勤しんでいた。ハインツ皇太子という得意先を失ったので、それを機に遠方の工房で金細工師としての腕を磨き直すつもりでいたのだ。

 メイランが僕の店へやって来たのは、そんな旅支度の最中だった。

 舞踏会の夜から半月ほどを経て現れた彼女は、深緑の美しいドレスを着こなしている。店のドアベルに顔を上げた僕は「今日は閉店です」とお客さんを一瞬断ろうとして、目深な帽子を取った相手が申し訳なさそうな顔のメイランだと気つき、手をとめた。

「パーシヴァル、どこかへ行くの?」

「ああ。久しぶりだね……『メイラン』」

 少しだけ迷ったが、僕が呼びなれた方の名前で話すと彼女は安堵した顔になる。

「えっと、そのこともごめんなさい。私がお兄様の妹――マーシェリアナ・ハインツだということを隠していて。メイドの格好の方が、屋敷に来る人と気安く話せていたから」

 町の人たちと普通に話をしたくて、誰かが来る時にはメイドの振りをしていたのだと、彼女は申し訳なさそうに言った。

「もう良いよ」

 僕は苦笑するしかない。べつに怒っているわけではないのだ。

 お屋敷に通っていたころ、僕の相談によく乗ってくれたのはメイランだったし、その身分がどうあれ彼女は僕の中でまだ『メイラン』だ。

 その場にあった椅子を勧めると、彼女は暗い表情で座った。

「ハインツ皇太子は大丈夫なのかい?」

「あんまり大丈夫じゃないわ。今度の件でフォルゼ嬢の結婚が早まったから」

「それは……意外だね」

 あれだけ醜聞が流れたのだから、てっきり婚姻の話は流れるかと思った。

 彼女はため息をついている。

「フォルゼ嬢とお兄様は両想いよ。けれど家同士の決めた結婚は、そうそう流せるものじゃないわ」

「ふぅん。お気の毒に」

 さらりとそう慰めると、メイランは決意に満ちた顔になった。

「今日はあなたにお願いがあって来たの」

「いや僕は……もうなにもできないと思うけど」

「お兄様のブローチを作ってほしいのよ。フォルゼ嬢の結婚式で、お兄様が身に着けるブローチなんだけれど。それを――蝶のモチーフで」

 僕は一瞬だけ固まった。

 言われたことをかみ砕くのに時間がかかった。

「それ、ハインツ皇太子がそうしろって?」

 怪訝と聞き返せば、案の定メイランは首を振る。

「いいえ。お兄様は、貴方にブローチの依頼をしただけよ。代わりの細工師が見つかるまで……たぶん、これが最後の依頼になると思うわ」

 メイランによれば、ハインツ皇太子は今回のブローチのデザインにたったひとつ要望を出したという。

『ブローチのデザインは、絶対に蝶以外のものを』と。

 僕はここへ来てようやくハインツ皇太子からアクセサリーに関する指示を得た。

 けれどメイランはそれを無視して「蝶のブローチを作れ」と言う。

「そんなもの作ったってどうにもならないよ。それにハインツ皇太子は怒ると思うけど」

 なにしろ彼は「絶対に蝶のブローチは作るな」と言っているのだ。メイランの言う通りの物を作っても喜ばれはしない。

 さらに言えば、ハインツ皇太子が「蝶」を遠ざける理由が僕にはなんとなく分かった。

(フォルゼ嬢の結婚が早まって、落ち込んでいるんだろうな)

 フォルゼ嬢が好きだと言っていた、蝶をあしらった物だけは避けたいという彼の気持ちはなんとなく理解できる。

「パーシヴァル、お願いよ! こんなことしたって、どうにもならないのは分かってる。でもひょっとして、それを見たときにお兄様が、今ならまだひょっとしたらって」

「メイラン。君が望んでいることと、お兄さんが望んでいることは違うかもしれないよ」

 メイランは泣きだしそうだった。僕はその表情にほだされる前に、彼女に「ブローチを作る」ということだけを了承して、なかば追い払うようにして帰ってもらった。何のブローチを作るかは明確に答えていない。

 僕はハインツ皇太子の要望に応えたいと思う。今までお世話になってきた彼に「最後のブローチを」と請われれば、旅行の予定が多少おしても作ること自体は構わない。けれどメイランの要望をどうするのか、出きるものだろうかと迷っていたのだ。

「さて」

 作るとなれば考えなければならない。

 これで最後になるだろうから、最高に美しいモチーフで作り上げるのだ。




 それからしばらく後。

 僕は完成したブローチを、店まで受け取りにきたメイランに手渡した。

 それを見たハインツ皇太子がどう反応したかは分からない。

 ただ、僕は異国へ向かう船上で新聞に「名家の跡取り、花嫁を強奪!」と見出しのある記事を見つけた。

 そこには小さく写真が載っていて、ハインツ皇太子と微笑むフォルゼ嬢、そして彼女の胸元にシンプルなデザインの蝶が止まっているのを見つけた。

 それは僕がメイランに二つ納品したブローチのうちの片方で、時間が足りずに簡素なデザインになってしまったものだ。

 輪郭だけを金でかたどった子供だましの蝶のブローチ。

 写真の中でそれが光って見えたのは、二人が幸せそうに笑っていたからだろう。

 船上の甲板を潮風が吹き抜けていく。

 快晴。雲ひとつない空に、遠くカモメの鳴き声。

「幸運を」

 僕の声を拾った潮風が、カモメの羽ばたきで遠くまで飛ばされていった。

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