遅咲きの桜

神連カズサ

一、

 小さい頃から一緒に育った幼馴染のことが大好きだった。

 大きくなるにつれて「好き」の意味が変わってしまったけれど。

 気付けば、彼は姉と付き合っていた。

 でも、不思議とそれが自然なことのように思えた。

 だって彼と自分は十も歳が離れていたから。


「美乃ちゃん」

 今朝は早くに学校に行かなくてはいけなくて、少し急いでいた。

 背中から聞こえる姉の、のほほんとした声に何?と喰い気味に答える。

「……ゴメンね」

「何が?」

「何でも~」

「お姉ちゃん、もういい? 急いでるから、帰ったら聞くね! 行ってきます!」

「いってらっしゃ~い」

 様子の違う姉の様子を不審に思いながらも美乃(よしの)は玄関を潜った。

 去り際に見た姉の、雛乃(ひなの)の寂しげな笑みが引っかかる。

 だが、言及している暇もなく彼女は学校へと走り出した。


 だから思いもしなかったのだ。

 大好きな人達が別れることになるだなんて。


「……今、なんて?」


 帰ってきて早々美乃は母親に泣き縋られていた。

 状況が飲み込めない。

「いないのよッ! 雛乃が! どこにもッ!!」

 母親の金切り声が美乃の耳に何度もエコーする。

 肩から鞄が音を立てて玄関の床に落下した。

「な、え? 嘘でしょ?」

「何か聞いてない? お姉ちゃん、何か言ってなかった?」

 強い力で身体を揺さぶられて、美乃は必死に今朝のことを思い出そうとした。

 今朝から様子がおかしいと思っていたが、いなくなるなんて。

 混乱する頭に雛乃の一言が聞こえてきた。


『……ゴメンね』


 そうだ。

 あの時、姉は何故謝ったのだろうか。

 謝られるようなことを姉にされた覚えがないのに。

「あ、謝られた」

「え……」

「お姉ちゃん、私に謝るようなことなんてしてないのに。寂しそうな顔で笑って、それから謝られた」

「……ッ」

 母が膝から崩れ落ちる。

 それを支えようとして、廊下に父が立っているのが見えた。

「……父さん」

「美乃、部屋へ来なさい」

「でも」

「お前もだ」

「………はい」

 しゃくりあげる母に手を貸しながら、美乃は父の部屋に居心地悪そうに入った。

 昔から父とはあまり仲が良くない。

 自分は次女であるからか、はたまた素行が気に入らないからなのかは知らないが、父のピリピリとした雰囲気が苦手であった。

 だから、この部屋に入るのはいつも決まって叱られる時だけであったから、あまり好んで入りたくはないのだ。

「これを」

 父が机の上に一枚の白い便箋を美乃に差し出す。

「……お姉ちゃんから?」

「ああ。読んでみなさい」

 封筒の中には同じ色の、白い紙が二枚ほど入っていた。


『家族の皆様へ


まずはじめに、何も言わずに家を出て申し訳ありません。

ご心配をお掛けしているかと思います。

けれど、これが今私にできる最善の策なんです。ごめんなさい。


兼ねてより許嫁として付き合っていた武虎さんの弟、裕悟さんの子供を身籠ってしまいました。


言えば、皆に反対されると思ってずっと隠してきましたが、私は裕悟さんのことがずっと好きでした。

彼にもそのことは伝えています。

けれど、行為に及んだのは一度きり。気持ちを伝える前です。

順番が逆になってしまいましたが、私はきちんと彼に想いと身籠ったことを伝えました。

そうして二人で良く考えて、この策に出ました。

ごめんなさい。


武虎さん、こんな形で別れることになって本当にごめんなさい。


美乃ちゃん、貴女には皇のことが全部圧し掛かってしまうかもしれない。

駄目なお姉ちゃんでゴメンね。


お父さん、お母さん。

親不孝な娘をどうか許してください。またいつか。


雛乃より』


 姉の秘めてきた想いに、美乃は握っていた手紙をくしゃりと歪ませた。

 何でも欲しい物を与えられてきた癖に、あっけなく手を放すのか。

「何で? 何でこんなこと! 来月籍を入れるって喜んでたじゃない!!」

「美乃」

「虎は、虎はどうなるのよッ!!」

 あまりの怒りに感情が高ぶって、眦からぼろぼろと涙が溢れた。

 仲睦まじい様子の二人をずっと見てきた。

 あれは嘘だったのか。


 ――幸せそうに笑う雛乃の顔が頭の中で歪んだ。


「……おじさん」


 襖の向こうから声がした。

「武虎か。入りなさい」

 いつの間にか降り出した雨の音が、襖が開いたことにより鮮明に聞こえてくる。

 びしょ濡れになった武虎(たけとら)が美乃の父の顔を見た途端その場で土下座した。 

「雛乃さんと裕悟のこと、誠に申し訳ありません! 謝ってどうこうできないのは分かってます! でも本当に……」

「君だけの所為じゃないよ」

「そうよ、虎ちゃん。顔を上げて」

「俺が、俺がもっと早く気付いてれば」

 ぎり、と奥歯を噛み締める武虎に美乃は胸を締め付けられるような痛みを覚えた。

 こんなに、こんなにも愛されているのに。

 雛乃は彼を手放したのだ。

「……何で? なんで怒らないの」

「美乃……」

「だって! 虎はお姉ちゃんと結婚するって、もう決まってたじゃん!!」

 だから、諦めた……。

 それなのに。

「こんなのってないよ!」

「美乃!!」

 部屋を飛び出そうとした美乃を武虎が腕を掴んで引き止める。

 すると、父も美乃を咎めた。

「待ちなさい」

「……」

「武虎、お前達を育てる代りに約束したことを覚えているか?」

「……ハイ」

 ぺたん、と力なく正座した美乃の隣に座り直すと武虎は真っ直ぐに美乃の父の顔を見た。

「皇家に婿養子として入る、です」

「なッ?」

 皇家には雛乃と美乃しか子供がいない。

 名門の呉服店である家に女児しかいないとは、と父は昔からよく嘆いていた。

 そんな時だ。

 父の親友である松雪夫妻が事故でこの世を去ったのは。

 昔から友人の少なかった父を心配して良く遊びに来てくれていた松雪夫妻には二人の息子が居た。

 親戚とも疎遠であった彼らの子を父は何故か引き取ることにした。

 彼らは二人とも父の援助で大学も出ている。

 自分に利益が無いことに金を使うなど父を知っている者なら「あり得ない」と一蹴するだろう。

 裏でこういう取引をしていたのかと美乃は納得した。 

 何しろ二人が来た時、美乃は這うことも出来ない赤子であった為、知る由がなかったのだ。

「……意味が分かるか?」

「何、次は私と虎を結婚させようって言うの?」

「ああ」

「ああって、そんな簡単に言わないでよ! 私は父さんの道具じゃない!」

「美乃!」

「母さんは黙ってて! 虎だって、養子に入るの嫌でしょ? お金なら、婿養子にならなくても返せるじゃない!」

 美乃の言葉に、武虎は一瞬目を丸くして、俯いた。

 鼻息荒く捲し立てる美乃に父が目を細める。

「では、お前は雛乃の後始末をどう取れと言うんだ?」

「どうって何よ」

「お得意様や、商業組合にも結婚のことを手紙にして知らせたんだぞ!」

「それとこれがどう関係するって言うの!」

「……跡取りがいないと言えと言うのか?」

「言えば良いじゃない! それで弟子にでもなんでも譲ればいい!」

 美乃が声を荒げると武虎が彼女の頬を叩いた。

 乾いた音が静かな部屋に響く。

「やめろ、美乃。そんな言い方良くない」

「で、も」

「俺のことは良いんだ。今までお世話になってきたし、婿養子になるのだって初めから了承してこの家に置いてもらったんだから」

「……ッ」

「武虎、すまんがこれを頼まれてくれるか?」

「……はい」

 叩かれたショックと状況に理解が付いて行けず、美乃は聞こえてくる会話を右から左へと流した。

 何も考えたくない。

 心の奥に蓋をした感情が、ふつふつと隙間から溢れだす。

 痛いのに、同じくらいに嬉しくて。

 いなくなってしまった姉が憎かった。

 姉さえいなくならなければ、こんなことにならなかったのに。

 こんな想いしなくてすんだのに。


 ほろ苦い気持ちがどうしようもなく胸を焦がして、美乃は三角座りになって涙した。

 背中を擦る母の手が優しくて、涙が止まらない。


(……好きだよ)


 こんな形で彼の隣に並ぶことになるなんて思いもしなかった。


(好き)


 涙と一緒に溢れる感情に心臓の割れる音が聞こえた気がした。


二、

 春は来ない。

 夢の中で誰かがそう言って泣いていた。


「……」

 目を覚ませば、見知らぬ天井が目に入ってきた。

 昨晩、散々泣いた所為か、擦りすぎた目元と頭が鈍い痛みを訴える。

「……起きたか」

 すぐ隣から声がして、美乃は驚いた。

 ベッド脇にある作業机でカメラを拭いていた武虎は、それを置くと、上体を起こした美乃にそっと近付いた。

「気分は?」

「……最悪。ものすごく気持ちが悪い」

 蟀谷を押さえて唸る美乃に、武虎は苦笑いをすると、優しい手付きで彼女の額に手を遣った。

「熱はないみたいだな」

「あるわけないでしょ。泣きすぎて頭は痛いけど」

「お前の荷物、そこに置いてあるから風呂入ってこい」

 俺は仕事に行ってくるから、と大きな掌が今度は髪に触れた。幾度となく触れられてきた大きな掌が、少しだけ小さく思えて、美乃はぎゅっと唇を噛みしめた。

「……虎」

「んー」

「……ごめんね」

 聞こえないくらいに小さな声で呟くと、美乃は武虎の背中に抱き付いて、また涙を零した。


「よっしー、おはよう!」

「……おはよー」

「どうしたの? 何か元気ないね?」

 心配そうに顔を覗き込んでくる友人に、誤魔化すように笑みを浮かべると、美乃は自分の机に突っ伏した。

 姉の雛乃がいなくなってから一週間が経ったが、未だ何の手がかりも掴めなかった。一応、いなくなった次の日に警察に捜索願いを出しているが、それもあまり期待しない方が良いだろうと担当の警察官に言われてしまった。

 いつだって、損をするのは自分だ。

 教室の窓から見える白い雲をぼうっと眺めながら、美乃は昔を思い出す。

 服も、おもちゃも、いつだって姉のおさがりだった。親に強請れば何でも与えられていた姉とは違って、美乃はいつも雛乃の使い古しや、飽きたものを使わされていた。いやだ、と何度泣いたか数えきれない。一番ショックだったのは、それこそ姉と武虎が婚約発表をした時だろうか。当時、美乃は中学三年生だった。現実を受け止めたくなくて、部活に打ち込み始めたのも丁度その頃だった。今となってはアレが失恋した瞬間だったのかもしれない。

 幸せそうに手を取り合う二人は、五歳だけ歳が離れていたけれど、周囲からは「綺麗な幼な妻」が出来て良かったなと囃し立てられていた。好きなのに、好きとは言えない自分と違って、姉は言えたはずだ。私は裕吾が好きなんです、とたったその一言を父に伝えていれば。こんなことにはならずにすんだのに。父だって、雛乃が言えば、裕吾を婚約者に選んでいたかもしれない。

 詮無いことを考えて、美乃は首を横に振った。中庭に咲いている、桜の木が風に揺れて、はらはらと花を散らしていく様に思わず眉間に皺が寄る。

 ――可愛いでしょ。私が好きだからって、お父さんが貴女の名前に桜を入れてくれたのよ。

「美乃」

 あと少しで家に辿り着く。そんな時に後ろから声を掛けられた。

「……虎」

「今、帰りか?」

「うん」

 隣にやって来た武虎に、美乃はびくりと一瞬だけ肩を震わせた。

 さっきまで夢中で組み手をしていたからか、今更ながらに汗の匂いが気になったのだ。一人、悶々とする美乃に武虎は首を傾げると、徐に彼女の手を取った。

「な、」

「家に着くまで、な? 嫌なら振り払っていいから」

 にっこりと笑う武虎に美乃は口を開けたまま固まった。

 恐らく他意はない。彼の中では自分は幼子のまま時が止まっているのだ。

 早鐘を打つ心臓を押さえ付けるように、美乃は己の胸に手を這わす。

 桜の花弁が風と共に頬を撫でるのが、少しだけ鬱陶しかった。


 結局、家の中に入ってからも武虎は手を離さなかった。どのタイミングで離せば良いのか分からなくて、美乃は俯きながら玄関を潜る。

「……あ、あの」

「ん?」

「も、もう家に着いたから……その……」

 手を離してほしいと言えば良いだけなのに。言葉が上手く紡げなかった。

 例え、相手が自分のことをどう思っていようが、自分は彼が好きなわけで。好きな人に触れているのなら、もう少しだけでも、と欲が顔を覗かせる。

「ああ、カギか! えっと……。どこにしまったかなぁ?」

 するり、とあっけなく離れていった掌を名残惜しく見ながら、美乃は武虎のカバンの中を彼と一緒になって覗き込んだ。

 カメラケースが一緒に入っている所為か、大きなカバンの割に物がぎゅうぎゅうに溢れかえってしまっている。うへえ、と顔を曇らせた美乃に武虎も苦笑した。

「悪かったな、汚くて」

「別に汚いって言ってないでしょ。ただ、物がいっぱい入ってるなぁって思っただけ」

「これは、その……。雛乃が、」

 ぴしり、と彼が目に見えて固まったのが美乃には分かった。

 気まずそうに美乃から視線を逸らすと、武虎は自身の上着のポケットを壊れたブリキのような動きで探り始める。

 そんな武虎を見ないように、視線を移した先。――可愛らしいウサギのぬいぐるみが付いた鍵がカバンの底からじっとこちらを見ているのに気が付いた。

「…………虎」

 自分でも驚くくらい冷えた声が喉を衝いて出たのが分かった。

「これじゃないの?」

 はい、と渡したウサギに武虎の額に汗が滲む。

「私、シャワー浴びたいから早く開けて」

「お、おう」

 慌てたように鍵を開けた武虎の隣を美乃は早歩きで通り抜けた。

 中庭に植えてある桜の木が、ざあと風に揺られて花を散らす。

「雛乃!」

 左手首に触れる彼の熱が、耳に木霊した自分じゃない名前が、これ以上ないくらいに痛みを感じさせる。

「わ、悪い! 違うんだ、美乃。これは……」

「知ってる。私とお姉ちゃん、双子みたいにそっくりだもんね」

 みしり、と何かが軋む音が聞こえる。

「ごめんね、そっくりで」

「……!」

「ああ、それとも。似てるから、私でもいいやって思った?」

 涙で前が滲んで見えなかった。

 自分で言っておいて、胸を深く抉られたような気分だった。

 結局、いつも貧乏くじを引くのは自分なのだ。

 好きなのに、言えなくて。それでも、諦めきれなかった。

 それなのに。


(この人は、私を見てはくれない)


 痛かった。後輩と組み手をしている時に蹴られた時でさえ、そんなことは思ったこともないのに。今はどうしようもなく、身体が、心が、痛いと感じた。

 いっそ、抱きしめてくれたらどんなに楽だろう。

 情けなく、子供のように泣く自分を見られるくらいなら、その腕の中で涙を流したい。

 

 (きっと、虎はそういう風に、私には触れてくれない)


 何となく、分かってはいたことだったけれど。鋭い槍のように身体を貫かれたそれに、美乃の涙は大粒のものへと変わっていく。

 優しい獣は、残酷な牙を突き立てるだけで、触れてはくれない。

 握られている左手首だけが、身体から離れたような感覚を感じながら、美乃は泣き続けた。

 まるで、母親に抱っこされたい子供のように、いつまでも涙を流し続けた。

 桜だけが、そんな彼女をあやすように、自らの花を散らす。


 春の雨の匂いが辺りを包んだ気がした。


三、

 寝室のベランダから見える星空は、雛乃のお気に入りだった。

 タンブラーを片手に、空に手を伸ばしては作業をするこちらに手を振っていたあの日々が懐かしい。

 彼女が居なくなってもうすぐ三ヵ月が経とうとしている。

 雛乃の居ない部屋は空っぽで、冷たくて。以前はどうやって過ごしてていたのかさえ、忘れてしまった。

「……虎」

 雛乃に良く似た声が、ドアの向こう側から聞こえてくる。

「私、部活に行ってくるけど。晩ご飯は何が良い?」

「……お前が食べたいものを作ればいいよ。俺は何でもいいから」

「……うん」

 足音が遠ざかって行くのに、武虎は頭を抱えた。

 両親は親の反対を押し切って結婚し、この地に逃れてきた。従って武虎や裕吾に身寄りは居ない。居るのかもしれないが、訪ねたところでどうなるかくらい事故で両親を亡くした幼い自分でも想像は出来た。

 そんな時、手を差し伸べてくれたのが、父と母の共通の友人である皇亮二、雛乃と美乃の父親だった。当時、十三歳の武虎に持ちかける契約内容としては随分と重い内容だったのは亮二も百も承知だったのだろう。大人になってから決めればいいと言ってくれたが、武虎はその場で書類にサインした。

 育ててもらった恩があるのは分かっている。自分が望んで、この家に置いてもらったのだから。

 それでも――。

 ずっと好きだった女が、守りたいと思っていた彼女が弟のことが好きだったなんて、受け入れたくなかった。

 ここのところ、そればかりが頭の中を占めている。

 雛乃がいなくなっても、契約内容は変わらない。次女である美乃と結婚しろと言われたが、武虎にとって美乃は未だ子供の域を出ない少女のままだ。


(くそッ!!)


 自分がまだ、守られてばかりの子供なんだと、痛感するのはいつだってこんな時だ。大学の援助金の支払いだって少しずつしか返せていない。本来であれば、皇の姓になっていた時期なのに。それが堪らなく苦しかった。ここに居場所など無いことなんて、誰よりも一番分かっているつもりだったのに。雛乃が居たから、自分は頑張ってくることが出来た。


――虎ちゃん!


あの優しい笑顔も、触れたぬくもりも。全部、嘘だったのだろうか。

彼女となら、幸せを手に入れられると信じて疑わなかった過去の自分にどうしようもなく憎らしかった。

 スン、と鼻を鳴らすと、少しばかり潮の香りがした気がした。


 武虎の様子がおかしい。

 それは雛乃がいなくなってからずっとだったが、ここ二ヵ月、強いては自分と雛乃の名前を呼び間違えたあの日から途端に元気がなくなっていた。自室に籠りがちになり、顔を合わせるのは日に二回ほど。食事も、美乃が彼の寝室に持っていくのだが、それもここ二日は手が付けられたことはなかった。

 心配になって、武虎が仕事に出かけている間に部屋に入ってみた。けれど、入ってすぐ、美乃は後悔した。部屋の壁一面に貼られた雛乃の写真が目に入ったからだ。至る所に貼られた雛乃の写真はどれも満面の笑みで、二人で出かけた先々で撮られたのか、写真の隙間に月日と場所が書かれていた。そのうちの何枚かを捨てようとしたのだろうか。所々ぐしゃぐしゃになったそれらが、机の上に乱雑に置かれていた。


 (……虎が、一枚も写っていない)


 異様な光景だった。

 二人で行ったはずの場所の写真なのに。武虎が一枚も写っていない。

 雛乃が意図してそうしたのか、はたまた偶然なのか。どちらにしろ、美乃は背筋に寒気が走るのを感じた。

 本当に雛乃のことが好きだったんだろう。だからこそ、好きでもない自分と、雛乃に似た姿の自分と生活をするのが苦しいのだ。

 自分が彼と立場が逆だったら、とそう考えるだけで美乃は吐き気がした。


(だってそんなの、耐えられる訳がない)


つう、と伝った涙は誰の為のものなのか、分からない。

けれども、止まる気配のないそれを美乃は拭おうとはしなかった。


「おかえり」

「……まだ起きてたのか」

「ご飯、一緒に食べようと思って」

 少しやつれた様子の武虎に、美乃は笑いかけた。

 困ったように眉根を寄せる彼を半ば強引にリビングに連れて行くと、椅子へと座るように言った。

「今日は虎の好きなものにしてみたの」

 好きでしょ、と美乃が肉じゃがと卵焼きを持ってキッチンから戻ってくる。

「……腹、減ってない」

「嘘ばっかり。立夏さんから今にも倒れそうな顔でカメラ握ってるってメール来たんだから」

「……」

 白米とみそ汁も持ってくると、美乃は武虎の前に座って手を合わせた。いただきます、と凛とした声が響いて、彼女の白い手が箸を掴む。

「……いただきます」

「はい、どうぞ」

 嬉しそうに笑う少女の顔が酷く心を波打つ。

 雛乃もこんな風に良く笑う子だった。花が綻ぶかのように、綺麗に笑うその顔が武虎は何より好きだった。

「……雛乃、それ取って」

「…………はい」

「あ、」

 美乃の顔が強張るのが分かった。

 困ったように曖昧な笑顔を浮かべて、醤油を差し出す彼女の手が震えているのに気が付いて、武虎が慌てたように立ち上がる。

「ち、違う!! 今のは……!」

「……分かってる。ごめんね。私と居ると嫌でもお姉ちゃんのこと思い出しちゃうよね」

 かたり、と美乃が箸を置く音がやけに大きく響いた気がした。

「一人で食べた方が気が楽でしょ? 私、自分の部屋で食べるから……」

 また、間違えてしまった。そんなつもりではなかったとはいえ、無意識の内に口を衝いて出てしまっていた。

「――美乃ッ!!」

 自室に向かおうと席を立った少女の手首を掴む。

 振り向いた、彼女の顔を見て、武虎はギョッとした。

 泣いていたのだ。

 静かに、声を出すのさえ惜しいとでも言いたげに。その眦からは涙が溢れていた。

「……ごめん、ごめんね。嫌なのは分かってる。でも、私は嬉しかったんだ」

「え」

「本家でいる時もお姉ちゃんと違って一人のことが多かったから。父さんや母さんとも、一緒にご飯食べることってあんまりなかったから、虎となら出来るかなって。でも、虎にはつらいよね? 付き合ってた女とそっくりな顔が家に居るんだから」

「よしの」

「…………名前、間違えるほど似てるもんね」

 泣きながら笑う美乃の顔はこれ以上ないくらい痛そうで。

 武虎は胸が潰されるような錯覚を覚えた。

「ごめん」

「別に、気にしてないよ。ああでも、そんなに間違えるんだったら――」

 はらり、と手の甲に触れた感触に武虎は息を飲んだ。

 金糸雀色の美しい髪が一房、床に落ちてしまっている。

「お、おま、何して!?」

 どこから取り出したのか、美乃の手に握られた鋏が彼女の髪に添えられていた。

「見分けがつけば、間違わないかなって」

「ちょ、やめろ!!」

 はらはら、とまるで桜の花が散るように、美乃の髪が彼女の手に握られた無機質な刃によって切られていく。

 鋏を奪おうと手を伸ばした武虎を嘲笑うかのように、最後に残っていた左側の髪が無残な音を残して床に散らばった。

「……あんまり気に入ってなかったから、丁度良かった」

「…………お前。何でそんな」

「だって、似てないから」

「は」

「お姉ちゃんと私、全然似てないでしょ?」

 雛乃に良く似た顔で、声で。そう言って首を傾げた美乃は今まで見たどんな表情よりも美しく、同時に恐怖を感じさせた。

「後で、整えてくれる?」

「……」

「それでチャラにしてあげる」

 何を、とは聞けなかった。

 きっとこの少女は己が自分に対して何の感情も持たないことを承知の上でここにいる。そううっすらと感じ取ってしまえば、断れる理由なんてあるはずがなかった。


 二人暮らしには広すぎるバスルームはこういう時、役に立つ。

「……もったいねえ」

「そう? 父さんが伸ばせって煩いから仕方なく伸ばしてただけで、私は短い方が好きだよ?」

「……俺は長い方が好きだ」

「の、伸ばそうか?」

 大きめのバスタオルを巻いて、テルテル坊主のような恰好をした美乃が、肩を竦めながら武虎を振り返る。

 鋏片手に目が合った彼は驚いたような顔をして、それから噴き出した。

「長いの、嫌いなんだろ」

「……虎が好きなら伸ばそうかなって思っただけ」

「え」

「あ……」

 顔と言わず、全身が熱くなるのが美乃は分かった。

 言うつもりなんて毛頭なかったというのに。先ほど、武虎が見せた笑顔の所為だ。

 どうしようと火照る顔を恐々と上げれば、鏡越しに驚いた顔のまま固まっている彼と目が合った。

「何、お前、俺のこと好きなの?」

「……ヒッ」

「なあ」

「ちょ、近い! 鋏持ったまま、近付かないでよ!」

「美乃」

 答えろ、とその目が雄弁に語っていた。

「……ずっと、好きだったよ。でも、虎はお姉ちゃんの婚約者で。私はその妹で。お兄ちゃんって呼ばなきゃいけなくなるのかって考えたら、苦しかった。ちょっと生まれたのが早いからって虎と結婚できるお姉ちゃんが羨ましかったし、嫌いだった。何でも手に入るお姉ちゃんと違って私には何もないから。それなのに、虎は私にも優しくするし。ここで一緒に暮らし始めた時だって、慣れない私のこと気遣ってどこかに誘ってくれたり、そういうのに気が付くとダメだった。好きになっちゃいけないのに。私はお姉ちゃんの代わりなのに。虎は、優しいから!! どうして? 私じゃだめなの? ねえ、どうして? 私――」


 虎以外何もいらないくらい虎が好きなの。


 がたり、と椅子から落ちて床にへたり込んだ少女の言葉に、武虎は心臓が煩くなるのが嫌でも分かった。

「……引いた?」

「……」 

 涙目でこちらを見る美乃に、どきり、と心臓が妙な音を鳴らす。

「ひ、引いてないけど、びっくりしたっていうか、その……」

「や、やっぱり、今のなし!! 忘れて!! あと髪もありがとう!!」

 慌てたようにバスルームを出ようとした美乃の腕を武虎が捕える。次いで、後ろから抱きしめた。

「と、とら」

「……ありがと」

「え、と」

「俺を好きでいてくれて、ありがとう」

 じわり、と背中に触れる部分が熱い。

 泣いているのだと、気が付く頃には腕に籠められる力が強すぎて、身動きが取れなくなってしまっていた。

「俺さ、」

「うん」

「お前のこと好きになってもいいかな?」

「…………い、いいよ」

「時間かかるかもしれないけどさ。ゆっくり、お前のこと考えるから」

 美乃、と呼ばれた名前は、今まで呼ばれた中で一番優しくて、同時に甘い気がした。


四、

 時計の針が教室を支配していた。開け放たれた窓から、入ってきた初夏の香りを纏ったぬるい風が項を優しく撫でる。

 その感触に未だ慣れなくて、短くなった髪を弄ぶように、美乃は手を這わした。

 グラウンドから聞こえてくる野球部の金属バッドの音が心地良い。

 ――美乃。

 耳に木霊するのは、低く心を震わせる大好きな人の声。

「……よっしー、顔緩みすぎだよ」

「え?」

「ほれほれ~」

 そう言って頬を友人に引っ張られて初めて、自分が浮かれていることに気が付いた。――気が付いてまた、頬が緩むのを止められない。

 だってずっと、ずっと好きだったのだ。そんな人から、好きになっても良いかと聞かれて嬉しくない訳がない。武虎の中にはまだ雛乃が住んでいる。それでも、少しでもこちらを向こうとしてくれている、その姿勢が嬉しかった。


「遅い!」

「え、何で居んの」

 校門の前に見慣れた車を見つけて、美乃は首を傾げた。

 助手席の窓から運転席に座る武虎を覗けば、彼はやや不機嫌そうにスマートフォンを取り出して言った。

「メールしただろ。見てないのかよ」

「……授業中なのに、携帯の電源入れてる訳ないでしょ。馬鹿」

 ジトリ、とした視線を幼馴染に向ければ、彼は一瞬だけきょとん、とした表情になってそれからゲラゲラと声を上げて笑った。

「マナーにするだけでいいだろ! 電源まで切るとか、変なとこ真面目だねぇ! お前!」

「う、煩いなぁ!! それで、何で居んの!!」

 今度は美乃が不機嫌になる番だった。唇を尖らせて、自分を睨む少女に何を思ったのか、武虎はゆるり、と微笑むと、助手席の扉を開けて美乃を車に乗るように促す。

「飯、食いに行こうと思って」

「は? 何で?」

「今日暑いから。どうせまた昼、抜くつもりだったんだろ」

 美乃の綺麗な顔が一瞬だけ固まる。次いで、ふるふると慌てたように首を横に振るものだから武虎は可笑しくなってしまって、また声を上げて笑った。

「そんなに笑うことでもなかったと思うんだけど……」

 シートベルトを着けながら、美乃が怒ったような口調で言った。

 窓枠に頬杖を突いて、走り抜ける景色を見ている彼女の顔をサイドミラー越しに覗き込む。整った鼻筋に、きゅっと引き結んだ桜色の唇。黙っていれば、この姉妹は本当に人形のようだ、と改めて思った。――雛乃と違うのは目の色くらいだろうか。榛色の目を金糸雀色の睫毛がぱちぱちと見え隠れさせるのを見ながら武虎は思った。

「わッ!?」

 スピードを増した所為で、睫毛と同じ色の髪が風に遊ばれる。ぐしゃぐしゃになった髪がつい最近まで腰の長さまであったのを思い出して、武虎は苦い表情になった。

「……虎?」

 凛とした鈴のような声が、鼓膜に反響する。

 ここのところ、彼女に名前を呼ばれるだけで、腹の底がカッと熱くなるような錯覚を覚える。

「首、寒くねえ?」

 少し硬い口調になってしまったのが、自分でも分かって武虎はムッと唇を尖らせて、前の車のナンバープレートを睨みつけた。

 怒ったような声でそんなことを言われて、美乃は首を傾げながらに幼馴染を見遣った。ここ最近は仕事が長引いたと言っていた所為か、目の下には隈が出来ており、眉間の皺も常の三割増し深く刻まれている。

 明るめの茶髪が西日に反射して、きらきらと眩しい。それに暫し見惚れていると、赤信号になった途端、彼と目が合った。 

 日本人にしては珍しい灰色の瞳に、痛いくらいに目立つ己の髪が映り込む。

「寒くねえって、聞いてんだろ」

「え、あ、ああ。さ、寒くないよ? だってまだ夏にもなってないし! むしろ夏になる前に切れてラッキーだったっていうか……」

 早口で捲し立てながら、耳が、頬がじわりと熱を孕むのが分かって、美乃はきゅっと口を結んだ。

 どうにもこの幼馴染の前だと、口が上手く機能してくれない。そっ、とフロントガラスに目を遣って、美乃は溜息を吐き出した。

「何? やっぱり気に入らねえって?」

「違うってば」

 よく考えると子供の頃から、この幼馴染と真面に会話を続けたことがないのを思い出して、美乃は小さく笑った。いつまで経っても子ども扱いで、なかなか話の輪に入れてくれなかったことが脳裏を過って苦い思いが顔を覗かせる。

「……お姉ちゃんなら、」

 雛乃なら、こんな時、にっこり笑って簡単に受け流してしまうんだろう。そういう、姉だった。

「笑いながら、『本当はちょっと気に入ってたの。だから残念だなぁって溜息出ちゃった』って言いそう」

 美乃の言葉に、脳内で雛乃がそう言うのが簡単に想像できてしまって、武虎は居心地悪そうにハンドルを握りしめる力を強めた。

「……何で、雛乃が出てくるんだよ」

「別に」

「お前は、美乃だろ」

 剣呑な雰囲気が車内を侵していく。

 好きになっても良いかと聞かれて本当に嬉しかった。けれども、同時に彼の中に未だ居座る姉の存在が許せなかった。

 きっとこの人は自分と姉を重ねて見るに決まっている。

 もう何年も比べられてきたのだ。今更、誰に何を言われても気にしないけれど、武虎にだけは、姉と比べられたくなかった。


(……言っても、分かんないんだろうなぁ)


 三ヵ月経って、やっと雛乃の名前を口に出さなくなった男だ。そう簡単に忘れられる訳がないと、分かっていたはずだった。

 とんとん、と美乃が指で肘置きを叩いてリズムを刻む。それがぴりぴりとした車内の中にやけに大きく響いて、武虎と美乃の眉間に皺が寄った。

「――別に、無理しなくていいよ」

 武虎の指先が怒りで白く染まるのを視界の端に収めながら、美乃は俯いた。

赤く染まった信号を眺めながら、武虎が口を開く。

「何が」

 恐ろしく低い声だった。怒気を通り越して、いっそ殺気すら感じさせる、そんな声。

「私と居るの、面倒くさいでしょう?」

「……あのなぁ」

 それを言うなら俺の方だ、と武虎は言おうとして固まった。目の前の横断歩道を、見知った人間が通ったように思ったからだ。

 この道の信号は長い。そう判断するとほぼ同時に、武虎は車を雑に路肩に乗り上げるように停めて、運転席を飛び出した。


 急に運転席から飛び出した武虎に、最初は怒って飛び出したのだとばかり思っていた美乃は、彼の視線の先に居る人物を捉えて、息を飲んだ。

 長い、腰元まである金糸雀色が風に翻って、進んでいく。

「雛乃!!!」

 車の中で居ても聞こえてくるほど、大きな声で武虎が彼女の名前を呼んだ。

 ズキン、と心臓が嫌な音を立てる。

 震える手で助手席のドアを開けて、覚束ない足取りで彼の後を追った。

 行かないで。

 羽虫が羽を震わせるようなそんな小さな音が空間に溶ける。

 逃れた金糸雀に手を伸ばそうとする虎をじっと眺めることしか出来ない自分に、美乃は視界が歪んでいくのをぐっと堪えた。

 初めから分かっていたことじゃないか。自分は姉の代わりで、あの人は姉が好き。ずっと前から知っていたことなのに。

 ふと、横断歩道の信号がチカチカと点滅しているのに気が付いて、美乃はハッとした。

 雛乃を追うことに夢中な武虎の死角から車が曲がってくるのが見えた。

 項を冷たい汗が流れていく。どっ、と加速していく心臓の音を感じながら美乃は走り始めていた。武虎の大きな背中が近付く。手を伸ばすより、足の方がリーチが長い。空手で鍛えた脚力なら、成人男性でも飛ばせる自信があった。

走りながら利き足に意識を集中させた。武虎と車の距離が縮まる。ふっと、息を吐き出して同時に彼の背中を蹴り飛ばした。

ドンッ、と背中に強い衝撃を感じたと思ったら、気が付くと人だかりに囲まれていた。

「――大丈夫ですか!?」

 それが自分に向けられたものではないことに気が付いて、武虎は朦朧とする頭を押さえながら、声がした方を振り返った。

 車のボンネットで血を流す美乃の姿が、目に飛び込んでくる。


「美乃!!」

「美乃ちゃん!!」


 走り出そうとした武虎より先に雛乃が美乃の元へと走っていく。

「美乃ちゃん、美乃ちゃん!! 起きて、お願い目を開けて!!」

 金切り声を上げて、雛乃が美乃の身体を揺らした。

目の前の光景が受け入れ難くて、武虎は固く目を閉じた。

 確か自分は雛乃を追いかけて横断歩道を走っていたはずだ。その時、美乃は車の中に……。


『行かないで』


 小さな声が聞こえてきたのを知っていたのに、武虎はそれを無視した。くそ、と胸の内で毒吐いて、美乃に泣き縋る雛乃の肩に手を置く。

「雛乃」

「……っ」

「どけ、ここからなら、岩井先生の診療所が近い」

 武虎に頷きながら、雛乃は美乃から手を離した。その時、見えた大きな腹から目を背けるように、武虎が美乃の身体を抱き上げる。

「……怪我、ありませんか?」

「ひ、は、はい」

 呆然と固まっていた運転手にそう声を掛ければ、彼は首を縦に頷かせた。ちら、と雛乃の方を見ると、携帯を取り出して、どこかに電話を掛け始める。その手が震えているのを視界の端に収めながら、武虎は車の脇で呆然としていた運転手に声を掛けた。

「すみません。先に病院に連れて行ってきます。お話は後ほど、きちんとさせて頂きますので……」

「も、もちろんです。警察に連絡はしました。早く連れて行ってあげてください」

 顔面蒼白になりながら、運転手が武虎に頭を下げた。深々と頭を下げる彼に、武虎はきつく唇を噛みしめると、路肩に停めたままだった車に急いで向かった。


 消毒液の香りに、美乃はゆっくりと目を覚ました。

 トクン、トクン、と自分のものではない心音が指先から伝わってくるのに、美乃は漸く意識を覚醒させた。

「……虎?」

 大きな掌に包まれた自分の左手と、その手の持ち主を見て美乃は驚いた。

 青白い顔をした武虎がそこに座っていた。

「よ、しの」

 今にも泣きだしそうな顔で、声で、名前を呼ばれて、美乃は瞬きを繰り返す。

 未だかつて見たことのない幼馴染の表情にどうしたら良いのか分からなくて、取りあえず身体を起こそうとして、腰に鈍痛が走った。思わず、唸った美乃に、武虎の腕が伸びてくる。

 ぎゅう、と痛いくらいの強さで抱きしめられて、美乃は息を飲んだ。

「美乃、美乃」

「え、」

「美乃、ごめん。ごめんな」

 無事でよかった。

 額を合わせた武虎が涙を目に溜めて、そう呟いた。

 武虎の眦から零れた滴が手の甲に落ちて冷たい。

「……怪我、ない?」

 何を言おうか迷って、結局口を衝いて出たのはそんな言葉だった。

 その言葉に、武虎の目からはらはらと涙が溢れては、シーツと美乃の病衣を濡らした。

「よしのっ……よしのっ……」

 触れる、体温が愛おしい。

 背中に回る腕は自分より数倍逞しいものなのに、何だか子供に抱き着かれているような気分になってしまって、美乃は泣きながら小さく笑った。

「…………よっちゃん。大丈夫かい?」

 入り難そうにドアから顔を覗かせた老医師に美乃は、こくり、と頷きを返した。

「美乃」

 怒鳴り声で名前を呼ばれることの方が多かったから、一瞬誰に名前を呼ばれたのか分からなかった。老医師の後ろから、血の気が失せて顔が真っ白になった父が自分を呼ぶ声に美乃は肩を震わせた。

「父さん」

 いくら嫌っていても、この人は自分の父親で。本当は素直になれないだけだとお互い知っている。本当は大好きな、父親。その姿を目に収めた途端、美乃の目に涙が膜を張った。父さん、とまた美乃が小さく呼べば、亮二が小走りで駆け寄ってきた。

 もう随分触れていなかった、父の腕が美乃の頭を掻き抱く。

「まったく、お前は無茶をする」

「うん」

「ガラスで頭を切ったと聞いた時は、肝が冷えたぞ」

 うっすらと血の滲む包帯を撫でながら、亮二は苦笑した。

 昔からやんちゃだとは思っていたが、可愛い娘には変わりない。怪我をして心配するなという方が無理だった。

「……大丈夫か、武虎」

「は、はい。あの、俺が轢かれそうになったのを美乃が助けてくれて……」

「助けたって言っても、蹴り飛ばしただけなんだけどね」

 頬を掻きながら苦笑する美乃に、武虎と亮二は目を合わせた。

「け、蹴ったって! お、俺のこと、蹴ったって言いましたよ、今!」

「……ふッ」

 二人して堪えきれないといった様子で笑いだしてしまうものだから、美乃はムッと唇を尖らせると彼らから目を逸らすように、半開きになったままのドアに視線を移した。

 先ほどから感じるそわそわとした気配に、もしかして、と心臓があらぬ音を立てるのを必死で押さえながら、口を開く。

「…………お姉ちゃん?」

 美乃の声に、武虎と亮二の顔が固まった。二人して、食い入るように病室のドアを凝視する。

「雛乃」

 亮二の声に、ドアが少しずつ開いていく。 

随分と大きくなった腹を手で支えながら、雛乃がゆっくりと病室の中に入ってきた。その数歩後ろを、彼女の鞄や見舞いの品を持った裕悟が姿を見せる。

「美乃ちゃん、ごめんね」

 家を出るときに美乃に言った言葉を、雛乃はまた口にした。

 美乃がじっと姉を見れば、彼女はゆっくりと緩慢な動作で椅子に腰を下ろして、妹の手を握った。

 透き通ったビー玉のような不思議な色をした瞳が、金糸雀色の睫毛の間から覗く。

「ごめん」

 そうしてまた、消え入りそうな声でそんなことを言うものだから、美乃はぐっと奥歯を噛み締めた。布団の中では、握られていない方の左手が力を籠めすぎて震えていたが、美乃はただ静かな声でそっと雛乃に問うた。

「どうして、謝ってるの?」

「え、」

「お姉ちゃん、私に何か謝るようなこと、したの?」

 美乃の声は怒りで震えていた。

 もともと女にしては低い声が、怒っている所為で更に低くなっていることに、雛乃がびくり、と肩を震わせる。

 何も聞きたくなかった。

 姉の所為で、武虎は傷付いて、自分は初恋を諦めなくてはいけなくなった。今更何を言われたところで、許すつもりも、受け入れるつもりも毛頭ない。

 脳裏に浮かんでは消える、武虎と雛乃、二人の笑顔に、どうしようもなく腹が立った。

「……帰って」

 涙声になるのが悔しい。

 一緒の空間に居ることが耐え難い、苦痛でしかなかった。

「雛乃、今日はもう帰りなさい。私も一度家に戻って美乃の着替えを持ってくる」

「お、俺が取りに……」

「お前は美乃と一緒に居てやってくれ」

 亮二はそう言うと、妹からの拒絶に項垂れたまま微動だにしない雛乃の肩をそっと揺すぶった。

「ほら、立ちなさい。お前たち二人には話があるんだ」

「……ッ」

「雛乃」

 亮二が強い口調で娘の名を呼べば、雛乃はぎこちない動きでそれに従った。

 裕悟に支えられながら病室を出ていく姉の後ろ姿を目に焼き付けて、美乃は目から涙が溢れるのを止めることが出来なかった。

 

「美乃」

 シーツを握りしめて泣きじゃくる少女の名前を、出来る限り優しい声音で呼んでやれば、いやいや、と首を振りながら弱い拒絶を返されてしまって武虎は肩を竦めた。

 雛乃が気を失った美乃の元に駆け寄った時、心臓が止まるかと思った。好きだった女と、自分を好きでいてくれた少女。よく似た顔が目の前に二つ。美乃に蹴られた所為でぼうっとしながらも、武虎は迷わず美乃の方に手を伸ばした。

 病院に向かうまでの間、荒く息を繰り返す美乃が、普段よりずっと小さくて、弱い生き物のように思えた。額から流れる血が、美乃の白い肌を汚していくのに、武虎はぐっと喉を詰まらせた。


(死ぬな、死ぬなよ……!)


 俺はまだ、お前に何も伝えていない。

 怖かった。彼女を失うことが、何より。目の前が真っ暗になってしまうほどに、怖いと思った。その恐怖に、武虎は初めて自分が少女に向ける想いに名前を付ける決心がついた。

 

小刻みに震える美乃の手に、武虎はそっと己の手を重ねる。

 一瞬だけびくついたそれに気を良くすると、涙でぐしゃぐしゃになった美乃と目が合った。

「美乃」

「……っ」

「美乃」

 何度も、何度も、彼女の震えが消えるまで、武虎は美乃の名前を優しく呼び続けた。

 胸の中をぽかぽかと駆け巡る温かい何かに、知れず笑みが零れる。

「も、いい」

 恥ずかしかったのだろうか、少しだけ頬に赤みが戻った美乃に、武虎は微笑む。

「美乃、」

「だから、もういいって言って――」

 声が遮られる。温かい何かに唇を覆われて、それが武虎の唇だと気付く頃には、にやにやと人の悪い笑みを浮かべた武虎と鼻先が触れあっていた。

 何が起きたか分からない、と目を白黒させている間にまた唇を塞がれてしまう。

「…………いきなり、なにすんの」

「呂律回ってねえぞ」

「だれの、せいだと」

 ちゅ、と可愛いリップ音がして、それから舌が絡められる。慣れない舌の感触に思わず後ずさりそうになった美乃の腰を、武虎は逃がさなかった。

 消毒液の臭いが充満する病室に、二人の唾液が混ざり合う水音が厭らしく木霊する。

 じわり、と頬に熱が上るのを感じて、美乃は武虎の胸板を叩いた。

 いくら個室とはいえ、誰が来てもおかしくはない。それに、さっきからどうやって息を吸えばいいのか分からなくて、苦しかった。

「……っふ……ん……」

 しつこい、と睨みで訴えてくる腕の中の少女に武虎は笑みを零す。

「……美乃」

 今日は、よく名前を呼ばれる日だな、と初めてのキスでぼうっとしながら美乃は思った。

 それに気が付くと、今更ながらにキスをされたことが恥ずかしくなってしまって、顔を隠すように目の前の肩に顔を伏せた。


 それからどれくらいそうしていただろうか。

 不意に、武虎が美乃の身体を自分から引き離した。肩が涙や鼻水でびしょびしょになってしまっていたが、そんなこと今はどうでも良い。

 水滴を纏う金糸雀色の睫毛が、常にも増して美しかった。

 眦に溜まる涙は、自分の為に彼女が怒っていることを教えてくれて、それが堪らなく嬉しい。

 歪んでいる、自覚はある。

 けれども、もう、この少女のことを手放せそうにはなかった。

 すっかり見慣れるようになった、肩までの金糸雀色を手で掬うと、美乃の表情が少しだけ強張った。

 少しでも、己の気持ちが伝わるように、と彼女の目の前でその髪に口付けを落とす。

 途端に顔を真っ赤に染めた美乃に、武虎は追い打ちを掛けるように言った。


「好きだよ、美乃」


 ――お前が欲しい。


 何て、甘美で毒々しい言葉なんだろう。

 美乃は言われた言葉の意味が分からずに、目の前で、照れたように眦を赤く染める幼馴染を凝視することしか出来なかった。

「え、」

 聞き返した声に力が入らない。

 悪い夢でも見ているような、そんな、錯覚を覚えた。

「だから、お前が好きだって」

「嘘だ」

 食い気味に、武虎の言葉を遮ると、彼は怒る素振りも見せずに、むしろ満面の笑みになって美乃の身体を引き寄せた。

「嘘じゃないって」

「……じゃあ、これは夢だ」

「違う、夢じゃない」

 ほら、とそう言って武虎が美乃の手を自分の左胸に重なるように導いた。

 触れた個所から熱が伝わってきて、次いで、武虎の鼓動が早鐘を打つように響くことに美乃の顔が驚愕の色に染まる。

「……な?」

「わ、わかんない」

「何が」

 ごくり、と美乃が生唾を飲む音がやけに大きく響いた。

 緊張で、汗が滲むのに、美乃の顔が渋くなる。

「だって、虎は、お姉ちゃんが……」

「好きだったよ、本当に。あいつ以外何もいらないくらい。あいつが笑ってくれるなら、俺はそれだけで良かったんだ」

 熱烈な告白に、美乃の顔から血の気が失せていく。それはまるで、いつかの夜に、美乃が武虎に向けて放った言葉のようで、腹の底が急速に冷えていくのを実感させられる。

「でもな、」

「?」

「俺はお前がいいんだ、美乃」

 握った小さな手は、部活動の活躍でか、所々タコや擦り傷が出来ていて、とても女らしいとは言えない。けれど、武虎はこの手が何より美しいことを知っていた。

 小さな頃から、すぐ後ろを追いかけるように歩いてきた可愛い女の子。それが今では、自分の隣を歩いて、こちらに笑いかけてくれる。好意を向けてくれる。

 それがどんなに、凄いことか改めて知らしめられた。

「俺は、お前がいなくなるかもしれないと思って怖かった。雛乃が家から出て行った時なんか比じゃないくらい。お前がいなくなるのが怖かったんだよ、美乃」

 どんな、殺し文句だそれは。美乃はぐっと涙が出るのを必死で堪えると、武虎の目をまっすぐに見つめて言った。

「じゃあ、もうどこにも行かない?」

「行かない」

「私だけ、見てくれる?」

「うん」

 スウッ、と胸に溜まっていたどす黒い何かが消えていくのを感じて、美乃は微笑んだ。何年か振りに見る彼女の心からの笑みに、武虎も釣られて笑みを零す。

「好きだよ、美乃。――俺のお嫁さんになってください」

「……はいッ!」

 ひひ、と笑う少女が、愛おしくて、衝動のままに口付けを贈る。

「美乃」

「なあに?」

 帰ったら、指輪を見に行こう。

 そう耳元で囁いた武虎の鳩尾に軽く拳を捻じ込むと美乃は笑って、頷いた。

 

 病室の窓から見える桜の葉が、さわさわと風に揺れる音が、耳に心地良い。

 数秒見つめ合って、それからまた、どちらからともなくキスを交わした。


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遅咲きの桜 神連カズサ @ka3tsu0

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