第6話 イルクーツクの対決
「部屋に戻りたまえ!」
ホームズの声で我にかえり、徐の遺体が眠る居間へ駆けた。猛獣をけしかけられたような驚きだった。私たち3人はなだれ込むように、
暗闇の中から男は現れた。意外なほど痩身で小柄だった。口髭を立て眉は太く、緑と白で彩られた清国の
「大人しく英国へお帰りいただこう。さもなくば李同臣の拳は貴様らにふるう事になる」
灼熱を連想させる堂々とした声が、広い部屋に響いた。
「あれは、まさかお兄さんの師匠かね?」
うろたえながら林に聞いた。林が、現れた男をじっと見つめて首を縦に振った。
「はい。神槍とよばれた李書文です」
「待ちたまえ。我々もまた英国からハーバーを追ってここまで来たのだ。協力できる立場ではないかね?」
ホームズが李に問いかけた。
「そちらには協力が必要かもしれないが、私にはそうでもなくてな」
3人を前にしてなんら警戒することもなく、男は無造作に手近な
部屋に置かれた燭台は、正教徒が礼拝に使うような極めて大きなもので、大の男が2人で運ぶ作りだ。李が拳を作り、それにこつりと軽く当てた。
再び、異様な衝撃音が部屋をゆるがした。
李がその両足を広げて踏みこみ、伸ばした拳に力を入れたのだ。地鳴りのように床がぐらついた。
この踏み込みこそが、尋常ならざる破壊力を生む
青銅の燭台は直立したまま壁へ弾けとんだ。上に並ぶ火の消えた蝋燭は粉微塵に消し飛び、本体は壁にめり込み描かれた絵のようになってしまった。
改めて男の神技を見せつけられた。文字通りの一撃必殺、二の打ちいらずだ。ホテルの壁が壊せるかなど考える余地もない。この手にかかれば、セヴァストポリ要塞(注3)の城壁もラ・グロワール(注4)を守る鋼鉄も羊皮紙のごとくであろう。
「英国紳士君。この警告は遠路はるばるやってきた君たちに対する、私なりの敬意なのだ。我が
李と名乗るこの男に、私は完全に言葉を失った。さながらヘビににらまれたカエルの気分だった。清国には3億の民が住まうというが、その中に生まれる天才とはかくのごときものなのだ。ホームズといえど、このレベルに匹敵する力は持ち合わせていないだろう。逃げるしかない。思って、
「君がおっしゃる事は理解した」
ホームズが答えた。
「だが全てを納得するには、試してみたいことがいくつも浮かんでいるのだよ。一つ、ここは君の手を借りるため、逃げず降らず、立ち合うという選択をしたいね」
「ホームズ?」
「止めないでくれよワトソン君。今回の事件簿の中でも、ここは最大の名シーンとなるだろうからね」
ホームズはインバネスコートを脱いで私に渡すと、ステッキを両手に取って腰を落とした。私が呆然と肩を落とした。林も同じ顔をしていた。この男が予想をはずしてくるのはいつものことだ。しかしまさか、生死を前にしてこんな事を言いだすとは思っていなかった。
「やめるんだホームズ! こんなのが相手じゃ自殺も同然だ!」
「ワトソン君。こんな神秘を前に尻尾を巻くのでは、あまりにも挫折感が大きすぎるよ」
「ホームズさん! やめてください、逃げるのです! 神槍李に勝った武術家はこれまで1人もいないのです!」
「林さん。清国ではそうかもしれないが、この世にはまだ、英国という国もある。それをこの達人にも見ていただきたいのですよ」
なんということだろう。ホームズはその長身を低く落としてステッキを構え、李書文と名乗る男の正面に立ち、まっすぐに目を合わせたのだ。
「ずいぶん酔狂な男だな。英国紳士君、君の名前と職務を聞いておこうか」
その言葉に眉も動かさず、私の友人は泰然と答えた。
「僕はシャーロック・ホームズ。スコットランドヤードの顧問探偵だ」
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注3:クリミア戦争の激戦地で使われた、ロシア軍黒海艦隊の立てこもった要塞
注4:フランス軍による、世界で初めて外洋航行を可能とした装甲艦
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