ホームズvs李書文
梧桐 彰
プロローグ
1897年。文学研究家のバジル・ウィリーは、この時代の英国を生きることができたら、これほど幸せな生涯はないだろうと述べている。ヴィクトリア時代のイギリスは、その言葉にふさわしい世界的国家としての全盛期を迎えていた。平和と繁栄、潤沢と自由がそこにあった。しかしその一方で、社会を脅かす凶悪な事件もまた後を絶たなかった。
この日は11月1日月曜日。ロンドン搭に接したタワーブリッジを背に、ニュース・オブ・ザ・ワールドを配る少年の声が走っていた。この庶民のためのタブロイド紙は、普段は日曜日だけに発売される。それが翌日まで発売されたのは、売り切れが続出したからだった。人目をひく事件がおき、臨時の増刷が出たのだ。
「さあ買ってよ買ってよ、早い者勝ちだよ! キングストン・アポン・テムズ区のホワイトヒルホテルでの惨劇! 死亡したのは密室にいた身元不明の東洋人ふたり!」
汗を流しながらタブロイドを配る少年の手に、毛深い男の手が重なった。
「ガキ、見せてくれ」
「はいよっ!」
無精髭の労働者が新聞を受け取り、ペニー通貨を少年の皮袋へつっこむ。
「おいガキなんだこりゃ? 昨日から騒いどいて、2人死んだだけか? そんな大ごとか?」
「人数が問題じゃないんだよ。謎だらけなんだ。この殺された東洋人2人には傷がどこにもなくて、現場の壁には異常な大穴ができてたんだよ!」
少年は両手を握って労働者の顔を見上げ、甲高い早口でまくし立てた。
「ふーん」
パイプをくるくる回しながら男が記事にさっと目を走らせる。周りに人が集まってきた。
「なんだよ『中国人の魔術か、日本軍の新兵器か』って、大げさすぎるだろ」
「まだ続くかね?」
「なんにしても物騒だな」
新聞の下段には、不自然に開いたという穴の挿絵が載っていた。
*
同年同月同日同時刻
この夜は雨であった。闇の中、道にたまった水が複数の靴に蹴散らされている。同じ服を着ている清国人の若者が10人弱。向かう先は、ドイツ聖言会のキリスト教会だ。
張荘は小さな町だが、外には大きな影響力がある。西洋人がキリスト教会を作ってから、不当な利益を上げている地主や、周囲と問題をかかえた連中がここに逃げ込むようになったからだ。キリスト教の背後には、ヨーロッパ人たちの強大な武力が控えている。人を殺そうが女に乱暴しようが、教会の信者であれば、日頃の悪事も裁判もことごとく片がつく。
キリスト教とは、少なくともこの時代のこの国では、民衆の純朴な信仰をまもるための組織ではなかった。彼らは西からくる侵略者の
この日は諸聖人の祈りの日であった。聖堂を出ようとする2人のドイツ人たちに対して、集まった若者たちが声を荒げた。
「
「なんです! 何を乱暴な……」
神父への答えはなかった。怒りが言葉を深い場所に沈めているのだ。集団はめいめいに
「やった!」
「殺したぞ!」
声に遅れて2つの体が重なって倒れ、黒い血が雨にまじって広がった。
洋の東西を超える事件の開幕である。
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