第4話 ユーラシア東進

 レストレード警部と別れ、懐かしいベーカー街の下宿に戻った。着替えと歯ブラシ、加えて鉄の引き出しから拳銃を取りだす。使うこともなかったので手に馴染まず不自然な軽さを感じたが、ホームズに持つよう頼み込まれていた。彼は今回荷物がかなりの量になるらしく、拳銃は持てないという話だ。


 荷物を2つのカバンに分け、馬車でドーバーへ。その中でとにかくホームズと話しあったのが、同行する林をどう扱うかということだった。外国人とはいえ、彼女はどうみても下層階級ではない。夫でもない我々と旅をするにはふしだらではないと思われる理由が必要だ。周りからどう見られるかわかったものじゃない。


「シャパロン(注2)を考えようか。誰かあては思いつかないか?」


「ワトソン君、何を言ってるんだ。こんな長い旅で、さらに女性を巻きこめるわけないだろう。彼女は仕事を依頼しているんだ。期待にそうことが全てだよ」

 ため息をついた。私の友人は思想こそ幅広いが、どうも無頓着すぎる。


「私はあなたがたを信用したのです。そういったご心配は必要ありません」

 結局、林のこの言葉に押しきられた。彼女の名誉を守るのは紳士のつとめとわかってはいるが、うまい考えは何も浮かばなかった。


 馬車を降りる。鉄道連絡船は出る間際のきわどい時間だ。ホームズも時間を無駄にしたくないのか、林が乗船名簿を書くのを後ろからじっと見つめていた。


「すぐに出るよ。フランスへの逃避行をお楽しみに」

 出国の手続きを担当している男が、にやにやと旅券を返してくる。まさしくほら見ろという奴だ。思ってホームズをにらんだが、彼は考えごとにふけってこちらを見もしなかった。


 入って数分もしないうちに、フェリーはドーバーに切り立つ白亜の壁を背に、カレーの白亜へむけて抜錨ばつびょうした。プロシアを横断してワルシャワとキエフを経由し、モスクワへ向かう予定だ。船の中で、ホームズは10回は読み返したと思われる清国語の教則本と文法書を引きちぎっては捨て、切り取った部分は片っ端から線を引きつつ林を質問ぜめにしていた。珍しくフランスまでは波もなく穏やかで、勉強には集中できたようだ。


 到着したころには、林とホームズは簡単な会話なら清国語でかわすことができていた。私たちは馬車を探した。カレーの沿岸から少し離れた場所に、タバコを吸いながら休んでいる御者を見つけた。


 行き先をつげて先に林を乗せる。そこで胸の前にホームズの腕が差しだされた。


「さがれ、ワトソン君!」

 ホームズが私の腕を引いて馬車から引き離した。


 何をするかというより早く理解した。銃弾が木製のドアを貫いたのだ。道路の反対側に賊の姿が見えた。私たちは馬車の陰に隠れ、内ポケットから拳銃を引き抜いた。


 そこで、私は自分のまぬけさに打ちのめされる事となった。なんということか、愛用のアダムズ1872年型リボルバーには弾丸が込められていなかったのだ。引き出しから取り出した時、軽かったのを気にするべきだった。


「林さんは?」

 馬車へ先に入っていては助けることもできない。なんたるざまだ!


 冷や汗を流しながら馬車の陰から目を出す。連続して射撃音が鳴った。どれも当たりはしなかったものの、賊は慌てて建物の路地に身を隠した。まずい、逃げられてしまう。


 しかしそう思った時、意外な加勢が来た。林が馬車から火のついたボールのようなものを投げたのだ。遅れて爆音が響いた。


 ダイナマイトでも持っていたのかと思ったが、派手な火花は戦争用には見えない。鮮やかなその色は花火のものだ。大道芸で使うもののようだ。度肝を抜かれてか、賊は慌てて街路に転がった。


 私たちは馬車の陰から飛び出し、賊へと近づいた。ホームズが男の巨大な拳銃をステッキでうち飛ばし、返す強烈な一撃をすねに叩きつけた。


「動くな!」

 私は弾丸の入っていない拳銃を構えた。訓練を受けていると相手に伝わるように、いかにも軍人らしい姿勢で賊を威嚇いかくした。


「撃つな! 雇われたんだ!」

 幸いハッタリは効いたようだ。フランス語なまりが強かったが、一応英語が話せるらしい。焦げたヒゲをいそがしく揺らしながら男がさけんだ。


「味方はあと何人いる」

 ホームズが周囲を警戒しながら賊に聞いた。


「お、俺だけだ。本当だ」

「嘘をついているようではないな。昨晩の仕事帰りにドイツ人から頼まれたか」


「な、なんでそんなことがわかる?」

 男が足を引きずりながら驚いた。


「ついてるぞ、ワトソン君。フリッツ・ハーバーは我々の動きを警戒して、我々からつかず離れずを考えているのだ。見たまえ。ドイツの新型ピストルだよ」


 ホームズは賊から、見慣れない巨大な拳銃を取り上げた。ライフル機構を片手サイズに縮めたというオートマチック・ハンドガンだ。ヒューゴー・ボーチャード発案の7.65mm弾を使用するこの拳銃は、マガジンと呼ばれるシステムに8発もの装弾ができると聞く。


「どうも借り物のようだね。荷物も減ったことだし、使わせてもらうよ。君を罪に問うことはやめよう。明日からまた屋根の修繕を頑張りたまえ」


「ば、化け物だ!」

 腰を抜かしながら、男は足を引きずってのたうつように逃げていった。


「ポケットにドイツの誇るペリカン商標入り万年筆、右手の小指にそのインク。契約した時の褒美がてらだろうね。それにしても見事な機転でした。助かりましたよ林さん」

 ホームズが言った。


「お役に立てて光栄です。いささかですが、荒事あらごとにも備えておこうかと思いまして」

「いささかなんてとんでもない」


 私は本音でそう答えた。彼女はそれに微笑を浮かべたものの、すぐに厳しい表情に戻った。


「ありがとうございます。ですが喜ぶのは決着がついてからです」


「心配ありません。これでかえってハーバー逮捕の可能性は、ぐっと上がると確信できましたよ」

 ホームズが自信に満ちた声を出した。


「なんだって? こんな襲撃を受けておいて何をいうんだ」


「何をいうんだとはこちらのセリフだよワトソン。これで僕たちは清国への地の利がないことなんか何も気にしなくて良くなったんだ。ベンティンク街からウェルベック街へ、横切るように気楽に行けるようになったんじゃないか。それというのも、彼らはごろつきに襲わせるほど、僕たちの行動を意識しているからだよ!


 フリッツ・ハーバーはおそらくここから1マイルも離れていないところにいる。この追跡が皿の上の豆をすくうより簡単だと言っても、もう驚かないだろう。ハーバーは僕たちを迎撃するか、そうでなくても監視をしながら移動するという、きわめて高度な曲芸を試みているのだ。比べてこちらはただまっすぐ動くだけでいい」


「それは……そうかもしれないが、危険なのは間違いないだろう?」


「こんな手を何度も使うわけがないよ。今は人気のない場所だからタイミングが良かっただけだ。これ以降は人がいなければ雇えず、群衆の中では目立ってしまう。さあ、御者が戻ってきたよ」


 銃声が響くや転がるように逃げた御者が、おそるおそる忍び足でやってきた。馬が無事だったことにほっとしてから、震え声で私たちにどうすると聞いてくる。苦笑しながら、再度3人で馬車に乗った。


 フランスの小道を4~5マイルほど進んだ。気温は低かったが良い天気だった。木々とブドウの生垣が、乾いた大地から連なっている。揺られながら、先ほどの襲撃の記録をつけた。馬車の前に座って腕を組み、帽子を目深にかぶり休んでいたホームズの肩を叩いた。


「一つ忘れていた。さっきの男、屋根の修繕というのは?」


「腹に風化したレンガとスレートの粉。服は背だけが日に焼けていたね」

「なるほど」


「基本だよ、ワトソン君」

 ホームズが再び目深に帽子をかぶった。私は撃たれそうになったことも忘れてメモを取り続ける。ちらちらと、林がこちらを見た。


「それは旅行記ですか?」

「今回はね。普段は事件簿です」


「私のことも書いていますか?」

「え? ええ。それはまあ」


「できれば……その、あまり清国人を悪く書かないでいただければと思います」

「あ、それは当然ですよ。客観的に書くようにしております。この友人にはしばしば偏っていると怒られるのですが、それは彼の名推理を持ちあげすぎるからとか、そういう話であって……」


「ワトソン。彼女は、清国がイギリスを頼るほどに弱っていると受けとられないか、それを気にしているのだ」

 ホームズが口をはさんだ。


「申し訳ありません。お恥ずかしいことですが、つい」

 林が目を伏せていった。


「ああ、なるほど。それも大丈夫ですよ。犯罪を犯罪として書くだけです。政治を混ぜこんだりしません」

 あわてて加えた。それを聞くと、林は少しほっとしたような笑顔になった。


 いろいろな事件を見てきたが、今回ほど様々な思いを抱えて来た依頼人は少なかった。彼女は兄の死という深い悲しみを抱えながらも、清国政府のより大きな問題も解決する必要があるのだ。その双肩に乗っているものの重さは、私にも想像できた。


 フランスからプロシアに入り、ベルリンで1泊。ここで最大の分岐路である、プロシア帝国肝入りの鉄道計画であるビザンツルートか、それともやはりシベリアルートかという話になった。ホームズは逡巡しゅんじゅんの後、やはり清国へはシベリア経由しかないと結論を下した。


「日数が問題だ。一刻も早く清国に到着したい。真相は清国へ運ばれた設備とロンドンの調査結果を組み合わせて初めてわかる。それにビザンツルートでは我々への襲撃の可能性は飛躍的に高くなるだろう」


 この言葉を決着として、我々はドイツから東へ進んだ。ハーバーはなかなか姿を見せなかったが、長距離列車に乗るまでの勝負だとホームズは言った。必ず同じ列車に乗るはずなのだという。


 はたしてホームズの推理は正しかった。我々はワルシャワ経由でモスクワにたどり着き、ついにそのドイツ人を見つけたのだ。ホームズの推理はどこまでも的確だった。林が彼だとはっきり言った。


 フリッツ・ハーバーと言われたその男は、大きく髪のない頭と丸い肉付きの良い顔で、落ち着いた表情で窓の外を見つめていた。顔とおなじく丸い鼻眼鏡の下には、整えた口ひげを立てている。その外見は冷たそうなところがあったが、鋭い眼光と仕草から、訓練を受けた任務に忠実な男であろうことが見てとれた。ハーバーはガスに関する機材が入っていると思われる巨大なケースに背を預け、悠然とマントを脱いだ。それを丁寧にたたんで自分の腕にかけ、それからゆっくりと周囲を見渡している。


「こちらを警戒しているようでもないね」

「そんな事はない。こちらが向こうを見ているときに、向こうがこちらを見ないだけだ。手ごわいぞワトソン君。彼は化学の知識だけではなく、多様な能力に恵まれた相手とみるべきだ。あれが学者だとは信じがたいな。諜報ちょうほうとしての能力も十二分といったところだよ」


 男の背を見ながら、我々はついにシベリア鉄道に乗りこんだ。帝政ロシアが誇る最新鉄道の乗り心地は最悪だった。急ごしらえのせいか車体は大きく左右に揺れ、乗って数時間後には吐き気が込み上げてきた。最初こそ悪態をついていたが、それで改善されるわけもない。一日が過ぎるころには、こういうものだと割りきるしかないと悟った。


 ウラル山脈にさしかかる手前あたりで、偶然だが彼の横顔がはっきり見えた。巨大な黒のマントの内側に、防寒になりそうなウールの衣服を重ねて着込んでいる。この季節から始まるシベリアの冬に、入念な対策を施しているようだ。


「鏡を何度も見ている。何のためだろう?」

 ホームズがハーバーを見てつぶやいた。


「肌荒れかな」

「そうも見えない。最初は視線を外しながら僕らの居場所を見るためかと思ったが、違うようだ」


「ふむ……容姿を気にするほどの男とも思えないしね」

 あいづちを打ったが、それよりも林の視線が気になった。男を見るたびに彼女が気になった。兄を殺された悔しさが伝わってくるのだ。しかし、衆目しゅうもくのある場所で決着をつけることはできない。


「アジアに入るまで、私は自分の心を凍らせます。配慮は無用です。私はあなた方に全幅の信頼を捧げています。二言はありません」

 林が私の視線を察して言った。


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注2:交際関係にない男女が不純な関係にならないよう見張る人のこと。年配の女性である場合が多い。

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