此方と彼方のディスタンス

殻空@鵯

プロローグ

始まりの夕焼け、その色は目覚め

 夢だと自覚しているのにこれだけはどうにも慣れないらしい。嫌で嫌でそれでも忘れえない悪夢、その源泉に自分はいた。飛び交う怒号と爆発音、砂煙に混じる血の香り、崩落していく建物に下敷きになる人々。気が遠くなるほど叫び声を上げた。気持ちが悪くて、悲しくて、こんな理不尽を与えた神を只々呪ったあの日の光景。

 世界が地に墜ち、薄れかけた意識は最後に残った感情の欠片、それの僅かな衝動で元の形を成し、やり場のない激情を己が内に燻らせた。その色は『怒り』。在りし日のこの場所を襲撃した者たちに対する怒り、在りし日のこの場所を救う気配すら見せなかったやつらへの怒り、そして何よりも無能で無力で無責任な自分自身に対する怒り。だからこそ望んだ『復讐』を。そしてそれを果たしうる力を。


 その歪んだ祈りから先の記憶は曖昧だ。何かが抜け落ちる感覚の中で何か大事なものまで抜け落ちてしまったかのような錯覚。反転した視界に映る灰の世界。無音、無臭で背中に広がる柔らかな熱。自分を抱きしめ、一方的な別れだけを告げ立ち去っていく影。そして秘めた己が内から溢れ出るヘドロのような粘性を持った黒い炎。理解が追い付かなくて、理解したくなくて、でもこれは最初から知っていたことで、これが


——これがお前の力だ。息子よ


「まってよ…父さん」 


そんな自分の声に気づき目が覚めた。



 久々に酷い目覚め方をした。全身にびっしょりと寝汗をかいてTシャツが張り付き気持ち悪い。もう半年は見ていない悪夢であったためどうも油断していたらしい。濡れたTシャツを脱ぎ適当なタオルで汗をぬぐってから新しいTシャツを着る。そうして部屋のドアを開けリビングへ向かう。


「おはようございます、先生」

「おう、おはようさん。今日は遅い目覚めだな冬華」


 リビングではソファに座り朝刊を読みふける一つの人影があった。この人こそ自分が住むこの孤児院とは名ばかりの宿舎の主だ。こちらに返事をしてくれた彼に背を向け朝食の乗ったテーブルに向かい腰掛ける。


「先生、深月は?」


 朝食として準備されていた冷めたトーストにジャムを塗りながら、今ここいない生真面目な妹分の行方を尋ねる。


「冬華、もう9時だぞ? 深月なら『冬華さん叩いても起きないので先に出ます』ってぷりぷりしながら30分ぐらい前に他の奴ら連れて出たぞ」


 そう言われて時計を見ると短針は9を指していた。一瞬焦りで持っていたスプーンを手放しかけるが、今日の1時限目担当の教師の顔を思い出しジャム塗りを再開する。


「間に合わないので1時限目ふけります」

「そうか」


 そんな素っ気ない返事を気に留めることなくそのままトーストに喰らいつく。持っていたスプーンを端末に持ち替え、起動すると通知が届いていることに気付く。どうやら同じクラスの友人からだ。


『重役出勤ごくろーです。転校生が来たので写メりーした』

そう簡潔に締められた本文に添付された画像を開くとそこには、『セリア・グラッツェン』と投影されたディスプレイと、小柄な金髪少女が写っていた。


 今のご時世では特に珍しくもない金髪であるが、写真でもわかるほどの美形に凛とした佇まい、そして『グラッツェン』という大層な家名からなんとなく『奴』絡みの案件であることを感じ、文字を打つ。


『それで我らが主人公様の反応は? 塩反応じゃないだろう』


 送信。その後朝食を食べ終え、シャワーを浴び体のべたつきを落とし、登校準備を整え、玄関に出たところで端末が震えた。


『塩反応もくそもねーですよ。目が合ったかと思ったらお互いを指差して罵り合い。テンプレすぎる展開にゆみこちゃんはオロオロ。そして隣のクマやんが怒鳴り込んで来て二人は大目玉。ついでにとうかの欠席もクマやんがさらっと確認してたです』


「…ファック」


 つい口から本音が漏れる。しかしてグラッツェンとは随分と大御所な血筋の者が来たもんだ。

グラッツェングループの名を知らない者はこの都内にいないであろう。この都にて突如として観測されだした正体不明でその他へ代替し得るエネルギー、通称『魔力』のロジックを解明し、実用化を果たした最初の企業グループ。今では電池より仕組みが単純で何にでも使える『魔力結晶』——火、電気から土、鉄といったところまで、ありとあらゆるものを構築し得る原子或いはエネルギーの塊——を安定供給している工場主といったところだ。当然だが解明されたロジックは一部しか公開されておらず、一般市民である自分らにとっては感情の吐露によってそのエネルギーが発生するということぐらいしか教わっていない。

 とまあそんな大企業の御令嬢が偏差値もろくに高くないこんな一般的な高校に何故編入してきたかだ。当然分かるわけがないし、難しいことを考える脳もない。小市民な自分は只々面倒事を避けて穏やかな生活を享受したいだけだ。




「ちょっとあなた、さっきのは何、ふざけてるの?」


 さらば穏やかな生活、こんにちは面倒事の日々。どうもお昼の時間の水無月冬華です。本日一時限目の数学をふけり、二時限目の物理を保健室内でふけり、三時限目の一般魔導から出席した屑野郎です。四時限目の一般魔導演習が終わり、さあ購買だ。といったところで奴は現れました。そう、金髪美少女の転校生セリア・グラッツェンです。眼前で腕を組み、仁王立ちする彼女の姿から発せられるプレッシャーと言ったら…背丈で台無しでした。

 さて、どうやらご立腹のご様子であられるが、心当たりしかない。


「…おい勇希、お前転校生様に何をした?」


 自分が目線を向けた先には連れションならぬ連れ購買の相方、我らが主人公様である秋霧勇希の姿があった。しかしそいつは自分に胡乱げな視線を送ると。


「これ、セリアの矛先はどう見てもオレじゃなくて冬華に向いてるだろ」


 などと抜かしやがった。そこで腹を据えかねた自分はもう一人の相方の方を向き意見を求めようと…


「てめーが十割方わりーでしょーが。つまんねー茶番はやめて怒られちまえばいーですよ。この遅刻魔の屑野郎」

「…はい、すいません」


 無表情なジト目から突如受ける非難めいた視線と容赦無い言葉に心が折れ、否応なしに未だ腕を組んだままの転校生様に向き直る。


「それで、どう致した? 御令嬢」

「御令嬢って…ま、まあいいわ。私が怒っているのはさっきの演習についてよ。あなた、どうして途中で手を抜いたの?」


 ああ、心当たりアリだ。4時限目で行っていたのは魔導を使った2対2の模擬演習。運が悪かったのかそのときのペアは目の前の金髪令嬢でお相手は両脇の相方二人。途中経過は省くがあと一歩で詰めの時に自分は確かに力を抜いた。いや、力を出し切れなかったといった方が正しいかもしれない。結果としてそれは詰めにならず、押し負けた。彼女はそれにご立腹らしい。理由はあるがそれを説明する必要はないので、適当なことを言って誤魔化す。


「ああ、最後のあれか。あんたには悪いと思ったが、今日は体調が優れ無くてな、途中で気が抜けてしまった。足を引っ張ってすまない」


 嘘は言ってない。寝起きは最悪で体は重いし、集中力、判断力、思考力だって普段以下だと自覚している。だから何の問題もないはずだ。おいそこ、隠れてため息吐くな。


「嘘は…吐いてないみたいね。だけど、何か隠しているようにも感じるけど?」

「さてな、自分は思いつく原因を述べたまでだ。それ以外は知らん。行こうぜ勇希、赤花」


 他の理由を知ろうと喰らいついてきた彼女だが、当然話すことはなく早々に話題を切り上げることにした。勇希の方を見ると、その顔には困惑の表情が浮かんでいた。が、自分がそそくさと立ち去ると、慌てて付いてきた。もう一方の相方は一度溜息をついたっきり、その緋に近い明るい色の髪を揺らしながら、自分の横を歩きだした。途中、背後から『次は万全の状態で来なさいよ』と声をかけられたが、振り向くことも手を上げて返事することもしなかった。



 昼の購買は生徒たちで溢れかえっていた。当然の光景と言えばそうなのだが、見るたびにげんなりしてしまう。これからこの中に入って昼飯を買うのだと考えると余計にげんなりしてきた。

そしてなによりも


「冬華、どうしてさっきセリアに『輪っか…でぇあ!?」


 この個人情報漏洩野郎予備軍口の緩い馬鹿に説明しなきゃいけないということにげんなりしていた。この馬鹿が『輪っか持ち』と言いかけたところで足を蹴り飛ばしたのは朝の通知相手であり先ほどため息をつきまくっていた緋色のような髪の持ち主、赤花彩花。彼女は責めるような口調でその小さな口を開いた。


「馬鹿、てめーはそれだと周りに公言しまくってるからいーですけど、とうかはりゆーは知らねーですけどそれを隠してーんですよ。それくれー察しろこの色欲魔」


 先ほどもそうだが間延びした声にこの毒舌そしてジト目のコンボはこう何か胸にこみあげてくるようなものがあるような、無いような……やっぱないわ。

 そんな不毛な思考を他所に会話は続いていく


「な、なんで隠す必要があるんだよ」

「その答えは知ってるだろーさ。元々といえばゆうきんみたいに隠さねー方がおかしーんだよ。そいつは行き過ぎた力の証で、本来であれば排斥されてもおかしくねーレベルだ。ゆうきんが周りに受け入れられたのは制御がパーペキだって魔導局のお墨付きが出たからだろうに」

「むう、確かにそうだけど。なら冬華だって……いや悪い、忘れてくれ」


 自分の顔を見てハッとした勇希は自らの失言を悟ったらしく、ばつが悪そうな表情を浮かべた。不毛な思考に意識を割いており会話の流れを理解していなかった自分はその様子に困惑の表情を浮かべ赤花の方に視線をやると、露骨な溜息を吐かれた。


「…ゆうきんも悪気はねーだろうからそこまでにしてーな。うちは別にりゆーを詮索しよーとも思ってねーですけど、今日の件で目は付けられるだろーから理由諸共ばれるのは時間の問題だろーね。つーかとうか、話聞いてた?」

「いや、全く?」


 嘘を言ってもしょうがないので正直に答えるとまた露骨に溜息を吐かれ、やや軽視したようにその赤色の瞳を揺らす。そして急にこちらに近づき、耳元で囁くような声量で先ほどの内容を簡潔に説明してきた。


「よーはあの金髪令嬢にとうかが『輪っか持ち』だーって知られんのはすぐだろーねってこと」


 自分が『輪っか持ち』であること隠す理由を大体把握してるくせになかなかどうして冷たい奴だ。元々この二人に『輪っか持ち』であるのがばれたのはそれぞれ事故みたいなものだったし、こんなもんかもしれない。

 そんな風にして適当に思考をまとめると、空いてきた購買へ足を踏み入れる。確かにばれるかもしれないがその時はその時だ。ばれたときの自分がうまいこと切り抜けるのを祈るしかない。



『輪っか持ち』。魔導と呼ばれる術が在り来たりなこのご時世において、当然その道の素養を持った麒麟児というものが発見される。そいつは基本的に術を使用するのに必要な魔力結晶を介在させずに魔導を扱えるという反則じみた存在だが、感情の高ぶりだけで魔導が自然発生させてしまう問題児でもある。故にこの『都』ではそういった者に能力を制限する魔導抑制輪、通称『輪っか』を付けている。効果は確か、魔導が暴発するような激しい感情の吐露を抑える鎮静効果、自身に観測された余剰な魔導エネルギーを吸収し、放出する効果など他にも幾つかあったはずだ。

 とまあ、これのおかげで当時の魔導が危険なものという見解は大方減ったらしい。製作元は当然グラッツェングループだ。



 昼飯を食べ終え、午後の授業を乗り越え、迎えた放課後。金髪令嬢に連れられそそくさと教室を出ていった主人公様を見送っていると背中を叩かれた。振り返るとそこには帰りの支度を終えた赤花の姿があった。


「とうかーかえるぞー」

「お前さん、今日部活はどうした?」

「だりーサボる」

「お前もなかなかに屑だな。いい加減円谷さんキレるぞ?」

「ツブやんは滅多に怒らねーから大丈夫大丈夫」


 そう言いながら、手でこちらの帰りの支度を促す彼女に従っていると、聞き覚えのある声が近づいて来た。


「冬華さん! 何やってたんですか!?」


 辺り一帯の注目を集めつつこちらに走り寄ってきたのは一人の少女。長い黒髪に整った容姿、比較的色素の薄いその顔色は今ではお怒りの為かうっすらと赤みを帯びていた。彼女こそが同じ孤児院に暮らす、生真面目で心配性な妹分、桜ノ宮深月である。

 彼女は帰りの支度をしている自分の手を掴み、その華奢な腕からは想像できない程の抗い難き謎の腕力を見せ、人目につかない階段裏までボロ雑巾のように自分を引き摺っていった。取り残された赤花は無表情のままぽかんと口を開けて、呆気に取られていた。


「ちょ、待って摩擦。深月さん摩擦熱痛い!」

 布越しの尻にかかる暴力的な熱量に悲鳴を上げつつ辿り着いた階段裏。そこは普段であれば、密談や、告白に使われるようなスポットであるが、この時ばかりは違った。これはまさしく懺悔室。哀れな迷える子羊である自分は今、シスターミツキの下で己のうちに抱える罪を告白するのだ。妹分だけにシスターってな」


「やかましい!」


 そんな変な妄想が伝わってしまったのか、はたまた途中で声に出てしまったのか、シスターミツキからは怒りの声。瞬間感じる僅かな浮遊感。懺悔の時間は与えられず、与えられたのは冷たい壁との接吻であった。


「いったぁい!」


「さて、冬華さん少しお話しをしましょうか」


 口内を満たす鉄の味、そして未だ終わらぬシスターミツキのターン。このままでは命の危険もあり得ると思い、自分はすかさず正座の構えを見せ両手と頭を床につけた。所謂土下座である。


「誠に申し訳ございませんでした」


 血が滲んだ唇を噛み締め、予想される次の質問への回答を探すべく、今日の行いを振り返ることに思考を割り振ってゆく。あ、やばい。怒られる要素しか見当たらない。


「その謝罪は何に対してですか?」


 そんな予想通りの質問に、つらつらと自分の罪を告白していく。きっと不可抗力ってやつなんだそうに違いないと思いながら。


「登校時に連絡を入れなかったこと、保健室ベットの不法占拠、昼食の買い食い、午後の授業中ずっと寝てたこと」

「想定外でいろいろ聞きたくないことがあるのですが、あと一つ足りません」

「それは?」

「スマホをお開きください」


 背筋も凍るような感情のこもっていない無機質な声を聞き、胸ポケットに突っ込んでいた端末を取り出した。そして、電源を付けようとしたとこである異変に気付いた。


「あのー深月さんや」

「何ですか冬華さん。申し開きは家で聞きますが?」

「スマホがな、さっきの叩きつけられた衝撃でな、壊れたんじゃよ」

「……えっ」

「スマホがな、さっきの叩きつけられた衝撃でな、壊れたんじゃよ」


 大事なことなので……胸ポケットから取り出した壊れないことが売り文句であった端末の画面はビシビシに割れ、中身が見えるというか砕けてパラパラと落ちていた。

よく自分生きていたなと体の頑丈さに驚きながらそれを見せつけること数秒、訪れた沈黙と現実逃避を続ける自分の死んだ魚のような目に耐えられなくなったのか、シスターミツキが膝をついた。両手と頭を床につけ土下座。先ほどの焼き直しである。立場は逆だが。


「大変申し訳ございませんでした」

「まあいいさ。それでスマホ確認させてどうするつもりだったの?」

「通知無視を認識させお話しをしようと思ってました」

「壊れちまったけど」

「うぐ…」

「帰るか」

「…はい」


 自分が壁に叩きつけられて僅か数分。こうしてどこか釈然としないままシスターミツキの懺悔室はお開きとなったのであった。



 教室に戻ると赤花ただ一人が残っていた。彼女は椅子の背にもたれかかり、頭を後ろの机に預け、髪を机の上から垂らしながら目を閉じていた。近付いてみると、どうやら寝ているわけではなく、何かを考え中の様だ。ふと近くで顔を見てみると窓から射している夕焼けのせいか頬がうっすらと朱に染まっているように見えた。


「んー…とうかにみっつん? おせーですよ。うちがいつまで待ってやったと思ってるんですか」

「悪いな。堅物な妹分が言うこと聞かなくてさ。後で詫びるから許せ」

「ちょっと、元々は冬華さんが言いつけを守らなかったのが悪いんじゃないですか」

「つってもお前も赤花に対して非があるのは事実だろうに。現に、こうして一人ぼっちで待たせちまったんだし」

「うっ、それは…。ごめんなさい赤花先輩」

「んー? いいよーみっつんはかわいーから許す」


 そこまで言ったところで赤花は閉じていた目を開き、ゆっくりと立ち上がった。ふと見たその横顔に浮かんでいた表情はいつもの貼り付けたかのような無表情ではなく、感情を隠しきれていないかのような笑みであった。その時ばかりは笑みの理由を聞くという考えが出てこず、普段見せないようなその表情にただ見惚れてしまっていた。


「ど、どーしたとうか。ハトが豆鉄砲を食らったかのような顔をして」

「あ、いや何でもない。それよりも早く帰ろうぜ」


 掛けられた声に少し慌てた声色で反応し、僅かに上昇した心拍数を誤魔化すように荷物を背負う。そのまま二人より先行して教室を出ると『まてー』という声が聞こえた。普段より少し気の抜けていて、楽しそうな感情が乗った声。なんとなく恥ずかしくて、下駄箱で追いつかれるまで後ろを振り向くことはしなかった。


 なんてことない日常、なんてことない一日。だけどそれは少しずつ別の何かに変わり始めていた。

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